「特別な日」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。
渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。
竹内京子 二年生。優樹の妹。
新田百合 一年生。日向の恋人。
桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。
白崎医師 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
新田 椿 百合の姉。
竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。
篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。
麗華 彼方の客。
智美 彼方の客。
梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。
川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。
美波沙織 看護師
高橋奈津子 日向の母親
「特別な日」
十月二十二日。木曜日。
今日は、日向の誕生日だった。
百合は顔を合わせるたびに、何度も「おめでとう」と言ってくれた。
最初の「おめでとう」は、午前零時ピッタリに電話で。
「誰よりも先に言いたくて」と、百合ははにかみながらお祝いの言葉を言ってくれた。
二度目は、いつものように駅まで百合を迎えに行ったとき。
「おはよう」よりも先に、百合は「おめでとう」と言ってくれた。
それから休み時間も、昼休みも、顔を合わせるたび、目が合うたび、何度も何度も「おめでとう」を口にした。
一日にこれだけおめでとうと言われたことは、今まであっただろうか。いいや、ない。
なんだか、一生分の「おめでとう」を言われたような気分だ。
日向は気恥ずかしく思いながらも、やっぱり嬉しかった。
そして放課後。
日向は百合と共に電車に乗っていた。
宣言通りにケーキを焼いたからと、百合の家に招待されたのだ。
初めて訪れる百合の家。
誘いを受けた時は嬉しくてすぐに二つ返事で答えたが、冷静になって考えて、少し後悔した。
百合の家に招待されると言うことは、百合の家族と顔を合わせるかもしれないということだ。
姉の椿は面識があるからまだいいにしろ、百合の母親や父親にも会うかもしれないのだ。
何と言って挨拶をすればいいのか。交際していることも伝えるべきなのだろうか。
百合の両親は、自分のことをどう思うのだろうか。
百合の両親への挨拶なんて、まだ早い。心の準備なんて、全然できていない。
それに、ドラマや映画の世界では、交際を父親に反対されるなんてことは、日常茶飯事だ。
もし、百合との交際を反対されたらどうしよう。
いや、反対されたとしても百合を手放すつもりはない。
ああ、でも百合の両親に気に入られなかったらどうしよう。
考えれば考えるほど、ネガティブな方向に想像が膨らむ。
日向は、ガチガチに緊張していた。
「何か、ちょっと胃が痛くなってきた…。」
「もー、ひーくんったら。そんなに緊張しないでくださいよ。別に、結婚の挨拶しに行くわけじゃないんですから。」
百合は気にしていない様子で、おかしそうに日向を笑う。
「そうだけどさ…。でも、やっぱりなんか緊張する。」
バクバクと鼓動する心臓を宥めるように、日向は胸を撫でる。
けれど駄目だ。動悸は収まりそうもない。
「…あ。こういう時って、何か手土産とか用意した方がいいんだっけ…?どうしよう…何も持ってきてない…。」
「そんなのいりませんよ。それこそ、結婚の挨拶みたいじゃないですか。」
「でも、家にお邪魔するわけだし…。」
「ひーくんはお客様なんだから、そんなの気にしなくていいんですよ。」
「でもなあ…。なんか俺、失礼なことやらかさないかな…大丈夫かな…。」
気持ちを落ち着けようと、大きく深呼吸を一つ。
駄目だ。何をしてみても落ち着かない。
こうしている間にも、電車はゆっくりと百合の家へと近づいていく。
