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「ダリアの幸福」  作者: 麻丸。
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「小鳥のさえずり」


登場人物


高橋日向 双子の兄。一人称は俺。

高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。

坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。

中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。

矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。

渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。

竹内京子 二年生。優樹の妹。

新田百合 一年生。日向の恋人。

桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。

白崎医師 精神科医。

リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。

お姉さん リッキーの飼い主。

新田 椿 百合の姉。

竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。

篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。

麗華   彼方の客。

智美   彼方の客。

梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。

川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。

美波沙織 看護師

高橋奈津子 日向の母親



 「小鳥のさえずり」




「ごめんね。荷物持ってもらっちゃって。」


そう言って、母親は申し訳なさそうな顔を見せる。


「いいよ。母さん怪我人なんだし。」


「もう体は平気よ。」


「無理しなくていいから。骨折してるだろ。」


母親の荷物は、小さなトートバッグ一つに収まった。

日向は少しの着換えしか入っていない軽いトートバッグを肩にかけて、二人で駅へと向かうバスに揺られていた。


週が明けた月曜日。母親が退院する日だった。

日向は学校帰りに病院まで母親を迎えに行っていた。

母親は左腕の骨折以外は元気な様子で、優しい微笑みを見せる。

その姿は、母親と言うよりは、無邪気な少女のようだった。


母親は窓の外の景色を指さして、「あそこのケーキは美味しいのよ」「あそこのお店は昔からあるの」と楽しそうに呟く。

どうやら、無くなった記憶は自分や彼方のことだけで、街に並ぶ店の名前もわかるし、箸の使い方も慣れたもので、日常生活を送れるほどの知識はあるらしい。

日向は静かに頷いたり、相槌を打ったりして、母親の言葉に耳を傾けた。


なんだか知らない人と話をしているみたいだ。

記憶を無くして、母親が全くの別人に変わってしまったように感じる。

そんな都合のいいことがあってもいいのだろうか、と思いながらも、日向は少しだけ安心していた。


バスを降りて駅へ着いた時、母親は駅前の並ぶ飲食店を眺めて、こう言った。


「せっかくだから、どこかでご飯食べていきましょう。」


何がせっかくだからかは全くわからなかったけれど、それを言っても仕方がないため、日向は「ああ、うん。」と二つ返事で答えた。

母親が選んだのは、裏路地に入ったところにある真新しいカフェ・レストラン。

木目調の床と天井、暖色の照明が落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

周りを見渡しても、カップルや女性同士ばかり。

こんなお洒落なお店に母親と来るなんて、なんだか少し気恥ずかしい気分になった。


「好きなものを注文してね。」


そう言われて自分が選んだのは、何の変哲もないオムライス。

母親はこの店の看板メニューらしい、魚介をたっぷりと使用したトマトパスタを注文していた。


