「破滅への介入者」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。
中村将悟 クラスメイト。
矢野千秋 クラスメイト。
新田百合 一年生。
白崎先生 精神科医
「破滅への介入者。」
病院に運ばれた彼方は、腕に点滴を繋がれながら、静かに眠っていた。
まるで世界と掛け離されたような、無機質な空間。
そんな部屋の片隅で眠る彼方を、
日向は椅子に座って、ただ黙って見つめていた。
トントン。
病室をノックする音がする。
入ってきたのは、人が良さそうな、綺麗で身長が高い女医だった。
「おうちの人には連絡してくれた?」
落ち着いた大人の女性の声。
真っ直ぐ日向を見つめる、凛とした瞳。
「母親は仕事で…これないって…。」
嘘だ。
きっと電話をしたところで、取り合ってもらえない。
「お父さんは?」
「…いません。」
「…そう。ごめんなさいね。」
少し気まずそうに、女医は日向から目を逸らす。
「あの、彼方は…どうなるんですか…?入院とか…」
不安そうに目を伏せて呟く日向を見て、女医は優しく微笑みかける。
「今日は目が覚めたら帰っても大丈夫よ。
でも、また後日ちゃんと診察しましょうね。」
「病気…なんですか?」
日向は彼方を見つめたまま、女医に問いかける。
膝の上で握った拳に、少し力が入る。
「さっき彼方君がなったのはね、過換気症候群って言って、
強いストレスを受けた時に、心がそれに耐えられなくなって、
発作みたいな症状を起こすの。過呼吸って聞いたことない?」
「過呼吸…?」
ドラマや映画で少しだけ聞いたことがある。
そんな画面の中のことが、実際に起こるなんて思ってもみなかった。
「本人は死んじゃうほど苦しいけど、それで死ぬことはないから安心してね。
強い不安やストレスに、心が耐えきれなくなって、体が危険信号を出すの。
それが過呼吸。思春期の子は特になりやすいの。
…最近彼方君、何かに悩んだりしてなかった?」
「悩み…。」
心当たりがある。
しかし、言えるわけがない。
「君たち高校三年生よね?進路のこととか、将来のこととか、
そういうので不安がいっぱいになって過呼吸起こしちゃう子は、
意外と多いのよ。もちろん大人だって。
誰にでも、なる可能性はあることなの。」
彼方が過呼吸を起こしたのは、間違いなく自分のせいだと、日向は思う。
自分があんなことを言わなければ、彼方を苦しめないで済んだのに。
後悔ばかりが押し寄せる。どうして、どうしてこうなってしまったのだろう。
「治るんですか…?」
「大体は、その不安を解消してあげたり、
ストレスから遠ざけてあげると発作もでなくなるわよ。
でも、何もかもから逃げることなんてできないから、
彼方君の悩み次第ね。」
きっと彼方は二人でいる未来を望んでいる。
それを引き裂こうとしたから、こうなった。
だとしたら、別々の将来なんて描いてしまったら、
彼方の症状は繰り返すだろう。
日向は、決意が、揺らいでしまいそうだった。
「あとね、一応、念のため、しばらくは精神科に通ってもらおうと思うの。」
「精神科…?」
「何も変じゃないわよ。偏見持たないでね。
ただカウンセリングをして、彼方君を精神的にケアしてあげるの。
それで問題がなかったら通わなくていいし、何かあったらちゃんと治療してあげないと、
また発作で苦しむのは彼方君だからね。」
女医は、日向の不安を取り除くように、ゆっくりとした口調で説明する。
精神科という、一般的に抵抗のある話だからこそ、丁寧に、丁寧に。
「彼方は…おかしいんですか…?」
「おかしくなんてないわよ。思春期なんて多感な時期だから、
些細なことで深く傷ついたり、間違ったことをしちゃう子も多いの。
それで正してあげるのが大人の仕事よ。
だから、彼方君は、なにもおかしいことなんてないのよ。」
日向は、その柔らかい声と笑顔に、少しだけ安心した。
握った拳から力が抜ける。
女医は眠ったままの彼方に一瞥する。
「彼方君はまだしばらく眠ってそうね。
場所を変えて、少しお話ししましょうか。」
そう言うと女医は、日向に病室の外に出るように促した。
通されたのは、「カウンセリングルーム」と書かれた部屋だった。
普通の無機質な診療室とは違い、壁は薄いクリーム色で塗られ、
観葉植物やぬいぐるみなどが並べられていた。
そしてソファと机があるだけの、シンプルな部屋だった。
「そんなに緊張しないでね。ちょっとお話聞くだけだから。」
ソファに向かい合って座る。
自分と同じくらいの身長の女医が、何故かとても大きく感じた。
「さっきね、救急車で運ばれてきたときに、彼方君、すごい抵抗したの。
あんなに苦しそうなのに、嫌だ嫌だって。
