「信じたい心と疑惑の影」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。
渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。
竹内京子 二年生。優樹の妹。
新田百合 一年生。日向の恋人。
桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。
白崎医師 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
新田 椿 百合の姉。
竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。
篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。
麗華 彼方の客。
智美 彼方の客。
梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。
川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。
美波沙織 看護師
高橋奈津子 日向の母親
「信じたい心と疑惑の影」
文化祭が終わってからは、時間が経つのが早かった。
定期テストがあり、体育祭があり、バイトもいつも通り出勤して、慌ただしく毎日が過ぎていった。
外はすっかり寒い風が吹き、木々は丸裸になって、低気圧の影響で海が荒れる日が多くなっている。
天気はここ数日ずっと雨。たまに止んだと思っても、重たい曇天が広がる。
十一月半ば、すっかり冬になっていた。
京子は学校を終えて、いつものように家に向かう。
今日はバイトがないから、いつもより長く彼方といられる。
けれど、その足取りは、どこか重たかった。
結局、誠から聞いた話を彼方に言っていない。
言うまでもないと、そう思ったのだ。
けれど、胸の中の不安感は消えなかった。
むしろ、日に日に増していってる気がする。
彼方は相変わらず、毎日自分の家に訪れる。
ケーキを用意して、嬉しそうな笑顔で自分を迎えてくれる。
彼方が休みの日は当たり前のように泊まっていくし、何度かデートで買い物に行ったりもした。
端から見れば、仲のいい恋人同士。けれど、この事実を知っている人間はいない。
学園祭が終わった後も、何度か日向とバイトが一緒になって話したりもした。
けれど、相変わらず日向の口からは彼方の話は出ない。
それなのに、約束通りタケノコの煮物を持ってきたり、次のリクエストを待ちわびてみたり。
京子は、日向が何がしたいのか、わからなかった。
確信を持っているのなら、彼方を探してやればいいのに。彼方もそれを望んでいるはずなのに。
けれどそれは、知らないふりをしている自分が言えたことじゃない。
いっそ、二人が会ってちゃんと話をすれば、彼方は救われるのかもしれない。
しかし、その時、彼方にとって自分は、必要のない人間になるのではないか。
そう思うと、二人を会わせたくはなかった。
それが正しいことではないとは、わかっている。
けれど、何が正しくて、何が彼方にとっていいことなのかは、わからなかった。
遠くから日向を見つめたり、自分から日向の話を聞くのを楽しみにしていたり、日向の手料理を嬉しそうに食べたり。
その度に、彼方は寂しそうに笑いながらも、どこか満足げな表情をするのだ。
それはどこか、諦めたような様子だった。
自分といることで、彼方は普通の少年らしい笑顔を見せるようになった。
けれど、ふとした時に、切ない表情を浮かべているのだ。
やっぱり彼方は、少しも満たされてはいないのではないか。
だから、手当たり次第女を抱いていたのではないか。
誠の話は、本当か嘘かはわからない。
けれど、彼方が学校の中の不特定多数の女を抱いていたのは、事実だった。
それが、自分と付き合う前の話だとしても、なんだか心にもやもやとしたものが浮かんだ。
家に帰ると、例の如く玄関には彼方の靴が脱ぎ散らかっていた。
靴くらい揃えて、と何度も言っているのに、一度も揃えてくれたことはない。