「日向は、オムライスが好きなのね。」


「別にそういうわけじゃないけど…。パスタとか麺よりは、お米の方が好き。」


「あら、そうなの。」


何の面白みもない会話に、母親はニッコリと微笑んで、興味深そうに自分を見つめた。

他にも、好きな食べ物、嫌いな食べ物、学校での生活、得意な科目、色々と質問をされた。

まるで、自分の好みや性格、趣味などを聞き出しているようだ。

母親なりに、自分のことを知ろうとしてくれているのか。

日向は母親が質問してくる事柄に、一つ一つ躊躇いながらも答えた。


カフェ・レストランでの夕食を終え、二人は電車に揺られていた。

既に日は沈み、辺りはもうすっかり真っ暗だった。

車内の蛍光灯が、窓ガラスに反射する。

母親は、反射でほとんど見えない窓の外を黙って眺めていた。

その目つきは、まるで初めて訪れる知らない土地の景色を眺めるように、物珍しそうだった。

右を向いてみたり、左を向いてみたり。

キョロキョロと流れる景色を目で追う。

その落ち着きのなさは、まるで子供のようだった。


電車を降りて家に向かっている最中も、母親は初めて見る景色のように辺りをキョロキョロと見渡した。

時折少し興奮した様子で、「海が見える」だとか「自然がいっぱい」だとか、無邪気な感想を述べた。

その発言に違和感を覚えつつも、全ては母親の記憶がないせいだと、日向は自分に言い聞かせた。


家に帰ってリビングに荷物を置くと、母親は何処に座ったらいいかのかわからないような様子で部屋の真ん中に立ち尽くしていた。

どうやらこの景色にも見覚えはないらしい。まるで、借りてきた猫のようだ。


「適当に座って。何か飲み物用意するよ。コーヒーでいい?」


その言葉に、母親は困惑するような表情を見せた。

そして、もじもじと尻込みをする子供のように、躊躇いながら口を開いた。


「えっとね、…お母さん、コーヒー飲めないの。」


「あ…そっか。じゃあ紅茶にする?」


「ええ、お願い。」


そう言われ、日向は母親に背を向けてキッチンへと入った。

母親の姿が見えなくなると、ドッと汗が噴き出した。


やらかしてしまった。うっかりしていた。

母親はコーヒーが飲めないのか。そんなの、知らなかった。

こんなことで母親が違和感に気付かなければいいが。

口を滑らせないように、気を付けないと。


上手く嘘を吐き通そうとしているのに、自分は母親がコーヒーを飲めないなんてことすら知らないのだ。

いや、それだけじゃない。自分は母親のことを何も知らない。

趣味も、食べ物の好みも、年齢すら、何一つさえも。

以前は母親からの一方的な暴言だけで、会話などなかったのだから。


日向はポットに湯を沸かして、紅茶の葉を用意する。

百合のために用意した高い茶葉ではなく、スーパーの特売で買った安い茶葉。

カップも、百合のために用意したティーカップではなく、普通のマグカップ。

特別扱いは、百合にだけだ。


紅茶を淹れたマグカップを持って日向がリビングに戻ると、母親は部屋の中をうろうろとして、キョロキョロ室内を見渡す。

その姿は、なんだか小鳥のようだった。


「…何か、思い出した?」


その言葉に、母親は困ったように笑う。

そして、静かに首を振った。


「…ごめんね。」


そう言って、母親は申し訳なさそうに俯いた。


「いいよ、ゆっくり思いだせば。」


―むしろ、思い出さないでいてくれた方がいい。


なんて心の中で思いながらも、口には出せなかった。


「今ミルクと砂糖も持ってくるから。」


テーブルにマグカップを二つ並べて、日向は言う。


「ありがとう。ミルクはたっぷり欲しいな。母さん、猫舌だし。」


そう言って、母親は無邪気に笑った。



バスに取っている時も、街を歩く時も、電車に乗っている時も、家に向かう時も、母親は辺りをキョロキョロと見渡していた。

それは単に物珍しいからなのか、記憶を蘇らせようと何かの糸口を探っているのか。

まるで、迷路に放り込まれた子供のようだった。

笑う姿は少女のよう。うろうろと歩いて回る姿は小鳥のよう。


なんだか、精神的に幼い人だと思った。

元々がこういう性格なのか、記憶喪失がそうさせるかはわからない。

だって、自分が知っているのは、酒に酔って、暴言を吐き、暴力を振るう母親だけなのだから。

