「重ねる約束」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。
渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。
竹内京子 二年生。優樹の妹。
新田百合 一年生。日向の恋人。
桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。
白崎医師 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
新田 椿 百合の姉。
竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。
篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。
麗華 彼方の客。
智美 彼方の客。
梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。
川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。
美波沙織 看護師
高橋奈津子 日向の母親
「重ねる約束」
日向との初体験は、未遂に終わった。
いや、未遂とすら呼べないのかもしれない。
心の中で何度も大丈夫、大丈夫と唱えた。
けれど、あの影が邪魔をする。日向にそっくりなあの影が。
日向に全部をあげたいのに。
日向の全部がほしいのに。
日向と一つになりたかったのに。
自分は、それを心から望んだはずだったのに。
日向は、熱の篭った切ない声で、何度も何度も自分の名前を呼んでくれた。
優しく繊細な指先で、自分の体をそっと愛撫してくれたのに。
切なくなるほど愛おしそうな瞳を見せてくれたのに。
その声や、指先や、表情が、嬉しかったのに。
嬉しくて、堪らなかったのに。
日向は自分に背を向けて、黙ってしまった。
その背中に縋りついているのに、日向がとても遠くに感じて、涙が止まらなかった。
きっと、ガッカリさせた。傷つけた。
日向を拒絶したかったわけじゃないのに。
自分から誘っておきながら、なんていうことをしてしまったんだ。
こんなつもりじゃ、なかったのに。
あの時と同じことをしてしまった。
初めて日向の家に泊まった時と、同じことを。
いつもと違う、情欲に染まった男の顔が怖くなって、日向を突き飛ばしてしまったあの日と同じ。
あの時の日向は、ひどく傷ついて、自分に触れることすら躊躇うようになった。
きっと、日向はまた、自分に触れることを怖がる。
躊躇って、指先を震わせて、自分に触れることを迷うようになる。
いや、もう日向に触れてもらえなくなるのではないか。
二度も拒絶されて、日向が平気でいられるはずがない。
今度こそ、嫌われてしまう。
「ひーくん…お願い、こっち向いて…。」
「…今、俺の顔見たくないだろ?」
背を向けたまま、日向は小さく呟く。
日向は、自分がこうなってしまった原因を、痛いほどわかっている。
だからこそ、自分に顔を向けることすらしてくれないのだ。
違うのに。日向が怖いわけじゃないのに。
「違うの、ひーくん。お願いだから…こっち向いて…。」
涙を拭いながら、百合は言う。
止まれ止まれ、涙よ止まれ。
涙なんか見せたら、また日向を困らせてしまう。
「お願い…。」
日向はゆっくりと体を起こして、百合の方を見た。
当惑したような表情で、窺うような視線を向ける。
その視線に、また涙が零れてしまいそうになった。
「ごめんな…。百合を泣かせたかったわけじゃないんだ。」
そう言って、日向は自分を抱きしめた。
「もう何もしないから。」
長い指が、自分の髪を梳く。
日向は、まるで子供をあやすような手つきで、優しく自分を抱きしめる。
その手は少し、震えていた。
本当は触れるのが怖くて堪らないのに、自分を安心させようと無理して抱きしめているのだ。
また触れてもらえなくなると不安になっていたのを、察してくれたのか。
その優しさに、また涙が出た。
「あっ、ごめん…。」
日向は、慌てて自分を抱きしめる腕を離す。
けれど百合は、その胸に飛び込んだ。
精一杯縋りつくように日向に抱き付いて、その体温を感じる。
優しくて暖かい、日向の体温。
その体温に包まれると、愛おしさが溢れた。
「好き…。ひーくんが好き…。」
「…うん。俺も、好きだよ。」
そう言って、日向は自分の頭を撫でる。
自分が好きな手。優しい手。愛しい手。
その手が心地よくて、微睡んでしまう。
