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「ダリアの幸福」  作者: 麻丸。
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「弾かれた存在」


登場人物


高橋日向 双子の兄。一人称は俺。

高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。

坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。

中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。

矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。

渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。

竹内京子 二年生。優樹の妹。

新田百合 一年生。日向の恋人。

桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。

白崎医師 精神科医。

リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。

お姉さん リッキーの飼い主。

新田 椿 百合の姉。

竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。

篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。

麗華   彼方の客。

智美   彼方の客。

梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。

川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。

美波沙織 看護師

高橋奈津子 日向の母親


 「弾かれた存在」




機具岩へ向かって、日向と京子は歩いていた。

外に出てから少しの時間しか経っていないのに、外は真っ白な銀世界に変わっていた。

建物や道、木々や山さえも、どこにあるのかわからないくらい白く雪化粧している。

しんしんと降り積もる雪に足を取られつつ、二人は機具岩の近くまで来ていた。


緩やかなカーブを描く坂を上っている途中、なんだかやけに甘ったるい香りが漂ってきた。

何度か嗅いだことのある匂いだ。これが何の匂いなのか、日向にはわからないけれど。


「彼方さんの煙草の匂い…。」


そう言って、京子は足を速める。

坂を上りきって開けた高台に出ると、一人の男がこちらに背を向けて海を眺めていた。

欄干に凭れかかり、手にはモクモクと薫る煙草をふかしている。その煙草から、甘い匂いが漂っているようだ。


「彼方さん!」


その声に、彼方は振り返った。


「早かったね。もう見つかっちゃった。」


お道化るように彼方は微笑んだ。

彼方は京子を見て、そして、自分を視界に入れた。

しかし、自分と目が合うと、彼方は悲しそうに口元を歪めた。


「やっぱり、日向を呼びに行ってたんだね。」


「ごめんなさい…。でも、こうでもしないと…貴方を止められないと思って。」


「…それは、余計なお世話だよ。誰に何を言われたって、もう遅いんだ。」


冷たく言い放った彼方に、京子は何かと言おうとしたが、怯んだように口を噤んでしまった。


彼方は煙草に口を付けて、ゆっくりと煙を吐き出す。

そして、その煙草を地面にほおり投げ、靴で踏んで揉み消した。

火が完全に消えてから、彼方は自分に向き直った。


「久し振りだね、日向。少し大人っぽくなったんじゃない?」


「…彼方こそ。」


「そのマフラー、つけてくれてるんだ。気に入ってくれた?」


「やっぱりこれ…彼方が…。」


「うん。日向は、やっぱり赤が似合うね。カッコいいよ。」


満足そうに彼方は微笑む。

久し振りに見る、彼方の顔だった。

少し前に見た時よりも、僅かに大人びている。

傷んだ茶髪は前に見た時よりも長くなっていて、身長も自分より少し伸びている気がした。

細い体は頼りなく、あの頃の彼方とは何もかもが違っていた。


「ずっと…探してたんだぞ。」


言いたいことは山ほどあるのに、それしか言えなかった。

何から話したらいいかもわからないし、離れていた時間が長すぎて、逸るような、少し緊張するような、妙な気持ちになる。

彼方と直接話をするのは、夏以来なのだから。


「それは、僕を捕まえるため?」


彼方は、自嘲気味に薄く笑う。

それは、冷たい冷たい笑みだった。


「わかってると思うけど、母さんを殺したのは…僕だよ。」


やっぱり―。

想像していたことだけれど、いざ彼方の口からその言葉を聞くと、信じられない気持ちになった。


「どうして…そんなこと…。」


「日向のためだよ。日向が幸せになるためには、あの人はいらない。日向の未来に、あの人は必要ない。

 生きていちゃいけない人なんだ。日向だって、そう思うでしょ?」


同意を求めるように、彼方は自分をじっと見つめる。

その瞳には、鋭く暗い光が宿っていた。


「違う…。彼方は知らないんだ。母さんは、記憶を無くしてる。

 ちょっと前に事故に遭って、頭打ったらしくて、それで…。

 だから、今は前みたいに酷いことしたりしないんだ。」


「なにそれ。事故に遭ったから全部覚えてませんって?そんな都合のいいことあるわけないでしょ。

 だから許せって?許せるわけないじゃん!あの人のせいで、僕たちの人生滅茶苦茶だよ!

