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「ダリアの幸福」  作者: 麻丸。
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「不吉な手紙」


登場人物


高橋日向 双子の兄。一人称は俺。

高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。

坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。

中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。

矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。

渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。

竹内京子 二年生。優樹の妹。

新田百合 一年生。日向の恋人。

桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。

白崎医師 精神科医。

リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。

お姉さん リッキーの飼い主。

新田 椿 百合の姉。

竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。

篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。

麗華   彼方の客。

智美   彼方の客。

梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。

川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。

美波沙織 看護師

高橋奈津子 日向の母親


 「不吉な手紙」




遠くで階段がきしむ音が聞こえた。

誰かが二階へと上がってきたのだろう。

錆びて古くなったアパートの外階段は、ギシギシと嫌な音を立てる。

お洒落な外観に騙されてこのアパートを借りたのだが、実際は扉の立て付けが悪かったり、壁が薄かったりと、あちらこちらが痛んでいてボロボロだ。


ほどなくして、インターホンが鳴った。


京子は腰を浮かせることもなく、ベッドに寝転がった。

どうせ、誰が来たとしても、出るわけにはいかない。

鳴り響くインターフォンの音に耳を塞ぎ、京子は隣で肩を震わせている彼方の手を握り、「大丈夫」と小声で囁いた。


ここのところ、毎日こうだ。

夕方になると、必ず誰かが京子の家に訪れるのだ。

それが誰なのかは、わからない。

自分の携帯電話は彼方が持っているし、あれ以来、電源すらつけてないのだ。

毎日自分の家に通っているのは、友人か、教師か、それとも―。


なんにせよ、インフルエンザだと嘘を吐いたのだから、ほっといてほしい。

今は、例え誰が来ても、扉を開ける気はなかった。

こんな状態の彼方を、人には見せられない。


それにしても、今日は何日だっけ。何曜日だっけ。

日付感覚もあやふやになってきた。カーテンを閉め切った部屋では、昼夜すら曖昧だ。

いつからこうしてるんだっけ。いつまでこうしているんだろう。

テレビも携帯電話もないと、世間と隔離されたみたいだ。

まるで、この部屋だけ時間が止まってしまったような、そんな不思議な感覚になる。


ピンポーン…しばらくして、もう一度、ピンポーン…。

来訪者は、二度、三度とインターフォンを鳴らす。

京子は、心の中で「しつこいな」と思った。

この来訪者は、うるさく連打するわけではないが、ゆっくりと長い時間をかけてインターフォンを鳴らす。

少なくとも五分…いや、十分くらい粘るのだ。


どうせ留守を使うのだから、早く諦めて帰ればいいのに。

執念深いと言うか、諦めが悪いと言うか…。

しつこい男は嫌われるぞ、そう言いたい気分にすらなった。


何度もインターフォンが鳴り響く。

しばらくすると、足音が遠ざかり、再び階段が軋む音がした。

やっと諦めてくれたのか。今日は一段と粘ったみたいだ。


「行ったみたいですよ。」


そう言うと、彼方は僅かに顔を上げた。

不安そうな上目遣いを自分に向け、次に、玄関がある方に視線をやった。

赤く腫れた瞼に痩けた頬。骨が浮く体は、病的なほどにやつれている。


「さ、そろそろご飯にしましょう。何なら食べられますか?」


「…いらない。」


「ダメです。少しでもいいから何か食べないと。」


京子はベッドから降りて、キッチンへ向かう。

すると、すぐに後ろから彼方が慌ててついてきた。


「うーん。ロクなものがないですね…。」


冷蔵庫の扉を開けて、京子は首を傾げる。