それで、点滴の前に、ちょっと眠たくなるお薬を入れて、
眠ってもらったんだけど…。
彼方君は、何か病院を嫌がるような理由はあるのかな?」
「親に…心配かけたくなかったんじゃないですか。」
「そう…。こんな時でも、お母さん忙しそうだものね。」
真っ赤な嘘だ。
今の日向には、彼方を守るために、嘘を吐くことしかできなかった。
「彼方君のほっぺ…、
ちょっと腫れているみたいだけど、どうしたのかわかる?」
「友達と…喧嘩したって…。」
「…そう。まあ、高校生くらいだったら、友達と喧嘩くらいあるわよね。
少し、体にも痣みたいのがあったけど、それも喧嘩かな?」
「多分…そうだと思います。」
「そっかー。…じゃあ彼方君は何に悩んでいたのか、わかる?」
「…さあ。…進路、とかじゃないですか。」
誘導尋問のようだ、と日向は思う。
女医は手元のカルテだろうか、紙にメモを取りながら、話し続ける。
「高校三年生かあ。難しい時期だもんね。日向君は進路どうするか決めた?」
「まだ、はっきりとは…。」
「そう。ゆっくり決めたらいいわ。
って言いたいけど、あと半年しかないもんね。焦るわよね。」
歯切れの悪い返事に、女医は困ったような笑顔を日向に向ける。
こんなことを聞いて、どうしようというのか。
「彼方君とは、別の大学とかに行くつもり?」
「…わからないです。」
「彼方君ね、発作起こしながら、ずっと日向君の名前を呼んでたの。
…よっぽど慕われてるのね。でも、少し…」
何かを言いかけた女医の言葉を遮るように、
トントンと扉をノックする音が聞こえる。
「どうぞ。」
女医が応答すると、若そうな看護師が遠慮がちに扉から顔を覗かせた。
「白崎先生、あの…」
小さく手招きをし、女医を廊下の方へ呼ぶ。
白崎と呼ばれた女医は、小さくため息を吐き、席を立つ。
「ちょっと待っててね。」
日向は扉の向こうへ消えた白崎の背中を確認してから、
大きくため息を吐き、脱力する。
滅多に来ない病院独特の無機質で、閉鎖的な、
緊張感が漂う雰囲気に、飲み込まれそうだった。
思えば、面と向かって一対一で、
こんなに大人と話をするのは久しぶりだった。
浮気をして離婚したらしい、顔も覚えていない父親。
酒と香水の香りを染み込ませて、暴力を振るう母親。
二人の周りには、ろくな大人がいなかった。
だからこそ、あの女医も信用できない。
彼方に「精神異常者」というレッテルを貼って、どうしようというのか。
自分たちのためだと言い聞かせ、離れ離れにするつもりだろうか。
どこに行っても将来の話ばかりだ。
そんな不確かなものを描けと言われてところで、どうしようもない。
いっそこれまで通り、二人で生きていく方が楽な気さえする。
ここまで考えて、日向は自嘲の笑いがこぼれた。
彼方の手を離すつもりだったのに、
別々の将来を歩むことを決めたはずだったのに、
やはりいつも、躊躇って、手を離すのを拒み、縋り続けているのは、自分自身だ。
「彼方のためだ」とか言いながら、結局は自分を守るためだ。
弱くて狡くてみっともないのは、自分だ。
日向は両手で顔を覆って俯く。
―情けなさすぎて、笑えてくる。
ふいに、またトントンと扉をノックする音が聞こえる。
返事を待たずに、先程の看護師が、遠慮しがちに扉を開ける。
「あの…、高橋彼方さんが目を覚ましたので、病室に来てください。」
「…はい。」
彼方が目覚めた。
日向は看護師の後を追い、逸る気持ちを抑えて病室に向かう。
少し歩き、病室の目の前の廊下に差し掛かったところで、日向は異様な雰囲気を感じた。
開いたままになっている彼方の病室からは、騒がしい声が漏れていた。
「彼方君、落ち着いて。ね?」
「やだっ…日向は?…ねえ!日向はどこ…?」
「今呼んできてもらってるから。大丈夫よ。」
「どこ…。日向…日向…っ!」
「落ち着いて。すぐ日向君来るわよ。」
取り乱したような彼方の声と、宥めるように優しく静かな白崎の声。
日向が病室の目の前まで来ると、ベッドの上で不安そうな彼方と目が合った。
「日向…!」
彼方が日向の方へ向かおうとするが、白崎が手で制止する。
「まだ寝てなきゃ駄目よ。」
ベッドから起き上がった彼方は、少しふらついているように見えた。
おそらく先程の「眠たくなる薬」のせいだろう。
日向は彼方の傍に寄ると、彼方は日向に身を預けるように、抱き付いてくる。
「日向…いなくならないで…っ。」
緊張の糸が切れたのか、彼方は日向の胸で縋りつくように、泣き出してしまう。
日向は静かに彼方の背中に片手を回し、もう片方の手で彼方の頭を撫でてやる。
「…大丈夫だから。落ち着けって。」
その様子を、難しい顔をしながら、白崎と看護師は黙って見ていた。




