「裏切りと罰」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。
渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。
竹内京子 二年生。優樹の妹。
新田百合 一年生。日向の恋人。
桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。
白崎医師 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
新田 椿 百合の姉。
竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。
篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。
麗華 彼方の客。
智美 彼方の客。
梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。
川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。
美波沙織 看護師
高橋奈津子 日向の母親
「裏切りと罰」
「ねえ、彼方さん。嘘吐かないで答えてほしいんですけど…。」
真っ暗な部屋の中。カーテンの隙間から洩れる月明かりだけが二人を照らす。
狭いシングルベッドの中、二人で身を寄せ合って見つめあう。
京子は彼方に腕枕をされながら、ずっと抱いていた疑念を口に出そうとしていた。
「何?」
彼方は笑みを浮かべたまま、小首を傾げる。
そのいつも通りの優しい声に、本当に口に出してもいいのか、迷いが生まれた。
もし、疑いを持っていることに対して、彼方が呆れたり、怒ったりして、嫌われたらどうしよう。
もし、その疑いが本当ならどうしよう。自分は彼方を今までのように愛せるのか。
もし、嘘と分かる仮面で笑いかけられたらどうしよう。何も信じられなくなるのではないか。
怖い。怖くて仕方がない。
でも、だめだ。聞かないと。疑いを晴らさないと。
じゃないと、自分は真っ直ぐに彼方を愛せない。
「…浮気、してないですよね。」
迷いからか、浮気だなんて漠然とした言葉に変わった。
情けない。けれど、決意したって、やっぱり躊躇ってしまう。
「何?突然…。」
彼方は、不思議そうに目を瞬かせる。
「するわけないじゃない。もしかして、最近元気なかったのも、そんなこと考えてたから?」
可笑しそうに笑いながら、彼方は髪を撫でる。
あまりにも自然に彼方が笑うものだから、拍子抜けした半面、京子は安堵した。
これは、嘘の笑顔なんかじゃない。誠が言ったことは、全部嘘っぱちなのだ。
心の中のもやもやが、すっと晴れていく。
「よかった…。」
京子は、抱き付くように彼方の背に手を回す。
安堵からか、瞼が熱くなった。じわりと涙が滲む。
どうやら酒を飲んでいると、涙腺が緩くなるらしい。
それを隠すように、彼方の胸に顔を埋めた。
「ずっと悩んでたんです。誠さんが変なこと言ってきたから…。」
「…誠さんに会ったの?」
心なしか、彼方の声が一層低くなったように感じた。
「どんな話、したの?」
その声は、動揺しているように、どこか焦って聞こえた。
京子が顔を上げると、彼方は不安そうな表情を浮かべていた。
「どんな話って…。ただの誠さんの作り話ですよ。それも、とっても悪趣味な。」
「だから、作り話ってどんな?」
切羽詰ったような彼方の表情に、京子は戸惑いを覚えた。
だって、彼方は笑って否定したじゃないか。
「待ってください!浮気…してないんですよね?」
「浮気…はしてないよ。」
気まずそうに、彼方は目を逸らす。
浮気はしていない。じゃあ、何ならしているんだ。
「浮気以外のことをしているんですか?」
彼方は、目を逸らしたまま答えない。
焦りと動揺が、京子の中に広がる。
「答えてくださいよ!」
京子は身を起こし、彼方の肩を掴んだ。
一瞬目が合ったが、彼方は狼狽えたようにすぐに視線を逸らす。
「だから…浮気はしてないってば。」
彼方は動揺しているのか、早口で捲し立てる。
「わたしと付き合ってから、一度も?」
「僕が好きなのは、京子ちゃんだけだよ。」
「話を逸らさないで、ちゃんと答えてください!」
静かな部屋に、悲鳴にも、叫びにも似た声が響いた。
ああ、どうしてこんなに感情的になってしまうのだろう。
彼方のことを、信じていたかったのに。愛していたかったのに。
心の中で、何かが音を立てて崩れていく気がした。
気付かぬうちに溢れた涙が、ポロポロと彼方の首に、肩に、顔に、降り注いでいた。
その雨を受けた彼方は、狼狽した表情を歪め、辛そうに目を伏せた。
そして、静かに起き上がり、肩を落として項垂れる。
「…ごめん。誠さんが言ったことは、たぶん…きっと…全部、本当のことだよ。」
歯切れ悪く曖昧に言葉を濁したのは、罪の意識があるからなのか。
彼方はベッドに目を落としたまま、京子の方を見ようとはしなかった。
「…枕営業とか、売春だ、って…誠さんは言ってましたけど。」
口に出すと、声が震えた。
「…ごめんなさい。」
否定することなく、彼方は目を伏せる。
それは、肯定の意味なのか。
信じたくない。嘘だって言ってよ、ねえ。
いつもみたいに、「冗談だよ」って、笑ってよ。
貴方は、いつも嘘で全部を塗り固めてきたじゃないか。
けれど彼方は、寝巻にしているジャージの裾をギュッと握ったまま、何も言わなかった。
もはや、項垂れているのか、頭を下げて謝罪しているのか、わからない。
嘘を吐くことなど諦めて、観念しているようにも見えた。
静かな暗闇の中、重たい沈黙が二人を包む。
狭いベッドの上で向き合って座っていても、二人の視線は交わらなかった。
彼方は目を伏せたままだし、京子も彼方の顔を見るのが怖かった。
ショック ―というより、悲しみが京子の心を支配していた。
自分だけが特別だと思っていたのに。自分が彼方の一番であると思っていたのに。
彼方は、他の女にも見せる笑顔で自分に笑いかけ、他の女にするように自分と手を繋ぎ、他の女と同じように自分にキスをしていたのだ。
そう思うと、再び涙が頬を伝った。
唇を噛んで涙を堪えてみても、もう、止まらなかった。
ポロポロと、涙が頬を伝って、顎を伝って、膝に落ちる。
彼方は自分に手を伸ばそうとしたが、その手は躊躇うように空中で停止し、彼方の膝の上で固く握られた。
そして、小さく「ごめんなさい」ともう一度呟いた。
「どうして…どうして、そんなことしてたんですか。」
やっと絞り出した声に、嗚咽が交じる。
何度も涙を拭っても、止まる気配はない。
京子の袖は、溢れ出す涙で色が変わっていた。
「お金が…ほしかったんだ。」
消え入りそうなほど小さな声で、彼方は呟いた。
もう何も隠す気はないようだ。いや、最初から、嘘を吐くつもりなんてなかったのかもしれない。
「お兄ちゃんは、日払いで給料渡してるって…言ってましたけど。」
「…もっと、たくさん…早く集めたかった。」
「どうして…?なんのために…そんなこと…。」
彼方は何かを耐えるように、唇をギュッと噛んで、ゆっくりと顔を上げた。
そして、意志が籠った目で自分を見つめる。
「日向の…学費のために。」
ハッキリした口調で、彼方は言い切った。
「前に…僕の家のことは話したでしょ?
