「それでも、折れない心」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。
新田百合 一年生。日向に好意を寄せている。
白崎先生 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
「それでも、折れない心」
テストを終えた後の、放課後の図書室は静かだ。
みんな部活や遊びで忙しいのか、いつもより生徒が少ないような気もする。
授業が終わった後、彼方は自分と目も合わさずに、教室を出て行ってしまった。
放課後に飼育委員の仕事があるのはわかる。
けれど、彼方は今日一日、自分を避けているような気がしていた。
思えば、今日学校で彼方と一言も会話を交わしていない。
朝は、何か考え事をしているように口数も少なかったし、
いつもなら自分にベッタリとくっついてくるのに、それもない。
確実に彼方の様子はおかしい。
ふいに、前に彼方が海へ消えようとした時のことを、思い出す。
また何か一人で悩んでなければいいが、と日向は思う。
嫌な予感がする。
彼方が、離れていくような、消えてしまうような。
そんな嫌な予感がする。
日向は、早く下校時刻になればいいのに、
そう思いながら、本に視線を落とした。
日向は特別本が好きだというわけではない。
ただ、図書委員の仕事は、言うほど仕事が多いわけでもなく、
その割に時間が長いため、暇つぶし程度に読むだけだ。
別に、読書が苦手というわけではないので、
適当に興味のありそうな本を読んで、時間を潰す。
しかし、今日はページが進まない。
文字が頭に入ってこない。
考えるのは、彼方のことばかりだった。
何故、彼方はいきなり髪を染めると言い出したのか、
自分を避けている理由はなんなのか、何を考えているのか。
そんなことをぐるぐると考えていると、下校時刻のチャイムが鳴る。
日向は、一刻も早く仕事を終わらせて、飼育小屋へ向かいたかった。
まばらに図書室にいた生徒たちが帰っていく。
図書室に残るのは、日向と、いつもの少女だけだった。
その少女は、辺りをキョロキョロと見渡して、
自分たち以外、誰もいないことを確認してから、日向のいるカウンターの方へ来る。
その少女は、毎回日向が読んでいた本を借りていく。
長い黒髪を後ろで一つに纏めた、小さな体の一年生。
新田百合だ。
「貸し出しか?」
慣れたように日向が言うと、百合は静かに首を振った。
そして、百合はもう一度周辺りを見渡す。
「あの…っ。今日は…日向先輩に、話があるんです。」
そう言った百合は、緊張しているようにわずかに声が震えていた。
「話…?俺に?」
日向は、不思議そうな顔をして、首を傾げる。
何の話か、まったく見当がつかない。
この少女とは、図書室でよく会うことはあれど、
貸し出しの時に、本の話を少しする程度だ。
しかも、何の接点もない一年生。
そんな彼女が、自分に話などあるのだろうか。
「私…日向先輩のことが…好きです。」
両手を胸の前で組み、真っ直ぐに自分を見つめる百合。
緊張のせいか、少し声が裏返ったようだった。
「え…それって…。」
日向が戸惑い、言葉を失う。
百合はそんなことを構わずに、言葉を続ける。
「ずっと…ずっと、見てました。
日向先輩に会いたいから、毎週図書室に通ってました。
毎週、日向先輩が読んだ本を借りていくのも、
日向先輩のことを、もっと知りたいと思ったからです。
好き…です。付き合ってください…っ。」
百合は、緊張のせいか、早口に言いきって、首を垂れる。
突然のことに、ただただ日向は驚いた。
ふいに、喫茶店での将悟との会話を思い出す。
―元をたどればこいつが原因だろ!
―お前の弟が、こいつの好きな女のことを強姦しようとしていたんだ。
―その子はお前のことが好きだったらしくて、
お前の弟がお前のフリして、弄んだ。
自分と接点がある女なんて、この子くらいしかいない。
自分に好意を持っている人間なんて、きっとこの子しかいない。
ということは、あの時、彼方が手を出した女というのは、この子ではないのか。
この子は、自分が原因で酷い目にあったのではないか。
「ちょっ…ちょっと待て。…俺の、弟のこと…知ってるか?」
戸惑いながら問う日向に、百合は顔を上げて向き直る。
「はい。そっくりですよね。…でも、全然違いました。」
百合は少し悲しそうな顔をして、しかし、はっきりとした口調で言う。
凛とした芯の強い声。
「その…。先週…。」
なんと伝えていいのかわからない日向は、口ごもる。
百合は日向の言おうとしていることを察し、首を振る。
「いいんです。あれは、…日向先輩じゃないって、気付けなかった…私が悪いんですから。」
やはりこの子だ。
彼方が傷付けたのは、この子だったのだ。
「ごめん…。」
日向は、何と言っていいのかわからず、小さく謝罪することしかできなかった。
謝っても、謝りきれない。
謝ったところで、許されるわけがない。
そんなことはわかっていても、紡ぐ言葉が思いつかない。
「どうして、日向先輩が謝るんですか?」
「だって…彼方が、ひどいことを…したんだろう?」
百合の迷いのない真っ直ぐな瞳が、日向を見つめる。