「少しは落ち着いてくださいよ。ほら、手握っててあげますから。」
そう言って、百合が手を絡めてきた。
薬指のリングがコツンと手の甲に当たる。
百合の体温で、少しだけ平静さを取り戻した。
「だって…やっぱり百合のご両親には、良く思われたいじゃん。将来のこと、考えてないわけじゃないんだし…。」
口に出して言うと急に恥ずかしくなって、日向は百合と繋いだ手と反対の手で口元を覆う。
そんな日向を見て、百合はにんまりとした笑みを見せた。
「ひーくんは、私の未来の旦那様ですもんね。」
「百合は、俺の未来のお嫁さんになってくれるの?」
「もちろんですよ。」
最近は、二人の将来の話をすることが多くなった。
先が見えなくて、未来なんてないと思っていた以前とは、大違いだ。
今の自分は、高校卒業後の進路もハッキリ決まって、未来が目に見える形で開けた。
夢物語だと思われてしまうかもしれないけれど、日向は百合との将来を真剣に考えていた。
だからこそ、今これから百合の両親に会うということに、緊張が隠せなかった。
電車を降りて、百合の家へと向かう。
緊張しながらも外を歩いていると、日向はあることに気付いた。
日向が住む町とは違い、ここは海がない。
百合が暮らすこの土地は、山と田畑ばかりの静かな田舎だった。
海の近くで育った自分から見れば、なんだか寂しい印象を受けた。
この町には、青い海がない。
駅から十分ほど歩いた先に、百合の家はあった。
百合が暮らすと言う家は、白い壁が印象的な庭付きの大きな一軒家。
想像していたよりもずっと立派な家だった。
まるでおとぎ話にでも出てきそうな洋風の外観は、まるでカフェや外国の家のようにお洒落だった。
広さも相当のものだろう。自分の家の二倍も三倍もありそうだ。
「百合って、…もしかしてお嬢様?」
「へ?なんでですか?普通ですよ?」
百合は不思議そうな顔で首を傾げる。
そうは言うが、明らかに豪華な佇まいの住宅に、日向は呆気にとられた。
綺麗な白い壁や、よく手入れが行き届いた庭は、割と新しいものだろう。
家の横には、車が3台ほど停められそうな広い駐車場も付いている。
今はその広い空間に、白い軽自動車だけが止まっていた。
誰の車だろうか。母親か、もしくは父親か。
どっちにしろ、百合の家族が在宅と言うことだ。
また緊張が押し寄せてくる。
当たり前だが、百合は慣れた様子で玄関の扉を開けようとする。
日向はその手を掴んだ。
「ま、待って。ちょっと深呼吸させて。」
情けないとは思うが、往生際が悪いとは思うが、心の準備にまだ時間がかかる。
百合に格好悪いところを見せたくないのに。
頭が真っ白になりそうだった。
「だから大丈夫ですって。今はたぶん、お姉ちゃんしかいませんよ。」
百合はクスクスと可笑しそうに笑う。
「それに、お姉ちゃんは結構ひーくんのこと、気に入ってますよ。」
「…ホント?」
「本当です。『日向君は可愛い子ね~』って言ってましたよ。」
「可愛くは…ないと思うけど。」
「あら。ひーくんは意外と可愛いですよ。」
そんなことを話していると、ふいに玄関の扉が開いた。
中から現れたのは、百合の姉、椿だった。
「あらあら。そんなところにいないで、早く入ればいいのに。それとも何?結婚の挨拶でも考えてた?」
椿は二人を見て、少し意地悪そうな顔で笑う。
扉越しに会話を聞かれていたのだろうか。
そう思うと、更に日向は恥ずかしくなった。
「えっと…その…。」
なんと返せばいいのかわからなくて、日向は口ごもる。
「もー。お姉ちゃんったら、あんまりひーくんをからかわないでよ。」
頬を膨らませながら百合は言う。
「ふふっ、ごめんごめん。おかえり、百合。日向君も久しぶりね。」
椿は百合に似た顔で、ふっと微笑む。
「えっと…お久しぶりです。」
日向は、ペコリとぎこちなく頭を下げた。
「あら、かーわいい。そんなに緊張しちゃって。大丈夫よ。
お父さんは仕事で帰ってくるの遅いし、お母さんも二人に気を利かせて出掛けてるから。」
「お姉ちゃんは、気を利かせてくれないの?」
「お姉ちゃんも、もう少ししたら出かけるわよ。
今日は二人っきりにしてあげないとね~。日向君、誕生日なんでしょ?」
「あ、えっと、はい…。」
「おめでとう。十八歳になったのよね?もうすっかり大人じゃない。」