 今更いい母親演じてようが、あの人のしたことは、なかったことにはできないんだよ…っ!」


彼方は、興奮したように声を荒げる。

こんな彼方の姿を見るのは、初めてだった。

いつもふわふわと笑っていて、怒ったり、感情を剥き出しにしている姿なんて見たことがない。

それほど、ずっと母親のことを憎んでいたのだろう。

当たり前だ。彼方は、自分たちに虐待を続ける母親しか知らないのだから。


「それでも…そこまでする必要は…。」


日向の言葉を遮って、彼方は強い口調で言う。


「あったよ。そこまでしないといけなかったんだ。

 大体、記憶を無くしてるって、本気でそう思ってるの?

 都合よく記憶を無くしたフリしてるだけかもしれないじゃん!

 きっとまた元通りになるよ。あの人は変わらない。きっとまた繰り返す。だから…殺さないといけなかったんだ…。」


彼方は拳を握りしめ、目を伏せ俯く。

キツく唇を噛み、何かに耐えるように微かに肩を震わせていた。


揺れているんだ。

殺したいほどの憎しみと、母親を殺した罪悪感や後悔に。

実際に母親に手を掛けてしまったことを悔やみ、自ら死を選ぼうとしているのだ。


生と死の境界線。

彼方は、ギリギリのところに立っている。

少し足元を踏み外せば、手が届かないほど遠くへ行ってしまいそうなほど、ギリギリの境界線に。


今までの彼方の行動は、全て自分のためなのだと彼方は言った。

自分の気持ちなんて知らず、自分勝手に理由を付けて、とんでもないことをしでかした。

怖いほどに、真っ直ぐな自分への想い。

彼方は、今までずっと、自分のために自らを犠牲にしてきたのだ。


なら、自分が救ってやらないと。取り戻さないと。

いつも彼方に助けられてばかりじゃいられない。

彼方に辛い想いばかりさせていられない。

今度は、自分が彼方を救う番だ。


日向は、気持ちを落ち着けようと小さく深呼吸をした。

そして、真っ直ぐに彼方を見つめ、口を開いた。


「…母さんは死んでない。」


僅かに顔を上げた彼方は、驚いたように目を見開く。

自分の隣に立つ京子も、困惑した顔を向けた。


「どういうこと…?」


「母さんはちゃんと生きてる。あの日、運よく救助されて助かったんだ。

 事件にもなってない。母さんは、自分で足を滑らせたって、そう言ってる。彼方が突き落としたなんて、誰にも言ってない。」


「それ…本当ですか?」


「ああ。」


日向が力強く頷くと、京子は安心したように瞳を潤ませた。


「よかった…。本当によかった…。彼方さんが、人殺しになんてならなくて…。」


そして、彼方に向き直る。


「彼方さん、帰りましょう。死ぬことなんてないです。お母さんは無事だったんですから…。」


しかし、彼方は信じられないと言うような表情のままだった。


「そんな…そんなはずないよ!僕は、確かにここから母さんを落としたんだ!

