「手放した過去と手放せない今」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。
渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。
竹内京子 二年生。優樹の妹。
新田百合 一年生。日向の恋人。
桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。
白崎医師 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
新田 椿 百合の姉。
竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。
篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。
麗華 彼方の客。
智美 彼方の客。
梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。
川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。
美波沙織 看護師
高橋奈津子 日向の母親
「手放した過去と手放せない今」
京子はパニックになっていた。
目の前で、彼方が過呼吸を起こして苦しんでいる。
どうしよう。どうすればいいんだっけ。
あの時は、どうやって彼方を落ち着けたんだっけ。
ぐるぐると思考を巡らせ、ほとんど反射的に京子は彼方を抱きしめた。
そのまま背中に手を回し、そっと、慰めるように震える背中を撫でた。
そうだ、思い出した。あの時は、何度も何度も、優しく背中を撫でたんだっけ。
級に抱きしめられ、彼方は驚いたように目を見開いたが、言葉は出ないようだ。
ただ困惑した顔で、はっ、はっ、と短い呼吸を繰り返している。
「大丈夫。私がいるから、大丈夫ですよ。」
彼方を安心させようと、京子は優しい言葉をかけながら、彼方の背を撫でる。
過度な呼吸に、息を吐くたび、彼方の肩は激しく上下していた。
「大丈夫だから。ゆっくり息を吐いて。…そう、上手。」
彼方は、力ない手で自分を抱きしめる。
その手は、縋りつくように震えていた。
苦しさからか、他の何かからか、彼方の瞳から涙が溢れた。
京子はそんな不安定な彼方の体を、しっかりと抱きしめていた。
どれくらいそうしていただろう。
十分かもしれないし、一時間かもしれない。
いや、もっと長い間だったかもしれない。
ゆっくりと、彼方の呼吸は落ち着いてきた。
体に力が入らないのか、完全に彼方は京子に体を預けていた。
「…落ち着きましたか?」
その体を抱きしめたまま、京子は囁く。
彼方は京子の肩に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
「これは…罰なんだ。」
消え入りそうなほどの小さな声で、独り言のように、そう彼方は呟く。
「罰?」
「いろんな人を、傷付けた罰。日向も…京子ちゃんも。」
顔を上げた彼方は虚ろな目で、彼方は力ない笑みを作る。
「ごめんね。迷惑かけたね。すぐ出ていくから…。」
そう言って立ち上がろうとしたが、彼方はふらついて再び床に膝をつく。
発作が治まったとはいえ、そんなにすぐには動けないだろう。
その証拠に、顔色はまだ青白いままだった。疲弊も浮かんでいる。
「そんな体で、どこ行こうって言うんですか。」
「でも…。」
「まだ、話は終わっていないでしょう?」
なんとしてでも、彼方をこの場に引き止めておきたかった京子は、少しキツい口調で言った。
そのせいか、それとも体が自由に動かないからか、彼方は京子を窺うようにじっと見つめた後、諦めたように、その場に座り込んだ。
「その前にさ、お水…貰えないかな?薬飲みたいんだ。」
そう言われ、京子は一度キッチンへ出て、水をコップに注いだ。
キッチンの窓を見ると、ほんのり外が明るくなってきていた。
部屋に戻ると、彼方は膝を抱えて、俯いていた。
「彼方さん、お水。」
「ありがとう。」
水を受け取る時の彼方は、なんだかぎこちない微笑みだった。
水の入ったコップを右手で持って、左手で上着のポケットを弄る。
