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「ダリアの幸福」  作者: 麻丸。
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「消えた幽霊」


登場人物


高橋日向 双子の兄。一人称は俺。

高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。

坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。

中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。

矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。

渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。

竹内京子 二年生。優樹の妹。

新田百合 一年生。日向の恋人。

桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。

白崎医師 精神科医。

リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。

お姉さん リッキーの飼い主。

新田 椿 百合の姉。

竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。

篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。

麗華   彼方の客。

智美   彼方の客。

梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。

川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。

美波沙織 看護師

高橋奈津子 日向の母親


 「消えた幽霊」




帰りの電車の中で、二人は無言だった。

彼方はずっと窓の外を見つめていたし、自分は零れそうになる涙を必死にこらえるようと、地面ばかりを見ていた。

視線が絡むことはないが、手だけはキツく握っていた。


昨日、彼方に別れを告げられた。

薄々勘付いていたことだった。

彼方は多くを語らずに、「この旅行で最後。…別れよう。」そう言った。


自分と別れてこの人はどうするつもりだろう。

そんなの、一つしかない。

彼方は、死ぬつもりなのだ。

だから、自分を手放そうとしている。


京子は、そっと首元に手をやる。

彼方から貰った猫のネックレスの冷たい感触が、指先に伝わった。

これは、首輪のはずだったのに。

彼方の独占欲の証のはずだったのに。

今は、もう何の意味も持たない。


無言のまま電車は進んで、地元の街が間近に迫る車内アナウンスが流れた。

彼方との繋がりが消えるまで、あと少し。


「…もう着くよ。」


窓の外を見つめたまま、彼方はポツリと呟いた。

京子はその手を離したくなくて、爪を立てて握った手に力を込める。


「痛いよ。」


そう言った彼方は、振り返って困ったように笑った。


どうして、こんな時に笑えるのか。

微笑む彼方とは裏腹に、京子の瞳からは涙が溢れた。

彼方は何かを言おうと口を開いたが、何も言ってはくれなかった。

窓の外に視線を戻して、黙ってしまった。


そのまま、ゆっくりと電車が停車する。


「…京子ちゃん、降りないと。」


自分から目を逸らして、彼方は言う。


「嫌です。」


「もう終点だよ。」


「嫌です。」


「ほら、駅員さん困っちゃうでしょ?」


「嫌です…っ!」


瞳から溢れた涙は、頬を伝って京子の太ももに落ちた。

出口へと向かう乗客たちが、涙を流しながら駄々をこねる自分を驚いたような顔で見ていた。

それでも、涙は止まらなかった。立ち上がる気力すらなかった。

だって、この電車を降りたら、彼方と別れなければならないのだから。


ふいに、彼方に抱きしめられた。

嗅ぎ慣れた煙草の甘い香りと、彼方の体温に包まれる。

ズルい。彼方はズルい。

こんな時ばっかり、優しくするなんて―。


「…行こう。ね?京子ちゃん。」


自分を諭すように、彼方は優しく耳元で囁く。


「嫌です…。嫌…絶対嫌…。」


「京子ちゃん…。」