さあ、入って入って。と椿に言われ、二人は家へと上がった。
外観通りの広い家だった。玄関だけで六畳はありそうだ。
廊下も広く、部屋の一つなんじゃないかと思うくらい開けた空間だった。
百合に案内されたのは、階段を上って二階の一番奥の部屋。
扉を開けると、一目で百合の部屋だとわかった。
ピンクの壁紙と白い天井、可愛らしい小物や雑貨が溢れている。
可愛らしいというか、女の子らしいというか。百合にピッタリだ。
「今、お茶淹れてきますね。適当に寛いでいてください。」
そう言い残して、百合は部屋を出ていった。
可愛らしい部屋に、ポツンと一人残された。
なんだか女の子特有のいい香りがする。自分が好きな、百合の香り。
日向は部屋を見渡してみた。
白とピンクを基調とした家具。本棚にはファッション雑誌や少女漫画。
学習机の上は整理整頓されている。カーペットは水玉模様。
膝の高さほどの小さな机に、ふわふわのクッション。
大きな窓から見える景色は、見晴らしがよかった。
この部屋が、百合が毎日生活している場所。
ふとベッドを見ると、真ん中に大きな黒い猫のぬいぐるみがあることに気付いた。
日向はそれを手に取る。
以前、百合が、自分のことを猫のようだと言ったことを思い出した。
あの時は、ずっと一緒にいられるのなら、百合がご主人様でも悪くはないな、と思った。
その後に、百合がメイド服なんて着るものだから、どっちがご主人様なのかわからなくなったけれど。
でも、飼う方か飼われる方なら、自分は飼われる方がいい。
首輪でも何でもつけて、自分を繋ぎ止めていてほしかった。
百合のためならなんだってできるし、何だって捨てれる。
そうやって、彼方への未練を断ち切った。
自分にとって、百合は、女神様のようなもので、絶対的な指針だ。
今の自分の人生の中心は、百合だ。
百合がいたから、百合のおかげで、自分は変われた。
今の自分を作ってくれたのは、百合なんだ。
だから百合には、一生頭が上がらないだろう。
でも、それでいい。それが、自分の幸せなんだ。
そんなことを考えていると、部屋のドアがノックされた。
「日向君、ちょっといい?」
その声は、椿のものだった。
「あ、はい。」
日向が答えると、扉を開けて、椿が顔を覗かせる。
「あら、そのにゃんこ。…百合から何か聞いた?」
椿は自分が手に持った猫を見て、ニヤニヤと笑みを浮かべる。
心なしか、少し悪戯っ子のような顔だ。
「いえ…、何も。」
わけがわからずに日向が首を振ると、椿は声を潜めて言った。
「それねえ、この前百合とクレーンゲームで取ったんだけど、百合ったらそのにゃんこに『ひーくん』って名前つけて、毎日一緒に寝てるのよ。」
「えっ…この猫に?」
「ええ。毎日にゃんこのひーくんと一緒に寝てるのよ。ホント、子供っぽくて可愛いでしょう。」
椿は、おかしそうにクスクスと笑う。
日向はその猫のぬいぐるみを見つめてみた。
似て…ないと思う。自分はこんなに可愛くない。
けれど、百合がこの自分の名前がついた猫と毎日寝ているのを想像して、なんだかおかしいような嬉しいような気持ちになった。
同時に、このにゃんこを少し羨ましく感じる。
自分は、今は百合と一緒に眠れないのに。
「あ、そうそう。それでね、ちょっと日向君、手、出して。」
「?…はい。」
不思議に思いながらも、日向は椿に手を差し出した。
その手に、椿の手が上から重ねられた。
いや、何かが手の平に置かれている。それを隠すように、椿が手を重ねている。
「誕生日プレゼント、って言うとちょっとアレなんだけど…。まあ、餞別だと思って。きっと使うと思うから。」
「え?えっと…ありがとうございます。」
「百合に見つからないように、隠しとかなきゃ駄目よ。」
そう言って、椿は手を離す。
自分の手の平に置かれていたのは、コンドームだった。
「えっ!?」
日向は驚いて、避妊具を床に落としてしまう。
「ふふっ、うぶねえ。でもいつか使うことになるんだから、ちゃんと持ってなきゃ駄目よ。」
椿はニコニコと気にもせず床に落ちた避妊具を拾って、再び日向に握らせた。
「いや…あの…使わ、ない…です。」
「今は使わなくても、いつか使う時が来るでしょ~?