だからこそ、この状況がなんだか不思議に感じる。

母親と仲良く紅茶を飲んでいる、なんて。


母嫌は、まるで同級生の女子のようによく喋った。

時々母親を相手にしているのか、同級生の女子を相手にしているのか、わからなくなるくらいだ。

普通の家庭の母親も、こんな感じなのだろうか。

わからない。だからこそ、どうしていいかわからなくなる。

照れくさいような、恥ずかしいような、何とも形容しがたい不思議な気分だ。


なんだか居心地が悪くなって、日向は飲みかけの紅茶を置いて立ち上がった。


「適当に寛いでて。今のうちに洗濯済ませるから。」


「そんなの、母さんがやるわよ。」


「いいよ、その手じゃ大変だろ。」


「でも…。」


母親は気を遣っているのか、言いにくそうに口ごもる。


「大丈夫。洗濯くらい一人でできるから。」


そう言って、日向は半ば無理矢理に、母親の着換えが入っているトートバッグを持って再びリビングを出た。


母親が暴力を振るわないことに安心する反面、なんだかそわそわして落ち着かなかった。

この家に百合以外の女性がいるなんて、なんだか変な気分だ。

それも、彼方以外の人間と一緒に暮らすだなんて。

しかも、相手が実の母親。


自分は母親への接し方なんて知らないから、落ち着かないし、変に気ばっかり遣ってしまう。

母親はこんな自分を見て、不自然だと思っていないだろうか。

いや、母親も自分と同じように、戸惑い、気まずささえ覚えているのかもしれない。

だからこそ、自分のことを知ろうと饒舌に喋り、打ち解けようとコロコロと笑っているのだろうか。


記憶が無くなれば、人はこうも変わるのか。

けれど、今更母親ぶったって、こっちはどうしていいかわからない。

記憶を無くした母親とは違い、自分は母親の虐待を鮮明に覚えているのだから。

痣や傷は消えたけれど、煙草の火を押し付けられた火傷の痕は、消えちゃいない。


暴力、暴言、虐待のことなんてすっかり忘れて、コロコロと少女のように笑う母親。

そんな母親の行動がなんとなく不気味に思えて、日向はまともに目を合わせられなかった。

上手く嘘を吐き通さないといけないのに。

母親はこんな息子のことをどう思っているのだろうか。


洗濯なんて明日の朝にしてしまえばいいのだけれど、母親の前から逃げる口実がほしかった。

同じ空間にずっと一緒にいるのは、やっぱり少し気まずい。

これからこんな毎日が続くのかと思うと、憂鬱だ。

変に緊張してしまって、身が持たない。


そんなことを考えながら、トートバックに手を突っ込む。

Tシャツはそのまま洗濯機へ。ニットのカーディガンは手洗い。ストッキング…はネットに入れないと駄目だな。

この家の洗濯は、昔から自分がしてきたんだ。誰かの手を借りる必要もない。

日向は慣れた手つきで洗濯物を仕分けていく。

トートバッグの中身も少なくなってきて、下の方にはタオルが数枚あった。これで最後だろうか。

日向はタオルを手に取って洗濯機へ放り入れようとした瞬間、驚いてトートバッグを床に落としてしまった。


タオルの下に隠すように入っていたのは、女性ものの下着だった。

数種類のプラジャーにショーツ。赤や紫と、どれも派手な色だった。

全部、母親のものだろう。


母親も女性なのだから、下着があるのは当たり前だ。

けれど、今までこんなものを触ったことがないから、驚いて反射的に落としてしまった。

恐る恐る拾ってはみたけれど、なんだか悪いことをしている気持ちになった。

女性の下着を触るなんて。しかも、母親の下着。

思春期の自分には、気が重かった。


けれど、洗濯はしないといけない。

ブラジャーやショーツにはレースがあしらわれている。

このまま洗濯したらレースを駄目にしそうだ。

ネットに入れて洗濯しよう。


そう考えると同時に、母親の下着をまじまじと見ている自分に嫌気がさした。

なんだか恥ずかしい気持ちと罪悪感がいっぱいになって、日向は大きな溜息を吐いた。

これから毎日こんな思いをしないといけないのか。

母親との共同生活は、思った以上に難航しそうだ。


それから、母親は顔を合わせるたびにニコニコと話しかけてきた。

女性が話好きなのは、どこも同じらしい。

小鳥が歌うように喋る母親の相手を、夜が更けるまで何時間もさせられた。



次の日。日向はいつもより早く目覚めた。

