「これからの未来とこれまでの過去」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。
渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。
竹内京子 二年生。優樹の妹。
新田百合 一年生。日向の恋人。
桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。
白崎医師 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
新田 椿 百合の姉。
竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。
篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。
麗華 彼方の客。
智美 彼方の客。
梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。
川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。
美波沙織 看護師
高橋奈津子 日向の母親
「これからの未来とこれまでの過去」
十月の二週目の火曜日。
京子が学校から帰ると、いつものように彼方が家で待っていた。
すっかり慣れた様子で、まるで自分の家のようにソファに寝そべって寛いでいる。
机の上には、いつもの白い箱。貢物のケーキだ。
「おかえり。」
自分の姿を見て、彼方は微笑む。
「ただいまです。」
京子は嬉しいような、恥ずかしいような、なんだかくすぐったい気持ちになった。
今までずっと一人暮らしだったから、「ただいま」と「おかえり」が言える人がいなかった。
誰かが待っている家に帰るのは、いいものだ。
それが好きな人なら、尚更。
部屋着に着替えてから、彼方の隣に腰掛ける。
近付いた彼方からは嗅ぎ慣れた甘い香りがした。彼方の煙草の香りだ。
彼方の煙草の香りは変わっていて、独特な甘いバニラの香りがするのだ。
禁煙すると言いながら、自分の見ていないところで吸っているのを、京子は知っていた。
彼方は嘘を吐くのは上手いが、結構脇が甘い。
口では完璧な嘘を吐くのに、行動は隙だらけだ。
「煙草、吸ったでしょう?」
「バレちゃった?」
彼方は悪びれる様子もなく、可愛らしく舌を出してみせる。
本当に禁煙する気はあるのか。
ベランダにある空き缶に、煙草の吸殻が日に日に増えているのを、自分は知っているんだぞ。
まあ、自分の前で吸わないだけマシになったけれど。
「禁煙してくれるんじゃなかったんですか。」
「だって、禁煙してても京子ちゃんキスしてくれないし。」
人差し指を唇に当てて、彼方はコテンと首を傾げる。
不覚にも、可愛らしく見えてしまった。
いや、駄目だ。そんな可愛い仕草をしたって無駄だ。
自分は甘やかさないぞ。
「この前みたいに、飴でも舐めてればいいでしょう。」
京子は素っ気なく言い放つ。
「もう飽きちゃったー。甘いものそんなに好きじゃないんだもん。」
そう言って、彼方は唇を尖らせる。
自分に見せない、彼方の素直な表情。仕草。言動。
そんな子供のような姿が、好きだった。
それから、いつものようにテレビを見ながら、他愛のない話をした。
今日の貢物は、レアチーズケーキのホールと、小さなモンブランが二つだった。貢物
毎日毎日、彼方はいろんなケーキを買ってきてくれる。
それも、自分が飽きないように、毎日違う種類を選んでくれる。
素直じゃない自分と違って、彼方は素直で優しい。
自分は彼方にしてもらってばかりだ。
自分だって彼方に何かしてやりたいのだけれど、どうすればいいかわからないし、素直じゃない性格が邪魔をする。
素直になろう、素直になろうと、心の中では思うのだけれど、どうにも上手くいかない。
いつか、彼方に愛想を尽かされないか心配だ。
だって、こんな素直じゃない彼女なんて、絶対に可愛くない。
そんなことを考えながら、京子はレアチーズケーキを頬張る。
今日のケーキも美味しい。彼方が選んでくれるケーキは、なんだって美味しいんだ。
「京子ちゃんってさ、細い割によく食べるよね。」
自分をじーっと見つめながら、彼方は言う。
そんなに見つめられると、なんだか食べ辛い。
「悪いですか。」
「ううん。いっぱいご飯食べる女の子って可愛いと思うよ。」
そう言って、彼方は満足そうにニッコリと笑った。
彼方に「可愛い」と言われると、なんだか恥ずかしい。
よくそんな言葉を平然と言えるものだ。
けれど、その一言で浮かれてしまう自分が、悔しい。
「そういえばさあ、僕、もうすぐ誕生日なんだ。再来週の木曜日。」
壁に掛けられたカレンダーを指さしながら、彼方が言う。
京子もカレンダーに視線を移す。
週末前の木曜日。二十二日だった。
「再来週…。何か欲しい物とかありますか?」
「んー、別に何もないなあ。」
彼方は少し考える素振りを見せたが、思いつかなかったのか首を傾げて微笑む。
「京子ちゃんと一緒にいれたら、それでいいや。」
「それでいいって…。何かあるでしょう。欲しい物とか、行きたい所とか、したいこととか。前に遊園地行きたいって言ってませんでした?」
「まあそうなんだけど…平日だしさ。遠出できないじゃない。」
そう言って、彼方は困ったように笑う。
一番近い県内唯一の遊園地は、電車で二時間の街を超えて、更に二時間はかかる山の中。
片道四時間以上。遊園地を堪能して往復すると、半日は見積もらないといけない。
確かに、平日に行く場所ではない。
「じゃあ週末に行きましょうよ。それなら大丈夫でしょう?」
「週末は仕事休めないよー。この前の休みは特別だったの。」
自分と彼方は、生活リズムが違う。
学校へ行く時間や、仕事に行く時間、寝る時間や休みも違う。
こうして毎日会いに来てくれるが、外でデートをする時間は限られているのだ。
なかなか時間が合わないものだ。
「いつも通りでいいよ。別に遊園地行けなくても、京子ちゃんと一緒にいられたら、それでいいいし。」
諭すように、彼方は微笑む。
何かしてあげたいと思うのに、何もできない自分がもどかしい。
そんな欲のないことを言わせるなんて、彼女失格じゃないか。
「…じゃあ、何か欲しい物はありますか?」
「ないよ。あったとしても自分で買えちゃうし。」
ケロッとした顔で彼方は言う。
確かに、自分よりは彼方の方が稼いでいるだろうし、自分のバイト代なんて、たかが知れている。
けれど、そういうことじゃない。
ちゃんと祝ってあげたいのに。喜ばせたいのに。
「じゃあ、何かしてほしいことは?」
「その日はバイト入れないで、僕が仕事行くまで一緒にいてほしいかな。」
「そんなの、当たり前じゃないですか。他にないんですか?」
「他に、って言われてもなあ…。今日はやけにムキになるね。珍しい。」
そう彼方に言われて、初めて自分がムキになっていることに気付いた。
自覚すると、一期に恥ずかしくなる。
これじゃあまるで、彼方のことが大好きみたいじゃないか。
いや、実際に好きなのだけれど、そう言われると恥ずかしい。
京子は赤面して俯く。
「べ、べつに、お祝いしてあげようとか思ったわけじゃないですからね!」
ああ、もう。どうして自分は素直になれないんだ。
なんで素直に祝ってあげたいと言えないんだ。
いつだって言葉が正反対になる。天邪鬼な自分が恨めしい。
こんなんじゃ、彼方に嫌われてしまうじゃないか。
けれど、彼方は気にしていないようで、おかしそうにクスクスと笑った。
「はいはい。でも、一緒にいてくれるんでしょ?」
「仕方なしですよ。」
「ふふっ、ありがとう。」
いつもこんな感じだ。
自分が天邪鬼なことを言っても、彼方は気を悪くするようなこともなく、笑う。
そんな優しさに救われながらも、この天邪鬼を直さなきゃと思うんだ。
素直に甘えられるような、可愛い彼女になりたい。
彼方に好かれるような、可愛い女性に。
けれど、そうなりたいと思っても、自分のプライドが邪魔をするのだ。
「十八になったら、結婚できるねえ。」
冗談めかして彼方は言う。
結婚、だなんて。まだ早い。
「私、まだ高校生ですよ。」
「女の子は、十六で結婚できるんでしょ?」
「気が早すぎやしませんか。」
まだ自分たちは十代だ。それに、高校生。まだまだ子供だと思う。
ずっと一緒にいられればいいけれど、先なんて見えない。
いつか彼方も、こんな自分に愛想を尽かすかもしれない。
自分だって、この先どうなるかわからない。
遠い未来なんて、誰にもわからない。
恋愛が脆く壊れやすいものだってことは、充分わかっているつもりだ。
それなのに、「結婚」だなんて。そんなのは夢物語だ。
急に、後ろから彼方に抱きしめられた。
彼方の体温と、煙草の甘い香りに包まれる。
「…京子ちゃんは、僕と結婚したくない?」
耳元で囁く、低く、甘い声。
京子は、体がカッと熱くなるのを感じた。心臓も鼓動を早める。
その声に自分が弱いことも知らずに、彼方は悪戯っ子のような笑みを浮かべている。
「プロポーズなら、もっとロマンチックにしてくださいよ。」
平静を装って、京子は素っ気なく呟く。
照れて、少し早口になった。
「そういうの気にするんだ。やっぱり京子ちゃんも女の子だね。」
彼方は少し意外そうな顔をして、だけど冗談めかして笑う。
彼方といると、心臓に悪い。
いくら平静を装っていても、心臓の音や体温の上昇までは隠せない。
自分がドキドキしているのがバレそうで、恥ずかしくて居た堪れない。
彼方は気付いているのか、いないのか、自分の肩に顎を乗せてリラックスしている様子だった。
「そう言えばさー、優樹さんに年齢のことバレちゃったんだ。」
「え?」
彼方は自分を抱きしめたまま、何気なく重大なことを呟く。
「バレてるのは前から知ってたんだけどさ、昨日面と向かって言われちゃって。
これ以上嘘吐いてもしょうがないから、認めちゃった。」
一気に血の気が引く。体が冷えていくのを感じた。
なんてことだ。今まで隠し通してきたのに。
「…お兄ちゃん、なんて?」
動揺を隠して、京子は聞く。
「ここにいたいなら、まだここにいていいって。」
その口調は、さほど重大でもなさそうだった。
まるでつまらない世間話でもするかのように、本当に何気ない口調だった。
「…なんだ。よかった。」
京子は、安堵して胸を撫で下ろす。
「変だよね。てっきりクビになっちゃうと思ったのに。」
そう言って、彼方は自分を抱きしめる腕を解く。
そして、ソファーに座り直して、首を傾げた。
「なんで優樹さん、あんなに優しいんだろ。」
「お兄ちゃんは、誰にだって優しいですよ。」
「そうだけどさー、なんか特別扱いされてる気がするもん。」
腑に落ちない様子で、彼方は唇を尖らせる。
年齢のことが優樹にバレたと聞いた時は驚いたが、彼方の様子を見る限り、心配はなさそうだ。
けれど、優樹がそんなことを言うのは、意外だった。
優樹は、悪や不正を嫌う人間だったからだ。
このまま彼方を雇い続けるということは、法を犯すと言うことだ。
優樹は、そんなことしないと思っていた。
「なんかさー、優樹さん、優しすぎて逆に怖い。
なんであんなに優しくしてくれるんだろう。
僕なんかに優しくする理由なんてないじゃない。」
彼方はソファーの上で膝を抱える。
その子供のような仕草と、首を傾げて上目で自分を見つめる視線に、少年が重なった。
「…似てるんじゃないですか。」
ポツリと京子が呟く。
彼方は不思議そうに尋ねてきた。
「似てる?誰に?」
「大樹…弟です。」
「あ…そっか。三兄弟だったんだよね。」
彼方は、明らかに気まずそうに眼を逸らした。
自分の弟だった大樹は、もうこの世にいない。
両親と共に、数年前に交通事故で亡くなっている。
「…大樹も、良く笑う子でした。泣き虫で不器用で、でも甘えるのだけは得意で。明るくて、可愛い弟でした。」
京子は目を伏せて、昔を思い出す。
瞼を閉じれば、あの頃の大樹が鮮明に思い出される。
記憶の中の大樹は、小学生で止まったままだった。
「…僕、大樹君じゃないよ。」
気まずい空気に、手持無沙汰な様子の彼方は、前髪を指で弄ぶ。
「そんなこと、お兄ちゃんだってわかってますよ。でも…重ねちゃうんじゃないですか。無意識に。」
「そんなに似てるの?」
「さあ。私には似ているって思えません。でも、お兄ちゃんからしたら、似ているように感じるんじゃないんですか。」
「そっか…。」
彼方は目を伏せる。
重々しい沈黙が訪れた。
大樹のことを思い出して、なんだか感傷的な気分になってしまった。
今まで忘れていたわけじゃない。でも、こうして人に死んだ自分の家族の話をするのは、久しぶりな気がした。
あまり人には言わないようにしていたのに、彼方が大樹を思い出させたんだ。
彼方は、大樹に似ている。
無邪気な笑顔。弱虫で泣き虫な臆病者。
可愛らしい仕草に、少し甘えたなところ。
あの頃に大樹も、こんな少年だったんだ。
「ごめんね。変な話させて。」
沈黙を破ったのは、彼方だった。
憐みのような視線を自分に向けて、言葉を探しているようだった。
「別に…。今は、お兄ちゃんも彼方さんもいるから平気です。そんな可哀想な子を見るような目で見ないでくださいよ。」
「いや、そういうわけじゃないけど…。こういう時、なんて言ってあげたらいいかわかんなくて。」
しどろもどろになりながら、彼方は頭を掻く。
なんだ、自分を慰めようとでもしてくれていたのか。
やっぱり、彼方は優しい。
「いつも通りでいいんじゃないですか。昔のことなんですから。」
京子は、既にいつも通りの素っ気ない口調に戻っていた。
昔の話だ。もう自分は、ちゃんと区切りをつけている。
過去を嘆くなんてことはしない。自分は前を向いて生きている。
「やっぱり京子ちゃんは強いね。」
「貴方が弱虫なだけですよ。」
「ひどいなあ。」
そう言って、彼方は笑った。