「本当の思いと本当の気持ち」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。
新田百合 一年生。日向に好意を寄せている。
白崎先生 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
「本当の思いと本当の気持ち」
早朝の図書室には、相変わらず誰もいなかった。
亮太は、眠い瞼をこすり、机に伏せっていた。
結局二日ともテストは全滅。
最終日の今日も、勉強なんて集中できなくて、教科書は手つかずのまま、
無心でゲームを操作して一夜を明かしていた。
あれほど開くのを躊躇った手紙は、たった一行しか書かれていなくて、
そのシンプルすぎる一言からは、百合の気持ちなんて全然伝わって来なくて、
ただただ、不安に駆り立てられた。
早朝の静かな図書室には、音などなくて、空虚な何もない空間に思える。
自分は、百合の恋路を応援していたはずだ。
けれど、真っ直ぐに日向を見つめる百合に、どうしようもなく惹かれてしまった。
百合が日向とくっつけば良かったと思えたはずなのに、
今は自分の気持ちが、それを邪魔しようとする。
亮太は、百合も日向も大事だ。
大事だからこそ、この感情に蓋をしなければならない。
そう思うけれど、自分はそんなにできた人間ではない。
でも、二人とも失いたくはない―。
そんなどうしようもない気持ちが、ぐるぐると渦巻く。
将悟には強がって見せたが、一人になってこんなことを考えていると、
自分の決意なんて、ちんけなものだと思った。
軽率に告白したところで、百合との関係、日向との関係が壊れるのも怖い。
それに、きっと百合には振り向いてもらえない。そんなことも、わかっている。
亮太は、今朝から何度目かわからないため息を吐く。
窓から見える夏の空は高く、まるでどこまでも続いているように見えた。
手を伸ばしたところで、届くはずもない―。
そんな感傷に浸っていると、ふいに図書室の扉が開く。
「あ、おはようございます。早かったですね坂野先輩。」
いつもと変わらない、百合の明るい笑顔。
夏の暑さのせいか、長い髪は後ろで一つに纏めていた。
亮太は髪を結んだ百合を見て、新鮮で、可愛らしいと思い、見とれてしまう。
「どうしたんですか?口、開いてますよ。」
口を開けて黙ったままの亮太を見て、
百合は可笑しそうに口元を上品に手で覆って笑う。
その言葉に我に返った亮太は、恥ずかしそうに両手を横に振り、
わざとらしく取り繕って見せる。
「いや、なんでもないっ!ホント、なんでもないからっ!」
「相変わらず、坂野先輩って変ですよねえ。」
そんな亮太を見て、百合は笑ったまま、
机に鞄を置き、亮太の向かいの席に腰かける。
「っていうか…その、もう…大丈夫なのか?」
亮太は少し言い辛そうに、百合から目を逸らして問う。
百合の目は、真っ直ぐ亮太を見据えていた。
「…大丈夫か、大丈夫じゃないかって聞かれたら、大丈夫ですよ。
私、結構図太いんです。だから、平気です。」
百合の凛とした声が静かな図書室に響く。
その声は、芯が通っていて、真っ直ぐだった。
「…無理してない?」
亮太の、百合の身を案じる言葉に、百合は顔色一つ変えずに、語る。
「ええ。あんなことがあって、傷ついたというよりも…、
私、腹が立ったんです。」
「腹が立った?」
「日向先輩じゃないって見抜けなかった、自分自身に。」
吸い込まれてしまいそうな、真剣な百合の瞳。
「あの時は、勝手に舞い上がって、日向先輩じゃないって気付けなかった。
ただ遠くから見つめて、同じ本を読んで、
勝手に日向先輩のことを、わかったつもりでいた自分に、腹が立ったんです。
そんなの…あまりにも日向先輩に失礼じゃないですか。」
「百合ちゃん…。悪いのは、彼方だろ?」
亮太は、彼方ではなく、自分を責める百合に、戸惑う。
「…あの人に悪意があったとしても、好きな人を間違えた私が悪いんですよ。
だから今日、ちゃんと日向先輩に告白しようと思うんです。」
その言葉に、亮太の心が揺れる。
応援してきたはずなのに、胸が締め付けられるようだった。
「あんなことがあった後なのに…?」
「誰に何をされようと、何を言われようと、私が好きなのは日向先輩です。
それは今でも変わりません。」
凛とした声は、揺らぐことがなく、真っ直ぐに亮太の耳に入ってくる。
「私は、自分の気持ちにだけは、嘘を吐きたくないんです。」
真っ直ぐな目。
百合には迷いなど、ないのだろう。
「…そっか。応援、してるよ。」
心にもない言葉を口にする。
本当は百合の恋愛成就を願っていたはずなのに、
その言葉を発するのは、少し気が引けた。
「まあでも、きっとフラれちゃいますけどね。」
そう言いながら百合は困ったように笑う。
「そんなの、わかんないだろ?」
先程までの自信に満ち溢れた百合とは違い、
少し弱弱しく目を伏せる。
「…わかりますよ。日向先輩は優しい人だから。
あんなことがあった後だからこそ、引け目を感じて、
私の気持ちには答えてくれないと思うんです。」
悲しそうに笑う百合が、とても儚く見えた。
束ねた長い黒髪も、寂しそうに揺れる。
「百合ちゃんは、それでいいわけ?」
「はい。…フラれるのはわかっていますけど、でも、
ちゃんと自分の口で伝えないと、私が前に進めないんです。」
亮太は、そんな悲しみを堪えて健気に笑う百合が、強い少女だと思った。
その小さな体を、気高い心を、守ってあげたい、とさえ思った。
けれど、そんなことを思っても、自分に百合を守る資格なんてない。
「…百合ちゃんは強いな。
俺は、フラれるのをわかってて、告白なんかできないや。」
「それは…坂野先輩も、好きな人いるんですか?」
聡い百合は、亮太の言葉の裏を汲み取り、
興味深々といった様子で亮太を見つめる。
「…うん、まあな。でも絶対叶わないって…わかってるから。」
目を逸らす亮太に、百合は身を乗り出すようにして、諭そうとする。
「そんなの…わからないじゃないですか。
ちゃんと自分の気持ちを相手に伝えないと、わからないじゃないですか!