もっと触れていたいと思う。
もっと触れられていたいと思う。
こんなに日向が愛おしくて仕方がないのに、どうして日向と一つになれないんだ。
自分の不甲斐なさを感じると同時に、あの男への憎しみが溢れた。
日向と同じ姿をしたあの男。
その顔で、薄ら気味の悪い笑みを浮かべるあの男。
自分と日向を取り合った、あの男。
全部あの男の思惑通りじゃないか。
あの男が残した深い傷跡は、今でも消えない。
日向と付き合うことはできたけれど、日向とは一つになれない。
あの日の影が邪魔をして、日向と体を重ねることができない。
まるで呪いみたいだ。もうあの男は、消えたはずなのに。
夢の中で、あの男が嘲笑う。
二人を幸せになんかさせないと。
自分の影に怯えて、一生苦しめばいいと。
あの仮面のような笑顔を張り付けて、笑う。
悪魔のような男だ。
自分は、その影を取り払えないでいる。
あの時のことが、何度もフラッシュバックする。
何度大丈夫と唱えたところで、日向と彼方は驚くほど似ているのだから。
日向と彼方は別の人間だとわかっているのに。
自分が好きなのは日向なのに。
無意識に、あの影が重なる。
もしかしたら、自分は一生日向と体を重ねることができないんじゃないか。
そのうちに、日向にも見捨てられてしまうのではないか。
だって日向だってもうすぐ十八だ。
いつまでも子供のような恋愛で、満足できるはずもない。
自分だって日向を求めているのに、いざとなったら受け入れきれない。
全てを日向に捧げたいのに、それができないのがもどかしい。
ほしいのに。あげたいのに。どうして。
目が覚めると、隣に日向はいなかった。
部屋の中を見渡しても、誰もいない。
静かな部屋に、ただ一人で残された。
急に不安が襲ってくる。
日向を怒らせてしまったのではないか。
日向は、自分に愛想を尽かしてしまったのではないか。
日向は、自分の前から消えてしまったのではないか。
百合は飛び起きて部屋を出る。
そのまま駆けるように廊下を抜けて、リビングに入った。
けれど、リビングを見渡してみても、日向の姿はなかった。
百合は絶望的な気持ちになった。
しかし、耳を澄ますと、キッチンから物音が聞こえる。
― 日向はキッチンにいる。
百合は、そっと、キッチンを覗くと、コンロの前に日向が立っていた。
朝食の支度だろうか。なんだかいい匂いがする。
「おはよ。もう朝ごはん出来るから、座って待ってて。」
日向は振り返り、自分を見て、ふっと笑った。
不思議なくらい、いつも通りだった。
百合は安心するのと同時に、急に体の力が抜けて膝から崩れ落ちそうになった。
けれど踏み止まって、縋りつくように日向にギュッと抱き付いた。
「百合…?」
日向は驚いて一歩後退り、そして自分の背中に手を回してきた。
細い腕が、しっかりと自分を抱く。
震えていない、力強い腕だった。
「何処か行っちゃったかと思った…。」
不安がポロりと口を衝く。
「何処か行くって…ここ俺んちだろ?百合を置いて何処も行かないよ。」
自分を抱きしめたまま、日向は頭を撫でてくれた。
いつもそうだ。日向は自分を慰める時、抱きしめて頭を撫でる。
その長い腕の中に閉じ込めて、優しい指先で不安な気持ちをゆっくりと解いてくれるのだ。
「昨日は、ごめんな。」
「…どうしてひーくんが謝るんですか。」
「…ごめん。ちゃんと守るから。大事にするから。」
抱きしめる腕が、一層強くなる。
顔を上げると、日向は辛そうな顔をしていた。
日向なりに、いろいろと考えることもあったのだろう。
悪いのは、日向じゃないのに。
日向は、すぐに思いつめてしまう。
強くならなきゃいけない、そう百合は思った。
日向を不安にさせないように、ちゃんと自分がしっかりしないと。
日向に心配を掛けないように、強くならないと。
日向が自分を好きでいてくれることを、躊躇わないように。
「ねえ、ひーくん。…昨日のキス、して。」
百合は真っ直ぐに日向を見つめる。
「えっ…。昨日のって…。」
日向は動揺したように、目を瞬かせて顔を赤らめた。
「…いいの?」
確かめるように、日向は言う。
百合は無言で頷いた。
日向は少し腰を屈めて、躊躇いながらも唇に小さなキスをした。
そして、恐る恐る自分を窺うように、ゆっくりと口内に舌を入れてきた。
百合は日向の首に手を回して、日向に応えるように舌を絡めた。
全然嫌じゃない。
むしろ、心地いいくらいの胸の高鳴りと、生暖かい日向の舌の感触が気持ちよかった。
こういうことを、もっと日向としたいと思うのに。もっと日向と繋がりたいと思うのに。