手を滑らせたのか、数枚の薬のシートが散らばった。
「まだ本調子じゃないんでしょう?」
そう言って、京子は散らばったシートを集めて彼方に渡す。
「あ…ありがとう。」
薬を受け取る時の彼方の手は、小刻みに震えていた。
覚束ない手付きで、彼方はシートから薬を取り出していく。一つ、二つ、三つと、ゆっくりと。
彼方の手の平の上には、山盛りになるほどの薬が乗せられていた。
「あんまり見ないでほしいんだけど…。」
バツの悪そうな顔で、彼方は遠慮がちに言った。
そういえば、病気や薬の話をするのは嫌がっていたな。
「じゃあ、むこう向いてますから、さっさと飲んでください。」
そう言って、京子はそっぽを向く。
しかし、横目では彼方をじっと見つめていた。
そんなことを知ってか知らずか、彼方は一気に錠剤を口に入れ、水で流し込む。
そして、ゆっくりと嚥下をして、大きな溜息を吐いた。
床には、空になった薬のシートが数枚散らばっていた。
京子はそのシートを拾い上げ、部屋の中にあるゴミ箱に投げ入れた。
静かな部屋では、その些細な音がやけに大きく聞こえた。
そのまま京子は乱暴にドスンとソファーに座り、足を組む。
「なんで、貴方は…馬鹿なことばっかりするんですか。」
「ごめんなさい…。」
彼方は叱られた子供のように、その場で床に正座をして背中を丸めた。
「私、怒ってるんですよ。」
「うん…ごめんなさい…。」
弁解の言葉が出ないのか、それともそのつもりすらないのか、彼方は何度も何度も「ごめんなさい」と繰り返す。
いつもは自分よりもずいぶん大きく見えるその体が、今はなんだかやけに小さく見えた。
「出て行って、そのままもう二度と顔見せないつもりだったんでしょう?」
彼方は俯いたまま、何も言わない。
それは、肯定の意味だろうか。
「別れるつもりですか。」
また、彼方は何も言わない。
無言を貫くその姿勢が、余計に京子を苛立たせた。
「貴方にとって私も、しょせんその程度の女だったんですね。」
そう京子は吐き捨てた。
「違…っ!…それは違うよ…。」
彼方は顔を上げ、声を張り上げる。
しかし反射的だったのか、すぐにはっとした表情を浮かべ、気まずそうに目を伏せた。
そして、一度唇をキュッと結んで押し黙った後、自信無さげな声で小さく呟く。
「京子ちゃんのことは好き。…本当だよ。」
膝の上で握った拳が震えていた。
「バレなきゃ、何してもいいと思ってるんですか。」
「それは…。」
「そういえば、初めて一緒にお酒を飲んだ時も、そんなこと言ってましたね。」
―こういうのは、バレなきゃいーの。みんなやってるでしょ?
そう彼方が、悪びれる様子もなく言っていたことを思い出した。
「あのさ…。」
俯いたまま、彼方は自分を窺うように控えめに声を出す。
「こんなことを言うのは、すごいワガママで、自分勝手で、ひどいことだってわかってる。
わかってるんだけど…。」
躊躇うように、彼方は声と長い睫毛を揺らした。
「京子ちゃんが好き。嫌いにならないで。…捨てないで。…お願いします。」
そう言って、彼方は地面に手を付いて、深く頭を下げた。
精一杯、誠心誠意の気持ちを表しているのだろう。
「そうやって謝るくらいなら、最初からしなければよかったでしょう。」
「ごめんなさい。どうしても、そうするしかないと思ったんだ。
あんなことでもしないと、学費なんて稼げなかった。
僕にできることなんて、あんなことくらいしかなかったんだ…。
京子ちゃんには、本当にひどいことをしたと思ってる。
でも京子ちゃんのことは本当に好き。それは嘘じゃない。
今の僕には、京子ちゃんだけなんだよ…。」
頭を下げて蹲ったまま、彼方は言う。
鼻を啜る音が聞こえる。泣いているのか。
彼方はまるで叱られた子供のように背中を丸め、小さく小さくなっていた。
出会った時から、彼方は何一つ変わっていない。
馬鹿な人。可哀想な人。不器用で愚かで、けれど純粋なままの、大人になりきれない子供。
大切な者の前では、常に一途であろうとする姿勢。
何も変わっていない。純粋すぎる大馬鹿野郎だ。
京子は大きな溜息を吐き、ソファーから降りて、彼方の前に立った。
「…約束してください。もう他の女の人とは寝ない。手を繋ぐのも、キスをするのもダメ。
私が不誠実だと思うことは、今後一切、誰が相手でも、何があっても、絶対にしないこと。
