「裏切りの決意」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。
新田百合 一年生。日向に好意を寄せている。
白崎先生 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
「裏切りの決意」
二日目のテストも終わり、HRの終わりを告げるチャイムが鳴る。
廊下の外からは、帰路に着く生徒たちの、少し騒がしい声が聞こえ始めていた。
彼方は相変わらず、保健室のベッドに身を沈め、窓の外を眺めていた。
窓を開けていても、夏の日差しが余計に暑さを感じさせる。
日向くらいしか、自分に会いに来る人間はいないだろう。
そう思った彼方は、上着を脱いで、長袖のシャツの袖を肘まで捲っていた。
袖から覗く自分の腕には、醜い痣がたくさん残っている。
紫色に変色した、まだら模様の腕。
―今日も、お母さんが家にいるのかな。
家に帰るのが憂鬱になる。
けれど、学校にもいたくない。
どこか遠くへ、行きたい気分だ。
いっそ、消えてしまおうか。
そんな馬鹿なことを考えていると、保健室の扉を開ける音がした。
保健室の先生だろうか。それとも日向か。
申し訳程度のカーテンの仕切りで、こちらからはその人物が見えない。
彼方は捲っていた袖を戻して、起き上がる。
その人物は静かに、真っ直ぐにこちらに歩いてきた。
「高橋。」
迷いなくカーテンを開けて、顔を出した人物は将悟だった。
その金の髪が太陽に反射して、キラキラと輝いていた。
「…中村君?」
意外な来客に、彼方は少し身を強張らせ、シャツの袖のボタンを留める。
「…何の用?」
警戒しているように、彼方は自分の袖をギュッと握りしめる。
将悟は構わず、彼方が座るベッドに腰掛ける。
「お前さ、何がしたいわけ?」
顔だけを彼方に向けて、真っ直ぐ見つめる将悟。
その声は、少し苛立っているようだった。
「…何って…何が?」
なんとなく、察しはついていた。
けれど彼方は、問うことしかできなかった。
「アイツにべったりくっついてると思ったら、
アイツに好意を寄せる女に乱暴したり、
やっと学校来たかと思ったら、テスト受けずに保健室でサボり。
お前は何がしたいわけ?アイツをどうしたいわけ?」
将悟は、捲し立てるように言う。
アイツとは日向のことだろう。
刺さるように、真っ直ぐ見つめる将悟の視線が、痛かった。
「そんなの…中村君には関係ないじゃん。」
「関係なくはないだろ。あの日から、俺も巻き込まれてんだよ。」
将悟の鋭い瞳が、彼方を映して離さない。
「…中村君が、勝手にそう思ってるだけでしょ。」
吐き捨てるように言う。
彼方は将悟の目を見ていられずに、顔を背ける。
「お前はアイツのなんなの?恋人ごっこのつもりか?
ご丁寧に、あんな見えやすいところに噛み跡まで付けて。」
「…っなんで知って…」
「独占欲で自分のモノってアピールか?お前、アイツをどうしたいんだよ。」
戸惑う彼方を、将悟は鼻で笑う。
どうしたい、だなんて、明確に答えられるわけがない。
「なんだっていいでしょ…。日向は…僕のだよ…。」
消え入りそうな彼方の声を掻き消すように、将悟は強く言う。
ブレることのない真っ直ぐな瞳が、苦しい。
「そんなわけねえだろ。アイツは誰のものでもない。」
「違う…。日向は、僕とずっと一緒にいるんだ。今までも、これからもっ…!」
呼吸が、苦しいような気がした。
否定されるのが、辛い。
彼方は自分を落ち着けるように、胸元に手を当てる。
「アホか。ずっと一緒にいられるわけねえだろ。
人は変わる。変わっていかないといけないんだよ。
お前だって、アイツだって変わっていくんだよ。
お前の言ってるのは、ただのガキの夢物語だ。
ずっと一緒になんて、いられないんだよ。
お前は、…アイツと離れるべきだ。」
嫌な感じだ。思考がぐるぐると回る。
自分に向けられている言葉が、確かに聞こえているはずなのに、
理解が、できない。
「そんなんで、お前これからどうするつもりなんだよ。
いつかは、…一人で生きていかないといけないんだぞ?」
「…っ!」
呼吸が、浅くなる。
ふいに、保健室の扉が開いた音がした。
誰か来たのだろうか。
視界が、霞みがかって見えているような感じがする。
また、この感覚だ。
「彼方…と中村?…何やってるんだ?」
カーテンを捲って現れたのは日向だった。
自分を迎えに来てくれたのだろう。
日向は、彼方の横に座る将悟に、意外そうな顔をした。
「…ちょっと話してただけだ。」
将悟が日向の方を向き、小さく言う。
日向が彼方の方を見ると、彼方は少し苦しそうに、胸に手を当てていた。
―まさか、過呼吸…?
