「虚像」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。
渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。
竹内京子 二年生。優樹の妹。
新田百合 一年生。日向の恋人。
桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。
白崎医師 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
新田 椿 百合の姉。
竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。
篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。
麗華 彼方の客。
智美 彼方の客。
梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。
川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。
美波沙織 看護師
高橋奈津子 日向の母親
「虚像」
日向は、家から駅までの道の途中にある海岸沿いを歩いていた。
今日、虎丸が彼方を目撃した海岸。
以前、リッキーと飼い主のお姉さんに出会った海岸。
湿気を含んだ肌寒い風が、頬を撫でる。
今にも雨が降り出しそうな、薄暗い曇天。
静かな海辺には、穏やかな波の音だけが響いていた。
辺りを見渡してみても、誰もいない。
彼方も、リッキーも、飼い主のお姉さんも、誰も。
もうすぐ陽が沈む。きっと、とっくに帰ってしまったのだろう。
本当は、ここに来るつもりなんて、なかった。
彼方に会うつもりなんて、なかった。
だって、彼方に会ったとしても、交わす言葉はない。
けれど、虎丸の話を聞いて、居ても立ってもいられなくなったのだ。
ここに来て、自分はどうするつもりだったのだろう。
もし彼方がいたら、自分は何と言葉を掛けたのだろう。
きっと、自分は何も言えない。
何も言えないことで、また彼方を傷付ける。
やっぱり、もう会わない方がいいんだ。
きっと彼方は、自分が知らない何処かで、自分が知らない誰かと幸せに過ごしている。
それを、壊すことはないんだ。
日向は海岸に背を向け、駅の方へと向かった。
電車にとバスを乗り継いで向かった先は、街の大学病院。
病院に着くころには、外はすっかり暗くなっていた。
いつものように東棟のエレベーターに乗って、五階へ上る。
将悟には、「また病院行くときは呼べ」と言われたけれど、やっぱり友人を巻き込むわけにはいかない。
百合も心配するだろうが、今日は夜までバイトだとメールで嘘を吐いた。
これは自分の家の問題だ。恋人や友人に頼るわけにはいかない。
エレベーターの扉が開くと、目の前のナースステーションに美波がいた。
美波はファイルに目を落として、俯いている。
「こんにちは。」
日向が軽く挨拶を呟くと、美波は顔を上げた。
そして、いつもの優しい微笑みを自分に向ける。
「ああ、日向君。こんにちは。」
ファイルを閉じて、美波はナースステーションから出てきた。
当然だが、病院の中は静かで、面会者はほとんどいなかった。
面会時間の終わりが迫っているから、仕方がないけれど。
自分は家が遠くて、いつも面会時間ギリギリになってしまう。
「母さんの様子…どうですか?」
そう聞くと、美波は少し困ったような顔をした。
「えっとね…。先生呼んでくるから、ちょっとここで待っててくれる?」
「はい。」
美波はナースステーションに戻って、PHSで誰かと話し始めた。
会話の内容は、遠くて聞こえない。けれど、きっと母親を担当した医師だろう。
いつもニコニコと微笑んでいるのに、今日の美波は難しい顔をしていた。
それだけ、母親の容態に問題があるのだろう。
昨日のことを思えば、なんとなく察していたけれど。
それから、しばらくして明石と名乗った医師が現れた。
白髪頭に、分厚い丸眼鏡。少し気難しそうな初老の男だった。
美波と共に別室に通されて、母親の容態について聞かされた。
明石の話によると、母親は事故で頭を強く打ったことによる、逆向性健忘と診断された。
障害にされるのは主に自分に関する記憶であり、事故に遭う前の記憶が思い出せないらしい。
つまりは、いわゆる記憶喪失。
母親は、自分たち家族や、自らに関する記憶を全て失ってしまっていた。
「それって…いつ記憶が戻るんですか?」
テーブルを挟んで、向かい合ってソファーに座る明石に、日向は聞いた。
ソファーとテーブルしかない六畳ほどの無機質な応接室。
美波は、見守るように日向の傍に立っていた。
「ハッキリしたことは言えない。今は事故のショックで一時的に記憶が混乱しているだけで、今日明日にでも記憶が戻るかもしれない。反対に、完全に記憶が失われていて、一生戻らないかもしれない。」