この分だと、マンションの彼方の部屋は散らかり放題だな、と京子は思った。
いつもなら、この辺りが彼方が部屋から顔を覗かせてくるのに、今日はそれがない。
また眠っているのだろうか。いや、部屋からは物音が聞こえる。
何かしているのか。また、諦め悪く温泉宿でも探しているのだろうか。
部屋の扉を開けると、なにやら彼方は分厚い本に熱中していた。
机の上はぐちゃぐちゃ。紙切れや、糊など、いろんなものが散乱している。
「あ、おかえり。早かったね。」
その分厚い本を閉じて、彼方は机に散らばっていた紙切れを片付け始めた。
それを覗き込むと、全部彼方がお気に入りのカメラで撮った写真だった。
自分が映っているものもある。
「どうしたんですか、これ?」
「今日、写真屋さん行ってさ、プリントしてもらったんだ。せっかくだから、アルバム作ろうと思って。」
そう言って、彼方は先程まで熱中していた白い本を京子に手渡してきた。
「アルバム…?」
やけに重い本のページを捲ると、一ページ目は自分の写真だった。
いつだったか、彼方がカメラを買った日に、カフェで撮られたものだ。
写真の中の自分は恥ずかしそうに俯いていた。これが、一番最初の写真。
次のページを捲ると、同じ場所で京子がカメラに向かって微笑みかけている写真があった。
そうだ、最初の一枚が気に入らないから取り直してもらったんだ。
他のページもパラパラと捲っていく。
どうやら、まだ製作途中のアルバムだった。
ところどころ写真が貼ってあったり、なかったり。
彼方と一緒に行った水族館の写真や、家出ダラダラ過ごしているだけの写真、学園祭の写真なんてものもある。
ページを捲るたびに、つい最近のことなのに、なんだか懐かしい気持ちになった。
「そっちも見せてくださいよ。」
彼方が片付けようとしていた、アルバムに入る前の写真も見たくなった。
「いいけど、いっぱいあるよ?」
そう言って、彼方は百枚以上は軽く超えるであろう写真の束を渡してきた。
その大量の写真には、自分以外の人間も映っていた。
店で酔い潰れて、ソファーで眠っている優樹。
酒を片手に、頬を赤く染めて笑顔を見せる顔見知りの従業員。
カウンターに立つ彼方も、楽しそうに笑っていた。
誰に撮ってもらったのだろう。
こうやって写真が残っているということは、優樹や、他の従業員に撮ってもらったのだろう。
どの写真の中でも、彼方は無邪気に笑っていた。他の酔っぱらいと同じように頬を染めて、大口を開けて、心底楽しそうに笑っていた。
こんな笑い方もするのか。初めて見た。
けれど、彼方が映っている写真のほとんどで、着飾った綺麗な女性が何人も映りこんでいた。
親しそうに彼方の肩に手を置いたり、頬がくっつきそうなほど近くい距離だったり、彼方の肩に凭れかかっている写真まであった。
そんな写真を見て、京子は妙に複雑な気持ちになった。
この中に、彼方と寝た女もいるのだろうか。
当然酒が入っているだろうから、一夜の過ちなんてものも存在するのかもしれない。
誠の話が本当だとしたら、売春と言うことも充分考えられる。
写真に写っている女はみな、けばけばしいほど派手に着飾って、高そうなブランド物を身に纏っていた。
仕事がどうであれ、自分を派手に見せるためなら、金に糸目は付けないほどの金銭的余裕がある人種であるのは、間違いないだろう。
充分に、男を買う余裕がありそうだ。
しかも、こういう店で遊ぶような女だ。
あわよくば、なんて下心を持っていても不思議ではないだろう。
優樹も彼方も、いつもこんな女を相手にしているのか。
京子は無言で写真を彼方に突き返した。
なんだか、面白くない。
「あ、そうだ。今日休みなんだ。泊まっていっていいでしょ?」
自分が不機嫌になったのを気付かない様子で、彼方はいつものように笑う。
「聞かなくても、どうせ最初からそのつもりなんでしょ?」
いつもそうだ。自分に拒否権なんてない。
「えへへ。まあね。今日お酒も買ってきたからさ、後から飲もうよ。」
彼方が泊まっていくときは、時々、こうして酒を買ってきたりもする。
別に酒を飲んでどうこうしようというわけではなく、ただ、たしなみ程度に飲んで話をするだけ。