日向の日課は、朝早く起きて洗濯物を済ませ、百合と自分の弁当を作ることから始まる。

しかし、昨日の夜にほとんど洗濯を済ませてしまったし、今日の朝は洗濯をしなくてもいい。

干しっぱなしだった衣服だけ取り込んで、日向は弁当作りに取り掛かった。


今日の弁当は、何にしようか。

日向は冷蔵庫を覗いて、残っている食材をチェックする。

昨日はスーパーに行く時間がなかったけれど、食材は充分にあるようだ。

冷蔵庫の中身を見ながら、日向は頭の中で献立を考え始めた。


そして、弁当作りと並行して、母親の朝食と昼食も作らなくてはならない。

いつもは弁当の残りで適当に朝食を済ませるのだけれど、昨日から自分一人ではないのだから、そうはいかない。

少しだけ手間だが、一人増えた分の料理を作るのは苦ではなかった。


百合と付き合い始めてから、以前よりも料理の腕は上がったと思う。

百合の喜んだ顔が見たくて、レパートリーも増えたし、盛り付けにもこだわるようになった。

最近流行っている『キャラ弁』というものにも挑戦するようになった。

そして、自分の部屋には、料理のレシピ本がどんどん増えていった。


今日も百合は喜んでくれるだろうか。

弁当の蓋を開ける時のわくわくした顔。

弁当を見て嬉しそうに喜ぶ可愛い笑顔。

早く百合に会いたいな、そう日向は思った。



もうすぐ出来上がると言う時に、母親が起きてきた。

母親はキッチンに立つ自分を物珍しそうな瞳で見て、それから作りかけの弁当を見て、驚いたように声を上げた。


「あら、お弁当?日向が作ったの?」


「ああ、うん。毎日自分で作ってるよ。」


「へえ。すごいわねえ。」


大きな瞳をパチパチとさせて、母親は感嘆の声を上げる。

視線は弁当に向けられていた。

こんな可愛らしい弁当を見られるのは、少し恥ずかしい。


「ねえねえ、どうして二つあるの?」


並べられた二つの弁当を見て、母親は不思議そうに首を傾げる。


「えっと…それは…」


日向は口ごもった。

彼女の分も作っているだなんて、恥ずかしくて言い辛い。

相手が実の母親なら、尚更だ。


どぎまぎする自分を見て、母親は悪戯っ子のようにニヤリと笑った。


「もしかして、彼女…とか?」


図星だ。ズバリ言い当てられてしまうとは。


「…まあ、そんなとこ。」


なんだか照れくさくて、日向は目を逸らして素っ気なく答える。

その様子を見て、母親は満足そうに笑った。


「そっか~。日向にも彼女がいるのね~。どんな子?可愛い?可愛くなきゃ付き合わないわよね。今度母さんにも紹介してよ。」


興味深々と言った様子で、母親は囃したてるように次々と言葉を紡ぐ。


「それより、もう朝食できるから、あっちで座って待ってて。」


「あらあら、照れちゃって。」


そう言って、可笑しそうにクスクスと笑う。

母親にこんなに茶化されるなんて、気恥ずかしい。


それから、二人で朝食を取った。

相変わらず母親はよく喋るし、ニコニコと少女のように笑う。

その視線や言葉は自分に向けられていて、なんだか不思議な気分だった。

こうして誰かと暮らすなんて、久しぶりだ。


たまに百合は泊まりに来てくれたけど、ずっと一緒にいられるわけじゃない。

一緒に暮らしたいのだけれど、それはまだずっと先になりそうだ。

彼方はあれから一度も帰ってきていない。

家の鍵を置いて出て行ってしまったのだから、もう二度と帰ってくることもないのだろうけど。




「待って、日向。」


学校に行こうと家を出ようとしたとき、玄関で母親に呼び止められた。


「日向。今日、ちゃんと学校の先生にあのこと言うのよ?」


「ああ…うん、わかってる。」


「ああいう大事なことは、早めにしとかなきゃいけないんだから。」


そう母親は自分に言い聞かせるように言った。

少女のようだと思っていたが、ふいに母親らしい顔を見せる。

それが、なんだかぎこちなく見えた。

母親も、母親としての在り方がわからないのだろう。


「…本当にいいの?」


日向は窺うように母親に問う。

母親は、少女のようなあどけなさが残る顔でふっと笑った。


「何言ってるの。当たり前じゃない。日向は何も心配しなくていいのよ。」



こうして、母親との奇妙な共同生活が始まった。




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