「波を掴む手。」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。
中村将悟 クラスメイト。
矢野千秋 クラスメイト。
新田百合 一年生。
白崎先生 精神科医
「波を掴む手。」
玄関がしまった音を確認して、彼方は再びリビングに降りる。
日向が学校へ行き、片づけられたリビングは、なんだか少し寂しく感じる。
その部屋の片隅に、綺麗に畳まれた日向の部屋着を見つける。
日向は器用でマメだ。
掃除や片付けも得意だし、整理整頓が身についている。
いつも彼方が脱ぎ散らかした服を畳んだり、
靴を揃えたりするのは、日向の役目だった。
何も言わずに、彼方の身の回りの世話を焼いてくれる。
そんな日向の優しさが、身に染みる。
今も机の上には、彼方の食べかけの朝食が、綺麗にラップをかけられていた。
その冷めきったはず食事は、何故かとても暖かい気がした。
しかし、今は食欲がない。
仕方なく、その綺麗にラップをかけられた食事を、冷蔵庫に入れる。
日向がいなくなった部屋は、とても広く感じた。
家にいたってすることがない。
無意味に孤独を噛み締めるだけだ。
彼方は、どこかへ、行きたい気分だった。
家からほんの少し歩けば、そこは誰もいない静かな海が広がる。
彼方は、砂浜に立ち尽くし、寄せては返す波をただ見つめた。
それはまるで日向のようだった。
寄せては返す。それを繰り返す。
つかず離れず、…離れず。
突き放そうとしては、優しくする。
優しくすれば、突き放す。
その波を手で掴んでみようとしたところで、
海水はただ、あざ笑うかのように、彼方の手をすり抜けていく。
日向は未来へ進もうとしている。
じゃあ自分は?自分には何がある?何ができる?
何もない。空っぽだ。
日向のように、手先が器用なわけではない。
亮太のように、スポーツができるわけでもない。
将悟のように、楽器なんて弾けない。
普通の生徒のように、勉強ができるわけでもない。
いつも自分は、日向に助けられてばかりだ。
一人で何もできない。
それなのに、日向と離れるなんてことを、考えたくなかった。
飽きもせずに、波は寄せては返す。
ゆらゆら、ゆらゆら。
その水面は、独りぼっちの自分だけを映していた。
みすぼらしい、情けない顔。
―日向は、カッコいいのになあ。
同じ顔のはずなのに、全然違って見える。
日向は優雅で華麗で孤高。まるで凛と咲く花のように綺麗だと思う。
自分なんかと全然違う。日向は強く、高潔だ。
そんな日向と比べると、自分は下水道を這い回る、薄汚れたネズミのようだと思う。
一人で何もできない。弱くて狡い。
誰の目にも触れないように、隠れていたい。
どうしようもなく甘ったれで、卑怯だ。
こんな自分に未来なんてない。
聞きたくない言葉から逃げ、箱庭を壊そうとする人間を傷付け、
それでも自分は守られていたい、だなんて、あまりにもムシが良すぎる。
そんなことは、わかっている。
けれど、この箱庭を壊す勇気がない。
ずっと、一生、このままでいられたら、どれだけ幸せだろう。
未来なんてなければいいのに。
卒業なんてなければいいのに。
変わることのない今が、ずっと続けばいいのに。
いっそ、あの綺麗で繊細な手で、自分を殺してほしい。
昨日、日向が何を思ったのかは、知らない。
けれど、自分の望むまま、この呼吸を止めてくれたら、どれだけよかったことだろう。
きっと、またいろんな人を傷つける。
日向も、ほかの人間も。
そして日向を苦しめる。
そうなる前に、自分を消してほしかった。
他の誰でもない、大好きな日向の手で。
そんなことを考えているうちに、太陽はてっぺんまで来ていた。
強い日差しと、夏の暑さが身を焦がす。
虐待の痕を隠す長袖のパーカーは、この季節には全く合っていなかった。
こんな誰もいない海なら、脱いでしまおうか、と考える。
しゃがみ込んで、波に手を遊ばせると、冷たい感触が心地よかった。
―泳ぎたいな。
ゆらゆら揺れる水面とにらめっこをしていると、不意に背中に衝撃が走る。
「う、わぁっ!」
何かに押されて、その水面に、頭から突っ込む。
驚いて振り返ると、
そこには彼方の腰くらいまでの身長がありそうな大きな犬がいた。
遊んでくれと言わんばかりに、彼方に懐いてくる。
「え?なんで…犬?」
じゃれつく犬に、びしょ濡れになった彼方は、ただ茫然としていた。
「すいませーん!大丈夫ですかー!?」
遠くから女性の声がした。
海岸を見渡せば、遠くから、よたよたと走りながら、女性が手を振っていた。
犬をよくみると、首輪とリードをつけていた。
「ごめんなさい。私がリードを離しちゃったから…。」
近づいてきた女性は、申し訳なさそうに、彼方にタオルを差し出す。
全身びしょ濡れになった体は、タオル一枚でどうこうできるわけではないけれど。
「ああ、大丈夫です。家も近いし。」
「本当にごめんなさい。この子、初めての海で大はしゃぎしちゃって。」
何度も頭を下げ、彼方に謝る女性。
歳は20代後半くらいだろうか。
腰まで伸びた長い髪を、横で纏めて麦わら帽子を被っていた。
長いスカートが、風に煽られ、ふわふわと揺れている。
犬はそんなのお構いなしに、彼方にじゃれついてくる。