けれど、彼方が選んでくれる酒は、全部、甘くて、美味しくて、気付けば記憶を無くすくらい飲んでしまう。
次の日の彼方の機嫌がやけにいい理由を、聞きたくても、恥ずかしくて聞けなかった。
記憶を無くすと言っても、全くではない。なんとなく、覚えているものなのだ。
どうやら、酒を飲んだ自分は、口が軽くなり、理性が緩み、素直に彼方に甘えてしまうらしい。
普段の自分なら絶対言わないことを、酒がリミッターを外して、言わせてしまうのだ。
今日こそは控えて飲まないと、そう京子は思った。
小さな飲み会は、日が沈んでから始まった。
風呂を済ませ、適当におつまみを用意して、二人で彼方が借りてきたDVDを見ながら、酒を飲む。
彼方が用意したDVDは、昔のアニメ映画の名作だった。一々チョイスが子供っぽいのは相変わらずのようだ。
懐かしいなあ、と言いながら、彼方はビールを煽った。
京子もビールを一口貰ったのだが、苦くてとても飲めたものじゃない。
これが大人の味、なんて言って彼方は笑ったが、京子には理解できなかった。
自分には、甘い缶酎ハイがちょうどいい。
冷蔵庫の中は、ほとんど酒で埋め尽くされていた。
半分がビール。もう半分は、自分のために用意してくれた様々な缶酎ハイ。
京子の最近のお気に入りは、カシスオレンジとファジーネーブル。
程よい甘さと酸味が堪らないのだ。
気付かぬうちに、すっかり自分も悪い遊びを覚えてしまったな、と京子は思った。
酒を飲むと、時間の感覚が鈍るような気がする。
さっき飲み始めたばかりだと思っていたのに、二時間ほどの映画は、クライマックスを迎えていた。
気付けば机の上には酒の空き缶が大量に並んでいた。
数えてみると、ゆうに十缶以上を超える。
そのほとんどが、彼方が飲み干したビールだった。
四つ目の缶酎ハイを空けたとき、彼方がタイミングを待っていたかのように切り出した。
「で、最近どうしたの?元気ないみたいだけど。」
なるほど、そういうことか。
自分を酒に付き合わせたのは、本音を聞き出すためだったのか。
「別に…。そんなことないですよ。」
京子は唇を尖らせて、そっぽを向いた。
言えるわけない。聞けるわけない。
あの学園祭の日からずっと、もやもやしているだなんて。
「そんなわけないでしょ。まあ…言いたくないなら無理に聞くつもりないけど…。」
そう言いながら、彼方は少し腑に落ちない顔をする。
けれど諦めたのか、溜息を吐いて、「ま、いいや。ほら、おいで。」と、彼方はポンポンと自分の膝を叩く。
膝枕してあげる、ということだろうか。
京子は少し迷ったが、いい感じに酔いが回っていたので、素直に彼方の膝の上に寝転がった。
普段なら、恥ずかしくて絶対にしないことだ。
けれど、酔っている時くらい、素直に彼方に甘えたい。
どうせ、明日には忘れているのだから。
覚えていたとしても、忘れたフリをするのだから。
最近よく食べるようにはなったけれど、相変わらず彼方の体は細く、なんだか心許ない。
骨っぽい体はゴツゴツとしていて、あまり寝心地は良くなかった。
酒のせいか、いつもより暖かい体温。優しい指が髪を梳く。
顔を上げると、彼方と視線が合った。
「なんですか。そんなに見つめて。」
「いや?いつもそうなら可愛いのになー、って思っただけ。」
酔いで頬を赤らめて、彼方は首を傾げる。
「いつもは可愛くないって言うんですか。」
「ううん、いつも可愛いよ。」
そう言って、彼方は京子の頬にキスを落とす。
いつもそうだ。この男は、恥ずかしげもなく甘い言葉を吐き、平気で少女漫画のヒーローのような恥ずかしいことをする。
そんなことをされる自分の身にもなってみろ。
恥ずかしくて、火照った体から湯気でも出てきそうだ。
「ふふっ。京子ちゃん、顔真っ赤。」
彼方はおかしそうにクスクスと笑いながら、自分の頬を指で突く。
自分の頬だって赤いくせに。人のことなんて、言えないじゃないか。
「…お酒のせいですよ。」
「えー、そうかなあ?ちょっとドキドキしちゃったんじゃない?」
「してませんよ。…馬鹿。」
そっぽを向いて、京子はいつもの照れ隠しをした。
本当はドキドキしただなんて、口が裂けても言えない。
ああ、だめだ。今日はまだ酒が足りないんだ。
本当はもっと、酔いに任せて甘えたいのに。