「せめて、あと一日だけ…。あと一日だけでもいいから…一緒にいてくださいよ…。そしたら…ちゃんと諦めるから。」


カッコ悪い。みっともない。恥ずかしい。

けれど、今の自分には、取り繕って澄ました顔なんてできない。

縋りついていないと、今すぐにでも彼方が消えてしまいそうだと思った。

捕まえておかないと、もう二度と会えない気がした―。


「…あと一日で、本当に諦められるの?」


「…はい。」


「…約束できる?」


京子は小さく頷いた。

けれど、そんな約束なんてできなかった。

だって、これは、彼方と少しでも長くいるための嘘なのだから。


彼方は考えるように目を伏せ、やがて仕方ないというように小さく溜息を吐いた。


「あと一日だけだよ?」


京子はそれに答えず、彼方に抱き付いた。

この腕を、離したくない。離すつもりもない。

だから、お願い。どうか今だけは、私のワガママを聞いていて。


「京子ちゃん、とりあえず降りよう?もう他の人、みんないなくなっちゃったよ。」


抱き付いたまま無言で涙を流す自分に、彼方は困ったような顔を向ける。

車内に、もう乗客は残っていなかった。


結局、最後の日は、京子のアパートで過ごすことになった。

アパートに付いてドアを閉めた途端、京子は荷物も置かずに彼方を後ろから抱きしめた。


「ねえ、彼方さん。抱いて…。」


彼方は、驚いた顔で振り返る。

普段の自分は、こんなこと言わないのだから、当たり前か。

けれど、残された時間の中で、少しでも長く彼方と繋がっていたかった。


「お願い、抱いて。」


「京子ちゃん…。」


それから、彼方の腕が伸びてきて、自分を抱きしめた。

優しい口付けを交わし、指と舌を絡めた。

離れないように抱きしめ、お互いを貪るようにキスをした。


「酷くして。」


彼方にベッドに押し倒された時、京子はポツリと呟いた。


「え?」


「思いっきり酷くして…。それで、彼方さんのことを嫌いになれるようにしてくださいよ…。」


そうだ。できるだけ酷いのがいい。

彼方に抱かれたことを、忘れないように。

彼方に愛されていたことを、覚えておくために。

彼方を愛したことを、誇れるように。

傷跡が残るくらい、キツく抱いてほしかった。


「…それは無理だよ。だって、僕、京子ちゃんのこと大好きだもん…。」


卑怯な微笑みで、彼方は困ったように笑う。

京子の瞳からは、また涙が溢れた。


「ズルい…。」


さっきの言葉通り、彼方は自分を優しく抱いた。

甘い言葉を囁き、蕩けるようなキスをして、指先で肌を撫で、力強い腕で自分を抱きしめた。

悲しい瞳で自分を見つめて、「愛してるよ」と何度も口にした。


もうどうしようもない。どうにもならない。

自分じゃ、彼方を止められない。

自分が何を言っても、彼方に響かない。

誰でもいい。誰か、この人を止めて。この人の命を助けて。

誰でもいい。誰でもいいから、どうか―。







―ピンポーン。


―ピンポーン。


誰かがインターフォンを押す音が聞こえる。

その音で、日向は目を覚ました。


時計を見ると、午前一時だった。すっかり真夜中だ。

どうやら、学校から帰ってきてから、着替えもせずにコタツでうたた寝していたようだ。

窓の外を見れば、白い雪がチラチラと空から舞い降りていた。


―ピンポーン。


またインターフォンが鳴った。

こんな時間に、一体誰だろう。

不思議に思いながらも、日向はコタツを抜け出した。


「寒っ…。」


どうやら暖房を入れ忘れていたようだ。室内でも息が白い。

そういえば、今日の深夜から大雪警報が出ていたっけ。


―ピンポーン。


何度目のインターフォンだろう。

どうやら来訪者は、自分が出るまで鳴らし続けるつもりらしい。

いたずらか?それとも、何か緊急の用事がだろうか。


日向は、恐る恐る玄関の扉を開けた。

そこに立っていたのは、パジャマ姿で俯く京子だった。


「竹内さん…?そんな格好で…。」


この雪の中、京子はコートも羽織らずに、パジャマから鳥肌が立った足を曝け出している。

肩と頭には、うっすらと雪が積もっていた。

よほど慌てて訪ねてきたようだ。


「あの人に会ってください…。」


「え?」


京子は、ゆっくりと顔を上げる。

その目は、泣き腫らしたように真っ赤だった。


「彼方さんに、会ってください。」


睨むように強い瞳で、京子は自分を見つめる。

その顔は、必死に涙を堪えているようにも見えた。


「彼方の居場所が…わかるのか?」