「わあっ、ちょっと待って、ああっー。」
前足で器用に彼方にもたれかかる。
彼方を支えに立ちあがった犬は、肩の高さほどの大きさだった。
「こら!リッキー!だめでしょ!おにーちゃん困ってるでしょ!」
女性が叱ると、犬はしゅんとした様子で大人しくなる。
しかし、その大きくつぶらな瞳は、彼方を見つめたままだった。
「大丈夫ですよ。僕、犬好きだし。
…ゴールデンレトリバーですか?」
「本当にごめんなさいね。
この子ゴールデンレトリバーのリッキーって言うの。
普段は大人しいんだけど、初めて見る海に興奮しちゃったのね。」
しゅんとしているリッキーの頭を撫でて、女性はしっかりとリードを握る。
こんなか細い女性一人で大型犬を制御できるのだろうか。
「初めてって…。遠くから来たんですか?」
「前は東京に住んでたんだけど、結婚して、旦那の実家に昨日から住んでるの。
今日は天気もいいし、たまには海でも行こうかなってリッキーを連れてきたのよ。」
「おっきくて、可愛いですね。」
「うん。この子…懐っこくて、
誰にでもすぐ、可愛がってくれると思って行っちゃうの。」
彼方がリッキーの目線の高さにしゃがみ込むと、
リッキーは嬉しそうに、ザラザラとした舌で、彼方の顔を舐めまわす。
「ふふっ。もう、可愛いなあ。」
彼方は優しくリッキーの顔を包み込み、撫でる。
リッキーはこれでもか、というくらい尻尾をブンブン振り回す。
「リッキーは大きいから、君と同じくらいの男の子でも怖がる子は多いんだけどね。
君は…高校生くらいなのかな?」
女性は指で口元を覆い、柔らかい声で上品に笑う。
「はい。今高校三年生です。」
「そうなんだ。…あれ?今日平日だよね?学校は?」
不思議そうな女性を気にも留めずに、リッキーは彼方に寄り添う。
頭を押し付けるように、彼方の頬にその滑らかな毛並みの頭を擦り付ける。
「今日は…ちょっと…サボり…ていうか…。」
言葉を濁す彼方に、女性は笑みを崩さずに言う。
「…まあ高校生って難しい時期だからね。サボりたくもなるよね。」
「なんか…もう、全部考えたくなくなっちゃって。」
苦笑いで答える彼方に、女性は少し、意地悪そうな笑みを浮かべる。
「なーに?失恋しちゃったとか?」
いくつになっても、女性は恋の話が好きなのだろうか。
女性の目は、爛々と輝いているようにも見えた。
「うーん…どうなんですかね。」
「あらあら。お姉さんでよかったら相談乗るわよ?」
曖昧な返事に、女性は興味深々だった。
―知らない人だし、もう会うこともないだろうし、言ってもいいかな。
そんなことを考えながら、彼方はゆっくりと口を開く。
「好きな人がいるんです。
…でもその人とはずっと一緒にはいれないって、言われちゃいました。」
「それは…進路のことで?
なら、君も頑張って勉強して、一緒の大学目指したらいいんじゃないの?」
「それはダメだって、言われちゃいました。ちゃんと自分の将来を考えろって。」
リッキーは空気を読めるのか、大人しく彼方の前で座り込む。
首を傾げて、まるで彼方の顔を覗き込んでいるようだ。
「真面目な子なのね。」
「はい…。」
「君は…進路は、もう決めたの?」
「…僕には、何もできないから。」
静かに首を左右に振りながら言う彼方。
「そんなことはないと思うけれど…。…その子に告白はしたの?」
「告白…。キスは、しました。」
キスという言葉に、少し照れながら、
彼方はリッキーを抱きしめるように、顔を隠す。
「え?付き合ってないの?」
女性は驚いたようにパチパチと大きな瞬きをする。
「付き合うっていうか…、ずっと一緒にいたんです。昔から。ずっと。」
「幼馴染なのね。」
「…そんな感じです。
ずっと一緒にいたから…、これからも一緒にいれると思ってたんですけど…。」
切なそうな表情をする彼方に、
女性は慈愛に満ちたような笑みで、語りかける。
「確かにね、好きな人とずっと一緒にいれたら幸せだよね。
今はその子のことが好きだから、その子のことしか考えられないかもしれないし、
別れたらすごく、すごく、辛いと思う。」
「離れたく…、ないです。」
自信のなさが、声に表れる。
堂々と胸を張っては、言えない恋だ。
どうしても、消え入りそうな声になってしまう。
「でも高校卒業したらね、環境は目まぐるしく変わるわよ。
しばらくは別れて辛いかもしれないけれど、いつか必ず他の子を好きになる。
その子もきっと君のことをすごく愛してくれる。…人間って案外強いものよ。」
強気で微笑むその人は、何故かとても力強く、大きく見えた。
しかし、自分は弱い。
「僕は…強くなれません。その人じゃなきゃ…ダメなんです。」
小さく零れた声。
そんな彼方を見て、女性は彼方の肩にポンと手を添えた。
「じゃあもう一度、ちゃんと告白してみたらいいじゃない。
天気がいい日なら、またこれくらいの時間にリッキーと散歩してるから。
…私でよければ、また相談のるわよ。」
良く笑う人だと思った。
上品に微笑む人かと思っていたら、強気に自信に満ち溢れた笑い方もする。
強い人だと思った。
自分の二倍近く生きてきて、辛いことや苦しいこともあったのだろう。
この人は全部乗り越えてここに立っている。
そんな気がした。
「…今更、また告白なんて、できないですよ…。」