けれど、こんな何でもない時間が幸せだった。
彼方の膝の上で不器用に甘えて、この人の愛を独り占めする。
まるで猫でも可愛がるように、彼方は自分の髪を梳き、肩を撫で、時にはキスを落とすのだ。
その手が、唇が、体温が、なんだか心地よくて、うとうとしてきた。
このまま眠ってしまいそうだった。寝心地の悪いはずのこの膝も、なんだかやけに安心する。
火照ってふわふわとする体を彼方に預けて、京子は目を瞑った。
せめて、今この時間だけは、彼方は自分だけのモノ。
他の誰にも渡したくない。自分だけを見ていてほしい。
その甘えも、弱さも、寂しさも、切なさも、全部を受け止めるから、ずっと隣にいてほしかった。
「…誰にだって、言えないことの一つや二つあるよね。」
どれくらいそうしていただろう。
彼方の小さく呟くような声で、京子は目を覚ました。
重たい瞼を開くと、彼方が微笑みを浮かべて自分を見つめていた。
「起きた?ぐっすりだったね。」
時計を見ると、午前一時を回っていた。
二時間ほど眠っていたのか。
自分の体には、彼方のカーディガンが掛けられていた。
彼方も寒いだろうに、自分を気遣ってくれたのか。
さり気ない優しさに触れるたび、やっぱり彼方が愛おしいと思った。
「ん。」
そう言って、京子は両手を広げた。
思っていることが伝わらないらしく、彼方は不思議そうに首を傾げる。
「そろそろベッド連れて行ってくださいよ。」
「仕方ないなあ。今日は一段と甘えん坊だね。」
そう言いながらも、彼方は嬉しそうに自分を抱えた。
京子は彼方の首に手を回して、ぎゅっと彼方に抱き付く。
シャンプーの香りがする。自分と同じシャンプーの香り。
ああ、もっと、香りだけじゃなく、なにもかも自分と同じになればいいのに。
誰か見ても、一目で彼方が自分のモノだと、わかるようになればいいのに。
この人は、自分の知らないところで何をしているんだろう。
いくら彼方のことが好きでも、彼方の彼女になったとしても、彼方の全部はわからない。
「誰にだって、言えないことの一つや二つあるよね」眠っていた自分に掛けた言葉だ。
なら、彼方も自分に言えない秘密がまだあるのだろうか。
それはどんな秘密だろう。
誠が言った通りなのだろうか。
いや、彼方を信じたい。そんなわけはない。
彼方が、自分を裏切るわけない。絶対に、絶対に。
自分が考えていることを知るわけもなく、彼方は自分を優しくベッドに下ろす。
自分をベッドの横たえて、彼方の体は離れていく。もっと、くっついていたいのに。
けれど、彼方が離れたのは束の間だった。
テレビを消して、部屋の灯りを消して、彼方は暗がりの中、ベッドへと戻ってきた。
そして、ベッドに横になるわけでもなく、自分に覆い被さってきた。
自分を組み敷いたまま、彼方は黙って見つめてくる。
ああ、もしかして、今日はそういうつもりだったのか。
京子は受け入れるつもりで、彼方を真っ直ぐに見つめ返した。
しかし、彼方は眉間に皺を寄せ、何かを諦めたかのように息を吐くた。
そして、自分の上から退いて、ごろんとベッドに寝転がる。
「そろそろ寝よっか。」
拍子抜けだ。
いつかも、こんなことがあった気がする。
そうだ。この男は、いつも自分を抱こうとはしないのだ。
「…何もしないんですか?」
「明日も学校でしょ。早く寝ないと、寝坊しちゃうよ。」
さも当たり前かのように彼方はそう言い、腕枕を勧めてくる。
京子のその腕に頭を乗せ、ぐっと彼方に近付いた。
彼方は、満足そうに笑みを浮かべる。
けれど京子の心の中は、もやもやとしたものが渦巻いた。
今ここで酔いに任せて、全てを言ってしまおうか。
いや、ダメだ。まだ答えを聞く勇気は、ない。
でも聞かないと、この心のもやもやは消えることはないだろう。
しかし、その答えを聞いた時、自分は彼方を今のように愛せるのだろうか。
いや、まだ彼方が浮気をしていると決まったわけじゃない。
ましてや売春だなんて、ただの誠の作り話だ。きっと、嫌がらせで適当なことを言ったんだ。
自分は彼方を信じたい。だからこそ、疑いを晴らさないと。
きっと彼方は、嘘でも自分の望み通りの答えを返してくれる。
京子は意を決して、口を開いた。