「日向…っ、帰ろう…。」
彼方は少し苦しそうに口元に手を当てて、立ち上がる。
呼吸が少し荒い。額からは、汗が少し流れていた。
「彼方…大丈夫か?」
その様子に気付いた日向は、彼方に駆け寄る。
発作を必死で押さえているようだった。
「大丈…夫…だから…っ。」
そう言いながら、彼方は足元がふらつき、ベットに手をついてうずくまる。
「彼方…っ!」
「おい、どうしたんだ…?」
過呼吸だ。
彼方は、肩を上下させて、苦しそうに荒い息を繰り返す。
日向も将悟も、心配そうに彼方に声をかける。
「はあっ…はぁっ…。」
「彼方…っ!大丈夫か…っ!?」
彼方はただ、荒い呼吸を繰り返すだけだ。
日向は、彼方の背中をさすることしかできない。
「…過呼吸か。」
将悟はそんな彼方の様子を見て、少し考えた後、冷静に日向に言う。
「おい、ハンカチとかタオルとか、持ってるか?」
「なんで…そんなもの…?」
「いいから、早く。」
日向は戸惑いながら、自分の鞄からハンカチを一枚将悟に差し出す。
将悟はハンカチを受け取り、迷わず彼方の口元をハンカチで覆う。
「いいか?息を吸うんじゃなくて、吐くことに集中しろ。ゆっくりでいいから。」
「えっ…?…はぁっ…、はぁっ…。」
冷静に言う将悟に、彼方も戸惑いつつ、
将悟の言うとおりに、呼吸を吐き出そうとする。
しかし、なかなか上手くいかないのか、荒い呼吸は続く。
「ゆっくりでいいから。大丈夫だから。」
将悟は、彼方を落ち着けようと、声をかけ続ける。
その声は、心なしか、優しい気がした。
しかし、日向はただ、黙って見ていることしか、できない。
何もできない自分が悔しいというより、ただただ、戸惑うだけだった。
「そうだ。腹に力入れて、ゆっくり息を吐け。」
少しずつだが、徐々に彼方の呼吸が安定してくる。
いつもよりも、発作が治まるのが早い気がした。
将悟の適切な処置のおかげだろうか。
しばらくして、彼方の呼吸は完全に落ち着いた。
「…なんで…こんなこと…。」
自分を助けるような素振りを見せた将悟に、戸惑いを隠せない彼方。
「…そういうつもりじゃなかったんだ。…悪かったな。」
将悟は素っ気なくも、申し訳なさそうに、彼方に謝る。
冷静な判断、適切な処置。
日向には、将悟が過呼吸の処置に慣れているように見えた。
何もできない、日向と違って。
「中村…なんでこんな方法知ってるんだ…?」
「…別に。…慣れてるから。」
将悟は言いたくなさそうに、顔を背けて立ち上がる。
「まだ少しふらつくだろうから、ちょっと休んでから帰れよ。…じゃあな。」
そのまま振り返りもせずに、保健室を出ていく将悟。
二人はその背中を無言で見送る。
「…中村と、何話してたんだ?」
「別に…なんでもないよ。」
そう言って口を噤んだ彼方は、俯いて何かを考えているようだった。
将悟がトイレに行き、日向が帰った後、
亮太は一人残された教室で、百合からの手紙を握りしめていた。
中身を見るのが、怖いような気がして、
開封せずに、ただ見つめることしかできなかった。
開けてしまえば、何かが変わってしまうような気がしていたから。
百合はきっと、今でも日向のことが好きなのだろう。
彼女は真っ直ぐで、強い人間だ。
ブレることがない、素直な人間だ。
百合の気持ちは知っている。
だからこそ、自分は黙って見守ろうと決めたのだ。
彼女が幸せになるならば、この気持ちに蓋をできると、思っていた。
この手紙には、何が書かれているのだろう。
見たいような、怖いような気持ちになる。
知りたい。けれど、知りたくない。
矛盾した感情が渦巻く。
―このまま、何も変わらなければいいのに。
しかし、将悟に渡したということは急ぎの用事ではないだろうか。
亮太は手紙を見つめ続けて、長い時間が経っているような気がした。
いつまでもこうしてはいられない。
亮太は震える指で手紙を、丁寧に開ける。
そこには便箋が一枚、几帳面に折られて入っていた。
可愛らしい星を模った便箋。
その便箋には、短い一言だけが、綺麗な字で書かれていた。
―「明日の朝、図書室で待っています。」