明石は冷たく言い放つ。
「一生…。」
日向は目を伏せて、小さく呟いた。
母親は、一生記憶がないままになるのかもしれないのか。
今まで散々暴力を振るっておいて、自分は忘れただなんて、虫がよすぎる。
腹立たしいというより、少しだけ、ほんの少しだけ、心が寒くなった。
「日向君、大丈夫よ。お母さん、きっとすぐ良くなるから。ね?」
美波は、自分を慰めるように肩に手を置く。
「看護師がそんなに軽々しく不確定なことを言うのは感心せんな。医療に関わる人間が、気休めで軽率な嘘を言っていいわけがない。」
明石の冷たい言葉に、美波は唇をギュッと噛んだ。
「…ごめんなさい。でも、日向君、まだ高校生なんですよ。」
「高校生なら、半分大人みたいなものだろう。現実をちゃんと受け止めるべきだ。」
丸眼鏡の奥の鋭い目が、自分を睨むように見つめる。
美波は不満そうに、明石に抗議の視線を向けた。
冷たい医者と、優しい看護婦。
二人の仲は、あまりよろしくないみたいだ。
けれど、明石が言うのは正論だ。
気休めの言葉なんか掛けられても、どうにもならない。
優しく気遣われても、現実は変わらない。
それなら、事実だけを聞いていた方がマシだ。
明石の話では、母親の記憶が必ず戻るという保証はないみたいだ。
遠まわしに「無駄な期待はせず、この現実を受け入れろ」と言われた。
骨折はしているが、母親の記憶喪失は日常生活には問題がないため、一週間検査入院をしたのち、問題が無かったら退院だと言った。
一通り説明を受けて、日向は解放された。
医師を置いて応接室から出ると、美波は自分に言い聞かせるように、言った。
「大丈夫よ。大丈夫。きっと、すぐに全部思い出すよ。」
医者に怒られても、美波は自分を気遣って優しい言葉を掛けてくれる。
その優しさが、なんだか逆に辛くなった。
病室へと続く廊下を眺めてみると、看護師が患者へ食事の配膳をしていた。
もうそんな時間なのか。時計を見ると、午後七時を回っていた。
もう面会時間は過ぎている。
「どうする?少しだけでもお母さんに会っておく?」
「でも…」
「昨日は、ちゃんとお母さんと話せなかったものね。
日向君のことは私が説明しておいたから、顔だけでも見せてあげて。」
そう言って、美波はいつもの優しい微笑みに戻っていた。
躊躇う日向に、半ば無理矢理に病室へと向かわせる。
長い廊下の先の516号室。
「高橋奈津子」と書かれたプレートが掲げられている。
記憶を無くした母親がいる病室。
なんだか昨日とは違う緊張を覚えた。
日向はゆっくりと深呼吸をして、その扉をノックする。
「はーい。」
昨日とは違う、少し間の抜けた声。
扉を開けて、中に入る。
ベッドに座っていた母親は、自分を見て戸惑ったような表情をしたが、すぐに微笑みを作った。
そんな顔、初めて見た。自分の記憶の母親は、いつも怒って、泣いていたのだから。
「…俺のこと、わかる?」
「えっと…日向よね?」
「…うん。」
母親の微笑みは、ぎこちないものだった。
記憶を無くして、突然息子がいると言われたら、戸惑うのも当然か。
「体…どう?」
「ちょっとだけ不便だけど、平気よ。体は元気なの。」
「…そっか。」
母親の左腕には、真っ白なギプスが嵌められていた。
唯一事故で怪我をした左腕。
「そんなところに立ってないで、こっちにいらっしゃいな。」
手招きをして、母親はベッドの脇に置かれたパイプ椅子を指さす。
「いいよ、すぐ帰るから。」
「そんなこと言わないで、近くに来てもっとよく顔見せて?」
そう言われて、日向は仕方なしにパイプ椅子に座る。
母親に近付くと、嫌な汗をかいた。
無意識に、肩に力が入る。逃げ出したいほどの緊張に襲われた。
日向は母親の顔が見れなくて、視線を足元に彷徨わせる。
「美波さんから聞いたんだけど、毎日お見舞い来てくれたのよね。」
「…毎日は、来てないけど。」
「家遠いのに、ごめんね。」
「…別に。」
小さく呟くと、母親は困ったように笑った。
とても親子とは言えないぎこちない会話。
「心配してくれたのよね。日向は、優しい子ね。」
そう言って、母親は手を自分へと伸ばす。
日向は無意識に身を固くしてギュッと目を瞑った。
―殴られる。
そう思った。
けれど、その手は自分の頭を撫でた。
やけに優しい、温かい手。
「え…?なんで…。」
戸惑った視線を向けると、母親は申し訳なさそうな顔をした。
「あら、嫌だった?ごめんね?」
まるで小さな子供に接するかのような、柔らかい言葉。
この人は、本当に自分のことを覚えていないんだ。
母親と自分との関係を、何一つも覚えていないんだ。
明石に言われてわかっていたけれど、日向はただ戸惑うことしかできなかった。
優しい笑顔、優しい声。
こんな母親、見たことがない。
「日向は優しくて、賢くて、いい子だものね。大丈夫。ちゃんと覚えているわ。」
そう言って、母親は微笑む。
「…そんなんじゃないよ。」
優しい?賢い?いい子?