いざっていう時に、ちゃんとこういうのを持ってるのが男の子のマナーよ。」
半ば無理矢理に避妊具を日向に押し付け、椿は微笑む。
その姿は、自分の反応を見て楽しんでいるようだ。
「まあ、でも、日向君は本当に優しくていい子ね。百合のこと、安心して任せられそうだわ。」
「そんなことないですよ。俺…情けないところいっぱいあるし。百合に助けてもらってばかりだし…。」
「そうかしら。でも、百合はワガママだし頑固だから、ちょうどいいんじゃないかしら。
あの子、結構周りを振り回すタイプだし、日向君くらい優しくてしっかりした子が一番合うと思うけど。」
「似合ってますかね…?」
「お似合いよ。百合も日向君のこと大好きみたいだし。」
その言葉で、椿に認められたような気がした。
百合の家族に、認められたような気がした。
日向は緊張が解けて、一気に安堵する。
「あー!お姉ちゃん!ひーくんにちょっかい出さないって言ってたじゃない!」
その声に、日向は、反射的に押し付けられた避妊具をズボンのポケットに隠す。
廊下には、盆に紅茶とケーキを乗せた百合が立っていた。
「ちょっと話してただけよぉ。ねえ、日向君。」
「あ、はい。」
百合は、訝しげに二人の顔を見比べる。
日向は、動揺を悟られまいと平静を装って見せた。
「もー、ひーくんに何か変なこと言ってない?」
「言ってない、言ってない。昨日、百合が三回もケーキ焦がしたことくらいしか言ってないわよ。」
「それ内緒にしといてくれるって言ってたじゃない!お姉ちゃんのバカー!」
「ふふふ。口が滑っちゃった。あ、そろそろ私行かないと。」
ポケットから携帯電話を取り出して、椿は時間を確認する。
「じゃあ、後は二人でごゆっくり~。」
そう言い残して、椿は何処かへ出掛けてしまった。
まるで嵐のようだった。
いきなり避妊具を渡して来たり、恥ずかしげもなくそういう話をしたり。
なんというか、凄い人だ。それに、自分よりも遥かに大人で、余裕がある。
けれど、押しの強さは百合と同じ。
あの少し強引なところは、似たもの姉妹だな、と日向は思った。
それからは、二人で紅茶を飲んで、百合が作ってくれたケーキを食べた。
百合が作ったケーキは、見た目が少し不格好だった。
歪な丸い形で、スポンジはパサパサだし、生クリームも少しベッタリとしている。
けれど、今までの人生の中で一番美味しいケーキだった。百合の愛情がたくさん籠っている。
不器用ながらも、自分のために無理をして精一杯作ってくれたのだろう。
それだけで、充分幸せに思えた。
「誕生日プレゼントです。開けてみてください。」
ケーキを食べ終えてから、百合は一つの紙袋を差し出した。
日向はそれを受け取り、中身を覗くと、茶色のチェック柄が見えた。
「マフラーだ…。」
手に取って袋から出すと、そのマフラーが姿を現した。
ふわふわの暖かい生地に、お洒落なバーバリーチェック。
「ひーくん、寒がりだって言ってたから。これで暖かいでしょ?」
「ありがとう。大事にする。毎日つける。」
そう言って、日向はさっそく貰ったマフラーを首に巻いてみた。
暖かい。百合とおんなじ温度に包まれているみたいだ。
百合からの初めてのプレゼントに、日向は嬉しくてしょうがなかった。
「でも、すっごいプレゼント選ぶの悩んだんですよ。
坂野先輩に聞いたら、『頭にリボンつけて、私がプレゼント!ってやれ』とか言われるし、
中村先輩に聞いても『百合ちゃんがくれるものなら、なんでも喜ぶだろ』って言うし。
坂野先輩の意見は即却下として、中村先輩は模範解答過ぎて、逆に悩みますよね!」
いつの間に、二人と連絡を取っていたのか。
けれど、確かに二人ならそう言いそうだな、と日向は思った。
「まーた百合は、俺の知らないところで他の男と仲良くして。」
「あら、まーた嫉妬ですか?」
「うん。」
「今日はやけに素直ですね。」
「いいだろ、誕生日くらい百合を独占したい。」
そう言って、百合を抱きしめる。
久々に触れる百合の体温に、ひどく安心した。