勝手に相手の気持ちを決めて、諦めるなんて、どうかしてますよ。」
百合の真っ直ぐな瞳に飲み込まれそうになる。
「自分の気持ちに嘘ついて隠し通しても、きっと一生後悔します。
そんなの…坂野先輩の気持ちが可哀想です。」
「百合ちゃん…。」
―…後悔すんなよ。
真っ直ぐな百合の言葉。
ふいに、将悟の言葉を思い出す。
―きっと、今伝えないと、後悔する。
亮太は深呼吸をするように、ゆっくりと大きく息を吐く。
そして、百合に向き合う。
「俺の好きな人はさ、小っちゃくて可愛くて、意外と強気なんだけど、
ちょっとマヌケなところもあって、そこがまた可愛くてさ、
真面目で、真っ直ぐなくらい素直な子なんだ。」
情けなくも、声が震えそうになる。
緊張で手の平にじんわりと汗をかく。
そんな自分を奮い立たせるように、真っ直ぐに百合を見つめる。
「百合ちゃん、俺…百合ちゃんのことがっ、…好きだっ…。」
好きだと口に出した瞬間、急に恥ずかしくなり、目を伏せてしまう。
膝の上で握った拳が、わずかに震える。顔が熱い。
緊張と恥ずかしさで、きっと今の自分の顔は、真っ赤になっているのだろう。
情けないほどの不安で、恥ずかしい顔をしているのであろう。
そんな顔を、百合には見られたくない。
亮太は、俯き、静かに、百合の言葉を待つ。
「え…?嘘…。」
百合は口をポカンと開け、言葉もろくに出ないくらいに驚いているようだった。
しばらくの沈黙の後、亮太が口を開く。
「百合ちゃんは日向のことが好きだって、ちゃんとわかってる。
だから、返事はいらないし、二人の邪魔をする気もないから。
でも、…でも、もし、できたら…今まで通り接してほしい。
…なんて、無理だよな?」
勝手なことを言っているのは、わかっている。
笑われても仕方ないくらい、情けないこともわかっている。
この想いが叶わないことも、ちゃんとわかっている。
それでも、百合の口から否定の言葉が発せられるのが、怖かった。
亮太の切なそうな表情を見て、百合は平静を取り戻すように、静かに口を開く。
「…私、これでも坂野先輩には感謝しているんですよ。
きっと坂野先輩がいなかったら、
私は日向先輩に、告白しようとなんて思わなかったと、思うんです。
日向先輩が私を選んでくれるなんて、思えなかったから。
何も言わずに、ただ見つめるだけで、自分の気持ちに蓋をしようと思っていました。」
百合はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「でも、坂野先輩がいたから、私は前へ踏み出せたんです。
坂野先輩が私の背中を押して、相談に乗ってくれて、私を…助けてくれて。
それが、すごく、嬉しかった。私は坂野先輩に、救われたんです。
だから、これからも…私の相談のってくださいね。」
そう言った百合は、清々しいほどの笑顔で、
紡ぎだされた言葉は想像よりも遥かに優しいもので、
亮太はその笑顔に見蕩れた。
―ああ、そんなこと言われたら、もうどうしようもないな。
将悟が教室に入り、自分の席に向かうと、昨日と同じように亮太が机に伏せていた。
―まーた徹夜でゲームかよ。
そう思いながら、亮太に声をかける。
「おはよ。また徹夜か?」
その声に、亮太は静かに顔を上げる。
「亮太?」
いつもと少し様子が違う亮太に、将悟は心配そうに顔を覗き込む。
その顔は、徹夜で疲れているというよりも、どこか落ち込んでいるように見えた。
「…フラれてきた。」
「は?」
「百合ちゃんに。」
目を背けたまま、亮太が切なそうに呟く。
「告ったのか?」
「…おう。」
「困らせたくないとか、言ってたくせに。」
「お前だってこのままでいいのかよ、とか言ってただろ。」
「まあ、な。…とりあえず、お疲れ。」
短い言葉を交わしながら、将悟は席に着く。
ため息を吐きながら遠くを見つめる亮太。
いつもの底なしの元気な姿は、なかった。
亮太が落ち込んでいると、なんだか自分も落ち着かない。
強がっていても、百合に向けた気持ちは本物だったのだろう。
将悟は小さく呟く。
「そんなすぐに忘れられるものでもないし、今はそのままでいいんじゃね?」