そんなわけないじゃないか。
覚えているだなんて、それは嘘だ。
この人は、自分のことを何一つわかっていない。
全部美波から聞いた話だろう。
人に聞いた話で、知った気になっているだけだ。
母親の知っていると言う自分は、美波が作り上げた虚像だ。
日向は、何故か胸が締め付けられるような気持ちになった。
この感情を、言葉にしようと思ったけれど、無理だった。
悲しい。寂しい。辛い。怒り。絶望。安堵。虚無。
どんな言葉も、近いようで違う気がした。
複雑な気持ちが胸を犇めき合い、言葉と言う形を成さなかった。
家に帰って、キッチンや母親の部屋にある酒をすべてシンクに流した。
灰皿やライターも、自分の部屋の箪笥の奥の奥に隠した。
彼方の服や物を、誰の目に触れないように全てクローゼットにしまった。
家の片付けを済ませると、日付が変わっていた。
日向は疲れてベッドに沈み込む。
正直、頭はまだ混乱していた。
優しい笑顔、優しい声、優しい手。
あれが、自分の母親なのか。
自分が知っている母親は、酒に酔って泣いて暴れる姿だけだった。
笑顔を向けてくれることも、自分の頭を撫でたことだって、一度もなかった。
酒さえ飲まなければ、あんなにも穏やかで優しい人だったのだろうか。
ふいに、ベッドの隅に綺麗に畳んであるパジャマが視界に入った。
百合のパジャマだ。ピンクと白の縞模様の百合らしい可愛いパジャマ。
何度か百合が家に泊まっているうちに、日向の家には百合の私物が増えていた。
パジャマに歯ブラシ、シャンプー、携帯電話の充電器。
髪のセットに使う美容液と整髪料。
百合の私物が増えるたびに、半同棲しているような感覚になって、少しだけ嬉しかった。
日向はそのパジャマを手に取る。
今朝まで百合が来ていたパジャマ。
抱きしめると、百合の甘い香りが残っている気がした。
落ち着く、けれど情欲をそそる百合の香り。
百合に会いたい。
何かを悩んだり、落ち込んだりすると、無性に百合に会いたくなる。
日向にとって、百合は天使や女神のような存在だった。
辛い時に傍にいてくれる。寂しさを癒してくれる。
自分に必要なのは、百合以外に考えられなかった。
あの優しい微笑みと、凛とした声で自分の名前を呼んでほしかった。
百合の全てがほしかった。
百合の柔らかい唇にキスをして、呼吸が苦しくなるほど舌を絡めてみたかった。
そのきめ細やかな白い肌に触れて、しつこいくらいに自分の印を残したかった。
体を汗ばませて、溶けてしまうほど絡み合いたかった。
百合を滅茶苦茶に犯したかった。自分だけのものにしてしまいたかった。
「…百合…っ。」
百合の名を呼びながら、右手を遊ばせる。
百合の甘い香りに包まれながら、欲望に身を委ねる。
汚したくない、傷つけたくないと思いながら、頭の中では何度も百合を汚していた。
こんなことをしていると百合に知られたら、嫌われてしまうかもしれない。
けれど、年頃の性衝動には逆らえるはずもなく、寂しい夜は熱を持て余した。
百合の前では、隠している衝動。
こんな欲望、百合に言えるはずもない。
キスだけじゃ足りないだなんて、口が裂けても言えなかった。
百合の知らないところで百合を汚す自分に罪悪感を覚えつつ、熱を吐き出す。
「…俺、ホント最低だ。」
深い溜息を吐きながら、日向は頭を抱える。
行為が終われば、いつも後悔が押し寄せた。
天使のような可愛い女の子を、頭の中で滅茶苦茶にしている自分に、嫌気がさした。
百合の前では、恥ずかしいとか、嫌われたくないなどと言いながら、これも自分の本性なのだ。
百合と共に眠る夜は、いつも自分との戦いだった。
天使のような無防備であどけない寝顔に、何度も理性を揺さぶられた。
露出の多い服を咎めたり、ブランケットを膝に掛けたりするのは、百合への優しさではなかった。
自分の欲望が抑えきれなくなりそうで、怖かったのだ。
百合には、自分のこの醜い本性を悟られたくなかった。
百合の心の傷は癒えていない。
いつか百合を押し倒した時、わずかに体が震えていた。
彼女は情けない自分を笑ったが、本当は心の底で恐怖したのだろう。
それでも彼女は強がって、挑発的な笑みを見せた。
そんな彼女を汚すなんて、できるわけがなかった。
大切にすると誓った。大事にすると決めたんだ。
自分の汚い欲で、百合を傷付けたくなかった。
大体、自分はこんな時に、何をしているんだ。
これから自分すらもどうなるかわからないのに、こんなことをしている場合じゃない。
これからどうするか、ちゃんと考えないと。
彼方の痕跡は全部消した。
自分たちに関する母親の記憶は、一切無い。
それなら、彼方のためにも、彼方は最初から居なかったことにするべきだ。
その方が、きっと彼方も幸せだ。
このまま母親の記憶が戻らないことを祈ろう。
大丈夫。どうにかなる。
自分なら、きっと平気だ。