思えば、もう何日もスーパーに行っていない。

野菜や肉の類は、ほとんど皆無に等しかった。


残っているのは、少々の野菜と、お酒のアテと、りんごにみかん。

せっかく買った肉まんや豆腐は、とっくに賞味期限が切れている。

あんなに大量に買ったのに、本当に無駄な買い物だったな、と京子は肩を落とした。


「適当にあまり物の野菜炒めますけど、それでいいですね?」


そう振り返って聞くと、彼方は首を振った。


「…これがいい。」


彼方が手に取ったのは、りんごだった。

幸い、傷みはなく、綺麗な状態だった。


「りんご…?でも、これじゃあ…。」


ご飯にはならないでしょ、そう言おうと思ったが、止めた。

ずっと食事を取らなかった彼方が、自ら食材を選ぶこと自体が大きな進歩なのだ。


「わかりました。すぐ切りますね。」


「…ウサギがいい。」


「ウサギ?ああ…。」


彼方に言われるまま、京子はりんごをウサギの形に切った。

お皿に並べられたりんごを見て、彼方はふっと小さな笑みをこぼした。

久しぶりに見る、彼方の笑顔だった。


「日向がね、いつもこうしてくれてたんだ。」


その頬から、涙が伝った。


「変だよね。味なんて変わらないのに、手間かけちゃってさ。

 日向、僕にだけこうしてくれるの。自分のは普通に切るくせにさ。」


「それだけ、彼方さんが特別だったんじゃないですか。」


「特別…。」


そう呟いて、彼方はウサギの形のりんごを見つめた。

長い睫毛がゆらゆら揺れる。

彼方は、この林檎を見つめて何を思うのだろう。


自分のためだけに生きて、そう言ったけれど、やっぱり彼方の頭の中は、日向のことばかりだ。

それを、今更どうこう言うつもりはない。

けれど、いつだって彼方を惑わせ、悩ませるのは、日向だ。

それが、もどかしくもあり、悔しくもあった。

自分だけを選んでくれれば、惑わせることも、悩ますことも、泣かせることだってありはしないのに。


そんなことを思ったって仕方ない。

彼方にとって日向は、生まれたときからずっと一緒にいる家族なのだから。

そんな二人の間に、自分が割って入ることはできない。

そうわかっていても、京子の心の中にモヤモヤとしたものが渦巻いた。


しばらくして、彼方は涙を拭って顔を上げた。


「そういえば、京子ちゃんと初めて会ったのも、ウサギ小屋の前だったね。」


「そうでしたっけ?最初に会ったのって、西棟の廊下じゃありません?夏休み前に。」


「違うよ。去年の春。京子ちゃんが入学してすぐくらいだよ。」


「去年?」


京子は首を傾げる。

彼方と初めて会ったのは、夏休み前だ。それも今年、二年の時。

移動教室で廊下を歩いているところを待ち伏せされて、今に至る…はずだが。


「僕、二年の時も飼育委員だったもん。ちゃんと覚えてるよ。

 入学したての頃、京子ちゃんたまに遠くからウサギ見に来てたよね。」


「あ…っ。」


言われて思い出した。

確かに自分は、一年の春にウサギ小屋に行ったことがある。


「あれは…高校にもなってウサギ小屋があるなんて珍しいと思っただけで…。」


「そう?普通じゃないの?」


「全然普通じゃないです。せいぜい小学校までですよ、ああいうのは。

 っていうか、彼方さんいたんですね。気付かなかった。」


「ひどいなあ。僕はちゃんと覚えてたのに。」


そう言って、彼方は唇を尖らせる。

子供のような拗ねた仕草を見るのも、随分久しぶりだ。


「でもまあ、それはそれで、出会う前から出会ってたみたいで素敵だね。

 僕、二年の頃から、京子ちゃんのことずっと、綺麗な子だな~って思ってたんだよ。

 もしかしたら、一目惚れってやつかもね。じゃあ、これは運命だ。」


「はいはい。また適当なこと言って。」


「適当じゃないよ。ホントのことだよ。」


「…どうだか。」


どうしてこうも彼方は、恥ずかしげもなく歯の浮くようなセリフを言えるのだ。

聞いているこっちの方が恥ずかしくなる。

どうにも今日の彼方は饒舌だ。


「ねえ、京子ちゃん。」


彼方は、京子の肩に凭れかかってきた。


「好きだよ。愛してる。僕、京子ちゃんがいないと生きていけない。

 京子ちゃんに捨てられたら、自殺するしかないくらい、好きだよ。」


「何言ってるんですか…。」


「でも…でもね、…もし僕が京子ちゃんの負担になるのなら、捨てていいからね。

 京子ちゃんの悲しむ顔は、見たくないから。…僕といるの辛くなったら、言ってね。すぐ…消えるから。」


瞼を伏せたまま、彼方はポツリポツリと呟く。

散々自分を振り回しておいて、今更捨てていいだなんて。馬鹿にするにもほどがある。

京子は盛大な溜息を吐いた。


「そんなことしませんよ。何があっても見捨てないって、私言ったでしょう?少しは私のこと信用してほしいですね。」


「…わかんないよ、先のことなんて。」


彼方は瞼を開け、チラリと上目で自分を見つめてきた。