日向は後ろめたさに、その瞳を見ていられず、目を逸らす。
「そうですね。…でも、それは日向先輩が悪いわけじゃない。
それに…坂野先輩が、代わりに殴ってくれましたし。」
百合は、少し意地悪そうに笑う。
「なんで…そんなに、平気そうなんだ?」
彼女は告白するときに緊張しているような素振りは見せたけれども、
怯えや不安は、一切見せなかった。
あんなことが、あった後なのに。
「それは…坂野先輩にも言ったんですけど、
”誰に何をされようと、何を言われようと、私が好きなのは日向先輩です。
それは今でも変わりません。”って。
だから、あんなことがあっても、全然関係ないんです。私は、平気です。」
あんなことをされて、何故そんなに強気に笑えるのか。
何故それほど真っ直ぐに、自分のことを想えるのか。
「というより、あんなことがあったからこそ、ちゃんと伝えなきゃと、思ったんです。
自分の気持ちに嘘はつきたくないから。日向先輩が好きな気持ちは、本物だから。」
強い意志を持った眼差し。
彼女は真剣そのものだった。
ならば、こちらも誠実に答えなければならない。
その答えが、相手を悲しませることになったとしても。
「…ごめん。付き合うとかは…できない。」
目を伏せ、日向は呟く。
百合を見るのが、怖い。
きっと、彼女は泣いてしまうだろうから。
「…わかってました。日向先輩は絶対そう言うだろうって。」
静かな、落ち着いた声。
フラれる覚悟できたのだろうか。
視界の隅で、悲しさを堪えるように、ギュっと拳を握るのが見えた。
「新田の気持ちは、本当に…本当に、嬉しいけど…、
次、もし…何かあったら、と思うと…。」
彼方の、自分に対する執着や異存は、普通じゃない。
今は素っ気なくても、いつまた、そうなるかわからない。
だったら、この好意は受け取れない。
「…はい。日向先輩は…優しいから。きっと、そう言うんだと、思ってました。」
百合の少し震える声に、視線を上げる。
小さく呟く百合の瞳には、涙が溢れそうになっていた。
必死で涙を流すまいと堪える姿は、痛々しかった。
「…本当に、ごめん。…誰かが傷つくところは、見たくないんだ…。」
自分勝手だとはわかっている。
けれど、百合のためでもある。
それなのに、傷付けたくないと言いながら、まさに今、目の前の少女を傷つけている。
自分はなんて傲慢なんだと、日向は思う。
百合は両手で顔を覆う。
―ああ、泣いてしまう。
その姿を見るのが辛くて、日向はまた目を逸らす。
しかし、百合は一度涙を拭うような仕草を見せた後、
先程のように、日向を真っ直ぐに見つめた。
「でも私は、いくら傷ついたとしても、
…日向先輩を好きな気持ちは、絶対に変わりませんよ。」
強気で、真っ直ぐな笑顔。
彼女はなんて強いのだろう。
いや、きっと強くなんてない。
自分に気を使わせないように、必死で平静を装っているのだろう。
思えば、彼方も百合も、真っ直ぐな愛情を伝える。
平然と「好き」だと言えるのが、すごいと思った。
ずっと一緒にいられる保証も、ずっと好きでいられる保証も、どこにもないのに。
自分はそんな無責任なこと言えない。
きっと愛情はなくなる。環境も変わる。永遠なんてないのだ。
だから日向は「好き」だとは言わない。言えない。
人に「好き」だなんて、怖くて言えない。
けれど、何も疑うことなく、純粋に「好き」だと言える百合が、少し羨ましく思った。
―…彼方以外に好きだと言われたのは、初めてだな…。
「でも…なんで、俺なんかを…?」
優しくしたわけでもない。
好かれようとしたわけでもない。
何故この少女は自分を想うのか。
「うーん…気づいたらいつの間にか、好きになってました。…でも、」
顎に手を添えて、考えるように言う。
そして一息切って、続ける。
「寂しそうな人だな、って思ったんです。」
「…寂しそう?」
百合の目に映る自分は、どんな顔をしていたのか。
「なんだか、私と違う世界に生きているみたいで…。
日向先輩のこと、知りたいと思ったんです。
そしたら…いつの間にか好きになってました。」
違う世界。
日向の世界には、自分と彼方しかないなかった。
そんな狭く寂しい世界に生きていた自分を、この少女はずっと見ていたのか。
「そんな大した人間じゃないよ、俺は。」
「そんなことないですよ。
でも、私…フラれても、諦めませんから。」
想いが叶わなくとも、強気に笑う彼女は、綺麗で強い人間だと思った。
羨ましいくらい、自分にないものを、たくさん持っている。
けれど今は、日向には、彼方しかいなかった。
離れなければいけないのはわかっていても、その手を離せずにいる。
むしろ離したくないとさえ、思ってしまっている。
それでも、いつか、この少女の手を取る日がくるのだろうか。
彼方以外の誰かを、選ぶ日が来るのだろうか。
そんなの、想像もできない。
なのに、自分と彼方だけで完結していた世界が、変わっていくのを感じていた。
むしろ、彼方がその世界を飛び出して行くことを、望んでいるように思えた。
自分も、変わらなければいけない。
けれど、誰かの手を取る勇気がなかった。
誰かを傷つけたり、自分が傷ついたりするのが、怖かった。
「今は…ごめんな。」
呟いた言葉に、百合は少し悲しそうに笑った。