「今、私のアパートにいます。」


「竹内さんのアパートに?」


「はい。」


京子は悔しそうに唇を噛み、深く頭を下げた。


「お願いします。あの人を…彼方さんを、助けてください…。

 私じゃ…あの人は、救えない。貴方じゃなきゃ駄目なの…。

 お願い、あの人を助けて…。あの人を、死なせないで…。」


「どういうこと…?」


顔を上げた京子の顔は、辛そうに歪んでいた。

今にも涙が溢れてきそうだ。


「説明は後です。今すぐ私についてきてください。…お願いします。一刻を争うんです。」


一刻を争うなんて、どういうことだ。

何の説明もない京子に、戸惑い首を傾げることしかできなかった。

けれど、日向は京子の様子を見て、只事ではないと察した。


日向はすぐに部屋に入ってコートを羽織り、支度を済ませた。

部屋を出る前に京子が薄着だったことを思い出して、クローゼットから彼方のコートを取り出して玄関に向かった。

玄関に戻ると、京子は俯いたまま、体を震わせてただじっと待っていた。


「彼方のコートだけど、ないよりマシだから。」


日向は、京子の肩にコートを羽織らせてやる。


「…ありがとうございます。」


京子は複雑そうな顔をしたが、素直にコートに袖を通した。

それから、二人で京子のアパートへと向かった。


外に出ると、雪が本降りになり、吹雪いていた。

視界が真っ白で、数メートル先すら見えない。

地面には、十センチほど雪が積もり始めていた。


歩いている最中、京子はずっと無言だった。

ただ前へ前へと足を動かし、焦っているように早足で自分の少し前を歩いた。

日向はそんな京子の後ろを、はぐれないように大股で歩いて付いていく。

真新しい雪に、二人の足跡が長く残った。


十分も歩かないうちに、京子のアパートへとたどり着いた。

何度も通ったはずの赤煉瓦のアパートは、雪ですっかり景色を変えている。

降り積もった雪に注意しながら階段を上り、ようやく京子の部屋の前に着いた。


「鍵が…開いてる…。」


ドアノブに手を掛けた京子が、驚いたように呟く。


「まさか…。」


慌てて京子は扉を開き、部屋の中へと消えていく。

日向は一瞬迷ったが、玄関に足を踏み入れた。


「彼方さん!彼方さん!」と悲鳴にも似た声が室内に響く。

ようやく日向も京子に追いついたが、部屋の中には誰もいなかった。

ただ、床に膝を付いて座りこむ京子がいるだけだ。


「そんな…間に合わなかった…。」


京子の瞳から、涙がポロポロと流れ落ちる。

日向は何と声を掛けたらいいかわからずに立ち尽くしていると、縋りつくようにぎゅっと袖口を掴まれた。


「あの人、死ぬつもりなんです…。」


「え…?」


「お母さんを殺したのは…彼方さんです。

 それが、貴方のためにできる最後のことだからって…。

 貴方のために、彼方さんは実の母親を殺したんです…っ!

 でも…彼方さんはその罪悪感に耐えられなくなって…それで…。

 私じゃ彼方さんを止められなかった…。だから貴方を連れてきたのに…。こんな…こんなことって…。」


そのまま京子は、両手で顔を覆って泣き崩れる。

細い肩が小刻みに震える。京子の口からは嗚咽が漏れた。


やっぱり、母親を海に落としたのは彼方だったんだ。

確かに彼方はとんでもないことをしてしまったと思う。

それも、こんな自分のために自分を犠牲にするようなやり方で。


けれど、母親は死んでない。それを彼方に伝えたら―。

今なら、まだ間に合う気がした。彼方を救える気がした。


「もう電車もバスも動いてないし…遠くへは行ってないはずだ。竹内さん、彼方が行きそうな場所、わかる?」


日向は跪き、京子と視線を合わせた。


「彼方さんの行きそうな場所…?」


顔を上げた京子は、考えるように視線を彷徨わせる。

やがて、小さな声でポツリと呟いた。


「海…。」


「海?そう言われても、この辺りは海岸なんて山ほどあるし…。」


「夫婦岩…いえ、機具岩です。絶対、あの人はあそこにいる。」


確信を持っているように、京子は力強く言う。


「機具岩…。」


あの場所は、幼いころから二人だけの秘密の場所だった。

そこに、彼方がいる。


「行こう、まだ間に合うかもしれない。」


救わないと。連れ戻さないと。

彼方は、自分にとってかけがえのないたった一人の双子の弟なのだから―。


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