日向がせっかく見つけた夢なんだ。せめて、お金の心配だけはさせたくないって…思って…。」
日向に頼まれたわけじゃない。…全部、僕が勝手にやったことなんだ。」
躊躇いながら、けれども彼方は一言一言力を込めて話した。
京子は呆然とその話を聞きながらも、つい最近、日向が美容系の専門学校の専門入試を受けた、と話していたことを思い出した。
その時の日向は、やけに機嫌が良くて、虎丸と他愛のない話をしながらも終始ニコニコと笑っていた。
目の前の彼方とは対照的に、明るく、幸せそうに笑っていた。
「なんで…どうして、あなたが、日向さんのためにそこまでしなきゃいけないんですか!
そんなの…そんなのおかしいでしょ!?あの人ばっかり幸せになって…なんで貴方は、いつも…こんな…。」
京子は彼方の肩を掴んで、怒りに任せて揺さぶった。
彼方は抵抗しなかった。自分の気の済むように、とでも思っているのか、ただされるがままだった。
「日向が大切だから。…でも、一番は京子ちゃんだよ。こんなこと言っても、もう信じてもらえないかもしれないけど。」
そう言って、彼方は自嘲気味に笑った。
「私と…付き合い始めてからも、してたんですか…?」
「…ごめん。」
「…今も?」
彼方は、静かに首を振る。
「もうしてない。…嘘じゃないよ。信じられないと…思うけど。」
彼方の返事を聞いて、京子は何も言えなくなった。
もはやこれは、浮気と呼んでいいのかすら、曖昧だ。
浮気の方が、よっぽどマシだったかもしれない。
けれど、裏切られたことには変わりない。
信じていたのに。愛していたのに。どうして…。
けれど、少なからず同情心があるのも事実だった。
全部彼方が悪いわけじゃない。悪いのは、彼方が置かれた環境と、何も知らないで幸せそうに笑う日向だと、京子は思った。
もちろん、そういう道しか選べなかった彼方にも、落ち度はある。
でも、彼方だけが悪いわけじゃない。そう、信じたかった。まだ、信じていたかった。
もうどうすればいいのか、わからなかった。
自分は、これからも彼方のことを愛せるのか。
不信感を抱きながら、今までのように、愛していられるのか。
京子が口を噤んだまま黙っていると、彼方は小さな溜息を吐いた。
そして、そのまま京子の横をすり抜けて、ベッドから降りる。
「ごめん、今日は帰るね。」
そう言いながら、彼方は脱ぎ散らかしてあった服を手に取る。
「…もう電車なんて、動いてないですよ。」
「うん。でも、今は僕といたくないでしょ。…大丈夫、適当に時間潰して、始発で帰るから。」
こんな時でも、彼方は笑う。
悲しい悲しい微笑みを、自分に向けるのだ。
「…逃げるんですか。」
「…ごめんね。」
「なんで…。」
黙々と着替えていく彼方を、京子は呆然と見つめていた。
何も言えないまま、ただ、見つめていることしかできない。
そうしているうちに、着替え終わった彼方は、上着を羽織り、部屋のドアに手を掛けた。
「本当にごめんね。好き…だったよ。…じゃあね。」
泣いてしまいそうな顔で、彼方は微笑みを作る。
そしてそのまま、自分に背を向けた。
今ここで彼方を引き留めなかったら、もう二度と会えない気がした。
それが何故だかは、わからない。けれど、そんな悪い予感がしたのだ。
―彼方は、自分を手放すつもりだ。
「待って!」
京子はベッドから飛び降りて、彼方の腕を掴んだ。
いつもそうだ。
彼方はいつもそうやって、本当に大事なものばかりを諦めて、手放していくんだ。
日向を、そして、自分さえも。
逃がさない。逃がすものか。こんな終わり方なんて、絶対に嫌だ。
腕を引っ張って、無理矢理彼方を振り返らせる。
彼方は、心臓を押さえ、苦しそうに顔を歪めていた。
心なしか、呼吸が乱れている。
「彼方さん…?」
力なく膝を折って、彼方は地面に倒れた。
そして、蹲りながら、呼吸を荒げ、苦しみだした。
心臓を押さえ、口元を手で覆って、まるで喘ぐような息遣いで必死に呼吸しようともがく。
これは― 過呼吸だ。
「ごめん…ごめんなさい…。」
彼方は苦しみながらも、うわ言のように謝罪を繰り返す。
瞳には涙が滲み、顔は血の気が引いて、青白くなっていた。