「…でも、今はそう言ってくれるだけで嬉しいや。」


そう言って、彼方は柔らかい微笑みで笑った。


「もう。そんなこと言ってないで、りんご、早く食べないと茶色くなっちゃいますよ。」


「えー。じゃあさ、あーんってしてよ。」


「嫌ですよ、恥ずかしい。」


「前はしてくれたじゃない。あーんしてくれないと食べられない~。」


いつものように、彼方は茶化して甘える。

京子は仕方なしに、りんごを彼方の口元へと運んだ。


結局、彼方は半分ほどりんごを残して食事を終えた。

まあ、半分だけでも食べられただけよしとしよう。

笑ってくれるようにもなったし、大きな成果だ。


それにしても、明日からの食事はどうしよう。

冷蔵庫の中身はもう空っぽだし、この様子だと、とても買い出しになんて行けそうもない。

贅沢をするつもりはないけれど、彼方にもちゃんと栄養のあるものを食べさせてやりたかった。

彼方の様子を見て、短時間でも買い出しに行けたらいいのだけれど。


そんなことを考えながら、京子も食事を終えて、彼方を先に風呂へと促した。

彼方が風呂に入っている間だけが、自由に行動できる時間だ。

京子は、足音を殺して玄関へと向かった。

そして、郵便受けの中身を確認する。


服屋のダイレクトメールと、携帯電話の請求書。

数日郵便受けを開けていなかったが、思ったよりも郵便物は少なかった。

京子はその二つを持って部屋へと戻ろうとした。

しかし、その間から、一枚の紙がはらりと滑り落ちた。


京子は、しゃがんでその紙を拾う。

葉書よりも少し小さいメモ用紙だった。

そのメモ用紙には、綺麗に整った字で、こう書かれていた。


『彼方に会わせてほしい。  高橋』


なんとなく想像はついていたが、やっぱりそうか。

毎日インターフォンを鳴らしているのは、日向だったんだ。

日向は、自分が彼方を匿っていることを知っているんだ。


京子は躊躇いなくその紙を、ゴミ箱に捨てた。

こんなもの、彼方に見せちゃいけない。

ただでさえ不安定な彼方が、この紙を見て、今度は何をやらかすかわかったものじゃないのだから。


それから京子は部屋に戻り、古い雑誌を開いた。

いつも通りにしないと。動揺を悟られてはいけない。平静を保たないと。

日向から手紙が来ていたことを、隠さないといけない―。


彼方が風呂から出て、入れ替わりに京子が風呂場へ向かった。

やっと彼方が笑ってくれるようになったんだ。

食事だって、少ないけど食べてくれるようになった。

もうこれ以上、日向に彼方を掻き乱されたくない。


だから、日向の存在を隠さないと。

毎日インターフォンを鳴らしているのが日向だということを、彼方に気付かせてはいけない。

日向が彼方を探していることも、知られてはいけない。


もし、二人が会ってしまったら、どうなるのだろう。

日向は、彼方に何を言うつもりだろう。

責めるだろうか。軽蔑するだろうか。

それとも、彼方を引っ張ってでも自首させるつもりか。


いずれにせよ、明るい話ではないはずだ。

だって彼方は、自らの母親を殺した殺人者なのだから。

絶対に彼方を連れて行かせはしない。自分が必ず守ってみせる。

京子は、そう強く胸に誓った。


京子が風呂から出ると、彼方はキッチンで蹲っていた。

手には、先程捨てたはずのメモ用紙が―。


「来てたんだ、日向。」


「…みたいですね。」


「なんでこれ捨てたの?」


「見たくないだろうなあって思って…。」


なんだかバツが悪い。

良かれと思ってしたことだが、なんだか悪いことをしてしまったようだ。

けれど、彼方はその紙をじっと見つめたままだった。


しばらくして、彼方はその紙を丁寧に折りたたみ、まるで大切なもののようにポケットに入れた。


「会うんですか、日向さんに。」


彼方は、考えるように瞳を伏せた。


「…僕、これからどうしたらいいと思う?」


「どうしたらって…。」


論理的に考えたら、自首するのが一番だ。

そうはわかっていても、京子はそれを口に出すことができなかった。


今までは、犯罪を犯した人間は、自首をして罪を償うのが当然だと思っていた。

実の母親を殺すなんて、彼方は本当に取り返しのつかないことをしたとも思っている。

けれど、彼方と離れたくない。これ以上彼方に、不幸な目に遭ってほしくない。

暗くて寂しい檻の中になんて、入ってほしくはなかった。

けれど、いつまでも逃げていられるとも、思えなかった。


京子は、何も言えずに唇を噛む。

二人の間に、長い長い沈黙に訪れた。


やがて、彼方は小さな溜息を吐いて、立ち上がった。


「ごめん、変なこと聞いて。…そろそろ寝よっか。」


そう言って、彼方は自分の手を引き、ベッドへと向かう。

握った彼方の手は、小刻みに震えていた―。


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