これが守れるなら、今回のことは水に流します。」
恐る恐る、彼方は顔を上げる。
その瞳には、涙が滲んでいた。
「…許してくれるの?」
「許しませんよ。でも、目を瞑ってあげるって言ってるんです。」
そう言って、京子は彼方の前で膝をついた。
そして、その細い体を抱きしめた。
「きっと、私は、あなたを一人になんかしません。
だから、日向さんのためじゃなくて、私のために生きて。」
彼方の瞳から、涙が一粒零れ落ちた。
「約束する…。約束するよ…。ごめんなさい。本当にごめんなさい…。」
そう言いながら、彼方は自分を抱きしめて泣いた。
その腕は力強くて、京子はもう逃げられないと思った。
どんなに悲しい想いをしても、どんなに裏切られても、孤独に怯えるこの人を、独りにはできない。
人は、急には変われない。
きっと彼方は、これからも馬鹿なことを繰り返すだろう。
その度に、自分はまた悲しい想いをして、怒って、それでも結局許してしまう。
ああ、自分は本当にダメな男を愛してしまった。
でも、この人が好き。愛してる。愛しているんだ。
「ちょっと顔上げてください。」
彼方が泣き止んだころ、京子は彼方の耳元で囁いた。
「一発くらい、ビンタしてもいいですよね?」
ニッコリと、京子は微笑む。
彼方は、一瞬何を言われたのかわからない様子で、目をパチパチと瞬かせた。
けれど、すぐにその意味を理解し、困惑した表情を浮かべた。
「えっ…いや…。ううん、それで気が済むのなら…。」
覚悟を決めるように、彼方はギュッと目を瞑り、身を固くする。
そのビクビクしている様子が可笑しくて、けれどなんだか可愛らしくも思えて、ああ、自分は本当に彼方に毒されているな、と京子は思った。
京子は、その彼方の引き結んだ唇に、キスをした。
「へ…?」
目を開いた彼方は、驚いたように口をポカンを開けて、マヌケな顔になった。
すかさず京子は、緩んだ頬に一発ビンタをお見舞いした。
「痛っ…!何するの、もう…。」
痛みを堪えるように、彼方は頬を抑える。
「ビンタするって、ちゃんと宣言したじゃないですか。」
「もー…。その上げて落とす感じ、ホントずるい…。」
「それで許してあげるんだから、安いものでしょ。」
「まあ、そうなんだけどさ…。でも、ちょっと酷いよー…。一応、顔も商売道具なんだけど。」
頬をさすりながら、彼方は不満そうな顔をした。
そんなに痛いわけがない。充分に手加減したのに。
「ねえ、京子ちゃん。もう一回してよ。」
「ビンタを?」
「んなわけないでしょ、なんでそうなるの…。違うよ、キスだよ。」
そう言って、彼方はじっと京子の目を見つめる。
そんなに見つめられると、なんだか照れくさい。
酔いなんて、とっくに醒めているんだ。
「ね、お願い。僕のこと嫌いじゃないなら、キスしてよ。」
自分を窺うように首を傾げ、彼方は縋るような瞳を向けてくる。
本当に許されたのか、嫌われていないのか、まだ不安なのだろう。
ああ、もう、自分はシラフなのに。
そんな恥ずかしいこと、自分からなんて出来ない。
けれど、彼方の不安そうな顔を見たら、そんな意地なんて張っていられなくなった。
「目、瞑ってくださいよ。」
照れ隠しで、いつものように素っ気なく京子は言う。
「…またビンタとかしない?」
喜ぶかと思ったが、彼方は訝しげな視線を向ける。
「しませんよ。」
「さっきの、ちょっとトラウマになってるんだからね。まだヒリヒリするしさ。」
少し赤くなった頬を擦って、彼方は唇を尖らせる。
「あれは貴方が悪いでしょう。」
「それは…返す言葉もゴザイマセン。」
バツが悪そうにそう言って、彼方は目を閉じた。
先程のようにビクビクした様子はなく、純粋に京子のキスを待ちわびている。
京子はその唇に、そっと触れるだけの短いキスをした。
唇が離れると、彼方は惜しむように自分を抱き寄せた。
そして、彼方からキスをしてきた。
何度も何度も、短いキスを繰り返す。
どれくらいそうしていたのかは、わからない。
唇が離れたかと思うと、彼方は自分の肩口に顔を埋めて痛いくらいに自分を抱きしめた。
「…ねえ、絶対に一人にしないでね。」
カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいた。