「ファインダー越しの僕の世界」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。
渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。
竹内京子 二年生。優樹の妹。
新田百合 一年生。日向の恋人。
桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。
白崎医師 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
新田 椿 百合の姉。
竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。
篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。
麗華 彼方の客。
智美 彼方の客。
梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。
川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。
美波沙織 看護師
高橋奈津子 日向の母親
「ファインダー越しの僕の世界」
早朝。
彼方は仕事を終えて、カメラを持って、外に出た。
今日はアフターを断って、食事に行こうと言う優樹の誘いも断った。
優樹は意外そうな顔をしたが、たまたま閉店まで残っていた常連客とアフターへ出掛けた。
この時間から焼き肉へ行くのだという。
優樹には申し訳ないが、できるだけ早く、自分の世界をカメラに残したかったのだ。
今日は、店の従業員や、客の写真をカメラに収めた。
仲のいい従業員、常連客、酔い潰れて途中で眠ってしまった優樹の写真。
店内のインテリアを撮った写真や、珍しい酒の写真。
自らの姿も、従業員に撮ってもらった。
カメラのディスプレイを確認すると、皆頬を赤くして笑っていた。
楽しそうに酒を飲んで、カラオケを歌って、盛り上がっている姿。
自分もまた、酔いに任せてはしゃいでいる姿を残した。
これが、自分の見てきた世界。
日向と離れて、飛び込んだ夜の世界。
十月にもなると、早朝は肌寒い。
外はまだ薄暗く、人通りはほとんどなかった。
車通りのほとんどない片側二車線の道路の隅を、客待ちのタクシーが埋め尽くしている。
彼方はビルを出て、横断歩道を渡り、対面の道路へと移動する。
そして、優樹の店が入っているビルに狙いを定めて、シャッターを切った。
次に、この街最大のスクランブル交差点で一枚。
繁華街と住宅地の境目の大きな橋で一枚。
橋を渡って、よく野良猫が溜まっていた空き地で一枚。
初めて優樹に連れられて訪れた美容室の前で一枚。
そして、優樹のマンションまで帰り、そのマンションの前でも一枚。
とても上手とは言えない写真だった。
ただファインダー越しに見える景色にシャッターを押しただけ。
それでも、残しておきたい写真だった。
自分が生きてきた世界を、残しておきたかった。
優樹のマンションへ帰ると、優樹はまだ帰ってきていなかった。
当たり前か。さっき店の前で別れたばかりだ。
まだしばらく帰って来ないだろう。
彼方は、真っ直ぐに自分の部屋に入った。
カメラのバッテリーが切れそうだ。充電しないと。
コンセントに差しっぱなしだった充電器を引き寄せ、カメラに繋ぐ。
そして床に座り込んで、充電しながら、もう一度カメラの中の写真を眺めた。
メモリーカードの最初の方には、京子の写真ばかりが入っている。
一枚目の写真は、カフェでカメラを向けられて恥ずかしそうに俯く京子。
この写真は「消した」と京子に嘘を吐いて、取っておいたものだ。
一番最初の写真だから、大切に残しておきたかった。
二枚目の写真は、同じくカフェでの京子。
目の前にケーキをたくさん並べて微笑んでいる。
綺麗な綺麗な、微笑みだった。僕の、好きな人。
三枚目も、四枚目も、その次も、さらに次も、京子だった。
無防備にテレビをぼーっと見つめる京子。
勝手にシャッターを切ったことに怒る京子。
恥ずかしそうにクッションで顔を隠す京子。
素っ気なくそっぽを向く京子。
あどけない穏やかな寝顔。
こうしてみると、笑っている写真は少ない。
けれど、これでいいんだ。
自分が見てきた京子は、あまり笑わない。
天邪鬼で素直じゃない。それが、自分の好きな彼女なのだから。
大人びた顔も、目力が強くキツイ印象の瞳も、短いけれど綺麗な髪も、細く華奢な体も、冷たいようで優しい言葉も、好きだった。
京子の全てが、好きだった。
不思議なくらい、京子といると楽になれた。
気を遣うこともないし、素のままの自分でいられる唯一の居場所。
京子は今まで出会った女とは違っていた。
自分に気に入られようと媚びてくるわけでもないし、むしろ自分を冷たく邪険にあしらう。
自分が馬鹿なことをしたら、下手な慰めなんてせずに、本気で怒ってくれる。
自分が過呼吸を起こしたら、本気で心配してくれる。
睡眠薬をちょっと多く飲んだだけで、泣き出してしまう。
京子は天邪鬼だけれど、自分に向ける感情は真っ直ぐなんだ。
厳しくて、優しい人。
でもそんな京子を、自分はいつか裏切ってしまう。
いや、体を売っている時点で、裏切っているも同然か。
こんなに距離が近付いても、京子には知らないことがたくさんある。
けれど、自分の全てを話すつもりはないし、そんなのは自己満足だ。
同じ荷物を、京子には背負わせたくない。
自分は幸福なることなんて、できない。それはわかっている。
だけど、今は幸せだ。こんな生活でも、京子がいてくれるから、自分は救われている。
今だけ、このぬるま湯のような幸せに浸っていたい。
そのぬるま湯が冷めきって、凍えてしまうまで。
これは自分に与えられた最後の幸せなんだと、そう思った。
駄目だ。こんなことを考えていると、気分が沈む。
なんだか無性に、死んでしまいたくなるような遣る瀬無さに襲われる。
彼方は、部屋の引き出しに隠しておいた薬を取り出す。
抗うつ剤、抗不安薬、睡眠薬。
何も考えず、目に入った分だけシートから取り出して手の平に乗せた。
そして、一気に飲み干す。
一回に飲む量を遥かに超えていた。
けれど、最近は処方された量よりも多く飲むことが癖になっていた。
少しでも、このモヤモヤとした気持ちを誤魔化したい。
結局自分は、薬に頼って逃げているだけだ。
着替えもせずに、彼方はベッドに倒れ込む。
体は疲れているはずなのに、目を瞑ってみても眠気なんてない。
あれほど薬を飲んだって、まともに眠ることすらできない。
やっと眠れたと思っても、二、三時間もすれば、すぐに目が覚めてしまう。
おかげで最近やけに体が重い。疲れが取れない。
不眠に拒食に、倦怠感。
本格的に、精神を病んでしまいそうだ。
いや、もう病んでいるのか。わからない。けれど、普通の状態でないことはわかっている。
一人になると、よからぬことばかり考える。
消えたいだとか、死にたいだとか、殺したいだとか、そんな、物騒なことばかり。
目を開けて机の上に視線を移すと、コンビニで買った安いカッターナイフが目に入った。
駄目だ。また誰かに見られたら、困る。
彼方は邪念を取り払おうと、力なく頭を振った。
手首を切ったところで、死ねるわけない。
あの時の自分は、どうかしていたんだ。
自傷したって、何の意味もなかった。
それに、京子に心配はかけたくない。
睡眠薬を飲んだのに、目は冴えたまま。
ふと携帯電話のディスプレイを見ると、午前九時過ぎだった。
学校の授業が始まったころだろうか。もう学生は、外を歩いていないだろう。
優樹もまだ帰ってきていない。
今のうちに外に出てしまおう。
今は、優樹と顔が合わせるのが辛い。
京子の家に逃げてしまおう。
優樹に、年齢のことがバレた。
年齢のことがバレていると誠から聞いてわかっていたけれど、いざ面と向かって言われると、申し訳なさで消えたくなった。
そもそも、どうして優樹は誠から聞いた時点で、自分に問い詰めなかったのだろう。
どうして、自分なんかに優しくしてくれるのだろう。
優樹は、今まで通りここにいていいのだと言う。
騙してたことを怒りもしないで優しい言葉を吐く優樹に、罪悪感が膨らんだ。
どうしてだろう。
人を騙すのには慣れていたのに。
今更、嘘を吐くことに罪悪感を覚えるなんて。
本当はバレた時点で辞めようと思っていたけれど、そんなことを言われたら、どうしていいかわからなくなる。
結局、中途半端になったまま、今日も出勤した。
仕事中の優樹はいつも通りだったし、自分も平静を装っていつも通りを務めた。
けれど、やっぱりなんだかバツが悪い。
彼方は立ち上がり、スーツを脱いで私服に着替える。
手首の傷が見えないように、シャツの上から少し袖の長めのニットのカーディガンを羽織った。
最近は少し肌寒い。日向と離れて、二つ目の季節を迎えようとしている。
もう三ヵ月日向に会っていないのか。
体感的には、もっと長くに感じる。
いや、一度京子とデートをしている時に見かけた。
けれど、それだけだ。見かけただけ。
言葉を交わしたわけじゃないし、向こうはこちらに気付いていない。
日向に会いたい。
恋じゃなくても、愛じゃなくても、自分にとって、日向はかけがえのないたった一人だった。
もう今更、あの頃のように戻れるわけもない。
けれど、もし時間が巻き戻せたら―なんて、そんなことありえない。
自分はもう、日向に会う資格がないんだ。
諦めなくちゃ、諦めなくちゃ。
二人は別々の道を選んだのだから。
外に出ると、相変わらずの曇り空。
薄暗い曇天が、ここ一週間は続いていた。
ハッキリしない曖昧な空。
いっそ、雨が降ればいいのに。
彼方は、コンビニに寄って煙草を買った。
相変わらず、年齢確認なんてされない。
バレなきゃ、何をしてもいいんだ。
優樹に嘘がバレた時は、心が痛かったけれど。
そして通い慣れた駅前の洋菓子店「マルシェ」へ。
ほとんど毎日ケーキを買いに来る自分に、店員は親しげに「こんにちは。今日はレアチーズケーキとモンブランがおススメですよ。」と声を掛けてくる。
「じゃあレアチーズケーキのホールと、モンブラン2つで。」と言って、ケーキを包んでもらった。
そのまま駅へ向かい、いつもの電車へ。
一時間に一本と言う少ない路線。
今日は都合よく、待ち時間はほとんどなかった。
車内での退屈な時間を車窓を見て過ごし、京子の住む町へ降り立った。
かつて自分が、日向と暮らしていた土地。
今はもう、自分の居場所がない土地。
真っ直ぐに京子の家に向かい、合鍵を使って、京子の家に入る。
そして冷蔵庫にケーキを入れて、部屋の中を見渡した。
相変わらず、片付いていて綺麗な部屋。
京子も結構几帳面な性格なんだ。
彼方は首から下げていたカメラを構えて、ファインダーを覗く。
京子が生活している部屋。自分を受け入れてくれる部屋。
京子との思い出が詰まった部屋。
彼方は無心でシャッターを切った。
西向きで景色が綺麗な広い窓。
京子が大事にしているテレビ棚の上の小物類。
自分が買った服が綺麗に片付けられているクローゼット。
少しずつ距離を縮めたソファ。一緒に眠ったベッド。
手料理を作ってくれたキッチン。
この部屋の風景も、残しておきたい自分の思い出。
写真を撮り終えて、カメラを机の上に置いた。
そして、ベランダに出て、煙草を燻らせる。
禁煙は、できたり、できなかったり。
煙草を止めようと努力はしてみるものの、なかなか上手くはいかない。
いや、今こうして煙草を吸っている時点で、全然禁煙できていない。
自分は意志が弱いのだと思う。
何か嫌なことやイライラするようなことがあったら、無性に煙草が吸いたくなる。
すっかり自分は、ニコチン依存症になってしまっている。
京子もそれをわかっているのか、灰皿代わりにしている空き缶は置いたままにしてくれている。
携帯電話で時刻を確認すれば、まだ昼過ぎだった。
ちょうど昼休みくらいだろうか。
京子はあと数時間は帰って来ないな。
最近は優樹のマンションに居辛くて、京子の家に逃げることが多くなった。
年齢のことがバレたから。それもあるけれど、以前からこうだった。
優樹の傍は、なんだか落ち着かないんだ。
優樹は優しすぎる。
その優しさが、なんだか無性に怖いのだ。
どうしてこんな自分に優しくしてくれるのだろう。
自分と優樹は他人なのに、どうして。
「みんなのお父さん」と従業員に言いながら、自分にだけは「みんな」と違う扱いをしているように感じる。
住む場所も、携帯電話も、仕事も与えてくれる。
給料も充分すぎるほど貰っているし、定期的に美容院や買い物、食事に連れて行ってくれる。
何不自由ない生活をさせてもらっている。
けれど、明らかに他の人とは違う、特別扱いをされている。
「悩みがあるのか」なんて、自分を気遣うようなこともしょっちゅう言ってくる。
その言葉に、どう答えていいかわからずに、笑って誤魔化した。
自分に父親がいたら、こんな感じなのだろうか。
わからない。だって、自分に父親の記憶なんて、ないのだから。
彼方は、煙草を水の入った空き缶に煙草を投げ入れた。
ジュッという音と共に、煙が消える。
消火を確認して、部屋に戻った。
そして、ベッドに寝転がり、枕に顔を埋める。
仄かに京子の香りが残っている気がする。
なんだかひどく安心する香り。
京子の香りに包まれると、不思議とよく眠れそうな気がする。
今もほら、こうして自然に瞼が閉じていく。
目を覚まして時計を確認すると、二時間しか経っていなかった。
ぐっすり眠ったような気がしたけれど、まだこんな時間か。
再び瞼を閉じて眠ろうとしても、できなかった。
疲れているはずなのに、眠りたいはずなのに、やけに眼が冴える。
本当に、自分の体は散々だな。
京子は、まだ午後の授業の真っ最中だ。
早く帰ってきてくれないかな。
待つのは、少しだけ辛い。
僕の好きな人、早く帰ってきて。
早くその顔を見せて、笑って。
今の自分には、京子しかいないのだから―。