 あの日は、雨が降っていて海は大時化で、しかも、ギプスなんて嵌めた手で助かるわけがない…っ!」


彼方は、取り乱したように声を荒げる。


「助かるわけなんて…ないんだ…。」


そのまま項垂れるように、地面に膝をついた。

肩がガクガクと震えている。吐き出す白い息が、徐々に荒くなっている気がした。


「彼方さん…もしかして、また…。」


京子は、心配そうに彼方に駆け寄ろうとする。

しかし、彼方はそれを制するかのように、強い口調で叫んだ。


「近寄らないで…っ!」


その声に、京子は怯んだように足を止めた。

そして、彼方と自分を交互に見て、困ったように立ち尽くす。


彼方は、欄干に凭れかかるようにフラフラと立ち上がった。

膝から下のズボンは、雪で湿って色濃く変色していた。


「…ごめんね。でも、もう最後の一日は終わったんだよ。もう僕と京子ちゃんは恋人じゃない。」


京子の方を見ようとはせずに、彼方は足元を見たまま言った。


「そんな…。」


京子はふらつく足元で、彼方へと一歩踏み出す。

しかし、彼方が発するのは、冷たい言葉だった。


「近寄らないでってば!…近寄ったら、飛び降りるよ。」


「やめて…。やめて…彼方さん、お願い…。」


祈るように必死な声。

京子はその場から動けず、また泣きだしそうな顔をして、両手でその顔を覆った。


近寄れば、彼方は海へと飛び降りる。あの日、母親にしたように。

どうすればいいんだ。どうすれば、彼方を思い留まらせることができるんだ。


京子は、自分に「彼方さんを助けて」そう言った。

ずっとしらばっくれていた京子が、自分を頼った。

プライドの高い京子が、「私じゃ、彼方さんを止められないから」そう縋るように涙を見せたんだ。


どうにか彼方を説得しないと。日向は、必死に考える。

不器用でもいい。綺麗に飾った言葉じゃなくていい。短くても、みっともない言葉でも、もう何だっていい。

彼方を救える言葉を、必死に探さないと。


「…彼方。大丈夫だから、帰ってこいよ。誰もお前を責めたりしない。」


「そうですよ、彼方さん…。お願いだから、もう馬鹿なことはやめて…。

 家にもお兄ちゃんのところにも帰りたくないなら、ずっと私のところにいていいから、だから…だから、お願い…帰ってきて…。」


自分に同調するように、京子も必死に彼方に言葉をかける。

その瞳からは、また涙がポロポロと溢れていた。


「ねえ、彼方さん…。貴方がいないと、私…どうしたらいいかわからない。

 私のために生きてくれるって、言ったじゃないですか…っ!約束、したじゃないですか…っ!」


「彼方、みんなお前のことを心配してる。俺も、やっぱりお前がいないと駄目だ。

 帰ろう。俺たちの家に…。また、前みたいに一緒に暮らそう…。」


話を聞いているのかいないのか、彼方は俯いたままだった。

少し苦しそうに息を切らして、胸に手を当てている。

以前に見た、過呼吸が起こる前のようだ。


「…無理だよ。もう一度殺すなんて…僕には無理だ…。」


震える手の平を見つめて、彼方は小さく呟く。


「そんなことしなくていいんです!もう、貴方は何もしなくていいんですよ!そうやって、彼方さんばっかり苦しい想いする必要なんてないんです…っ!」


「そうだ、彼方。今は母さんも家にいないし…。でも、またきっと帰ってきてくれる。

 落ち着いたら、ちゃんと母さんに謝ろう。それで、…今度は三人で暮らそう。

 きっと、今度は彼方が憧れていた普通の家族になれるから…。」


彼方の呼吸が、どんどん荒くなる。

ふらつく足元で欄干に凭れかかり、立っているのがやっとのようだ。

その欄干のすぐ後ろは、断崖絶壁。下の仄暗い海までは、二十メートルはあるだろう。

早く彼方を、そこから遠ざけないと。


「やめてよ!無理だよ…っ!もう、何もかもが無理なんだよ…っ!」


二人の説得に、彼方は頭を抱えて悲痛な叫びをあげる。

そのまま地面に蹲り、肩で息をするように激しく喘ぎ始めた。

京子は、すかさず彼方に駆け寄る。


「彼方さん…!」


抱きしめるように、京子は慣れた様子で彼方の体を支え、背中をさする。

彼方は抵抗しようとしたが、思い通りに体が動かないらしく、京子に体を預け、苦しそうに浅い呼吸を繰り返す。

白石に聞いた通り、彼方の過呼吸は治っていなかったのだ。

ずっと、彼方は一人でその苦しみを抱えて生きていたのだ。


―今なら。


そう思って日向も彼方に駆け寄ろうと一歩踏み出した。

そのとき、彼方は拒絶するように強い声で叫んだ。


「来ないで…っ!」


力ない腕で、彼方は欄干に手を掛け、立ち上がろうとする。

京子は彼方を立ち上がらせないように、ぎゅっと抱き寄せた。

それでも彼方は、欄干に手を伸ばそうとする。

京子はその手を掴み、自分に向けて静かに言った。


「…言うとおりにしてください。」


彼方に拒絶され、京子にもそう言われ、日向は唇を噛んでその場に留まるしかなかった。

彼方は京子の肩に顔を埋めていて、その表情は見えない。

しかし、縋るように京子を抱きしめ、肩を震わせている。

自分のことは拒絶するのに、京子は違うのか。

そのことに少し胸を痛めつつも、日向は黙って二人を見ていた。


大丈夫、大丈夫だからと、京子はまるで母のように彼方の耳元で優しく囁く。

彼方は京子にされるがまま、その身を預けていた。


以前の彼方は、浅く広い上辺だけの人間関係しか作らず、自分以外の人間には、けして心を開かなかったのに。

今の彼方にとって、京子は拒絶せずに無防備な身を任せられる存在なのか。

京子は、優しく彼方を包み込む。

彼方は、苦しみに耐えるように京子に縋りつく。

二人の間には、相当の信頼関係があるのだろう。


そんな二人の世界に置いてきぼりにされながら、日向はただ一人立ち尽くすしかなかった。


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