今の自分には、ここまでしかできない。
唇が離れると、日向は不安そうに自分の顔を覗きこんだ。
「…平気?」
百合は、もう一度無言でコクリと頷いた。
少し恥ずかしいという気持ちと、ここまでしかできない申し訳なさに、どう答えていいかわからなかった。
「なんか…やっぱり恥ずかしいな。」
口元を覆って、恥ずかしそうに日向は俯く。
百合はもう一度日向に抱き付いて、日向の胸の中で囁いた。
「好き…。ひーくんが好き…。」
本音だった。日向が好きで好きで堪らない。
手放したくはなかった。必死で日向を繋ぎ止めておきたかった。
日向は百合の背中に手を回して、耳元で小さく囁く。
「…愛してる。」
その言葉で、心は満たされた。
体は重ねられなくても、心は繋がっている。
そうであればいいなと、百合は思った。
朝食を食べ終え、二人は最後の時間を惜しむように寄り添っていた。
テレビは付けずに静かな部屋の中、お互いの体温だけを感じていた。
日向の家で過ごすのは、今日が最後。
明日には日向の母親が退院して、自分がこの家を訪れることは無くなる。
次にいつ、こうやって二人っきりで過ごせるかは、わからない。
一週間後かもしれないし、一か月後かもしれないし、一年後かもしれないし、もっと先かもしれない。
わかないのが、余計に二人を不安にさせる。
それくらい、お互いがお互いに依存していた。
「…帰したくないな。」
「私も、帰りたくないです。」
残された時間はあとわずか。
まるで、世界の終わりのような気分だった。
自分たちが生きている狭い世界の終わり。
会えなくなるわけじゃない。
今まで通り、毎日学校で会える。登下校も昼休みも一緒にいられる。
けれど、やっぱりこの家で過ごす時間は、二人にとって特別なものだった。
「…次いつお泊りできるんですか?」
日向は答えない。
「…次いつ一緒に眠れるんですか?」
また、日向は答えない。
代わりに、自分を抱きしめた。
「…早く、一緒に暮らしたい。」
その言葉は、切ない響きを持っていた。
日向の心の奥の本音が洩れたのだろう。
それを望んでくれていることを嬉しいと思う反面、それを現実にできないことに、もどかしさを覚えた。
自分たちはまだ、大した力も権利も持っていない子供なのだから。
いくら体が大人に近いくらいまで成長しても、世間一般から見ればまだまだ子供だ。
自分一人で何かを決める権利なんて、持ち合わせてはいない。
例えば、結婚したり、一緒に暮らす家を借りたり。
そんなことは、できない。
「…駆け落ち、しちゃいますか。」
「…馬鹿。」
そんな望みさえ、叶える力も勇気もない。
何も選べない、無力な子供だ。
早く大人になりたい。
早く大人になって、誰に咎められることもなく、日向との未来がほしい。
そんなことを思っても、月日は平等に、無慈悲に流れるもので、日向と本当に結ばれるのは、ずっと未来のこと。
今の自分達にできることは、ただ月日に流されることだけ。
もどかしい。
こんなにも日向を好きな気持ちは、溢れるばかりなのに。
「ねえ、ひーくん。…この約束、守ってくださいよ?」
そう言って、百合は日向の眼前に右手を掲げる。
日向に贈ってもらった銀の指輪が、蛍光灯に反射してキラキラと光った。
「…うん。絶対守るから。」
日向は百合の手を取り、薬指に輝く指輪にキスを落とした。
切なく、甘美な時間だった。
自分は、誰よりも日向を愛している。
そして、誰よりも日向に愛されている。
わかってはいるけれど、不安がよぎるんだ。
こうして日向と過ごす時間が当たり前になりすぎて、それを失うのが怖い。
ほんの少しだけでも変わる環境に、不安を感じずにはいられない。
「私…何があっても、絶対にひーくんから離れたりしません。」
「…うん。」
「ひーくんも、私から離れないでくださいよ。」
「…うん、約束する。」
「明日からも、一緒に学校行って、一緒にお昼ご飯食べるんですよ。帰る時も一緒ですよ。」
「…うん。」
「お休みの日は、公園でも、海辺でも、どこでもいいから、一緒にいてください。」
「…うん。」
「たまには街まで出て、デートもしたいです。」
「うん、今度行こう。」
「それから、それから…。」
確認するように、一つ、一つ、約束を重ねた。
日向は頷いたり、相槌を打ったりして、静かに百合の言葉に耳を傾けた。
明日から変わる環境に不安を覚えつつも、言葉を交わして、抱きしめて、キスをして愛を確かめ合った。
日向だって不安じゃないわけがない。
ちゃんとこの人を支えてあげないと。
それが、自分の役目だ。
何があっても日向を手放さないと、そう百合は誓った。