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「ダリアの幸福」  作者: 麻丸。
123/171

「見れない夢」



登場人物


高橋日向 双子の兄。一人称は俺。

高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。

坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。

中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。

矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。

渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。

竹内京子 二年生。優樹の妹。

新田百合 一年生。日向の恋人。

桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。

白崎医師 精神科医。

リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。

お姉さん リッキーの飼い主。

新田 椿 百合の姉。

竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。

篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。

麗華   彼方の客。

智美   彼方の客。

梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。

川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。

美波沙織 看護師

高橋奈津子 日向の母親


 「見れない夢」




朝が来たら、京子は慌ててバイトへ行ってしまった。

彼方は京子の家に一人残された。

京子がいないと、この部屋は静かで寂しい。

窓の外を見れば、どんよりとした曇り空だった。

今にも雨が降ってきそうだ。京子は傘を持って行っただろうか。

そういえば、自分は幼いころから雨男と言われていたな。


昨日、京子が眠った後に、こっそり睡眠薬を飲んだ。

京子が寝静まるまで待ったのは、薬を飲むところを見られることに、少しだけ抵抗があるからだ。

精神異常者だと思われるのが嫌だと思うのは、それが事実に近いからなのだろう。

今でも実家から一駅離れた総合病院に二週に一回通院しているが、薬は増える一方だった。

総合病院で診察を終えると、その隣の調剤薬局で大量の薬を貰い、同時に薬の説明書も渡される。

薬の名前はカタカナばかりでよくわからないが、薬の説明書には、ご丁寧にその薬がどんなものか、どんな効果があって、どんな副作用があるのか、事細かに書かれていた。

その説明書をよく読むと、睡眠薬、抗不安薬、そして、向精神薬や抗うつ剤まで処方されていた。


精神科医の白崎からは、「社会不安障害」と言われたことがある。

極度のストレスで、過呼吸を起こしてしまう病気だそうだ。

事実、自分の具合は悪くなる一方で、頻繁に過呼吸を起こす。

何をしていても気だるいし、食欲もなければ、睡眠をとることすらままならない。

けれど、それだけで、こんなに薬が増えていくのか。

診察中にポツリと「死にたい」だなんて、零さなければよかった。


思えば、そう言った時から、向精神薬や抗うつ剤が追加された記憶がある。

自分はうつ病にでもなっているのだろうか。わからない。自覚はない。

処方される薬が、本当に効果があるようには思えない。

けれど、薬がないと、いつ発作が起きるか不安で外を出歩くことすらできない。

処方された通りに薬を飲んで、たまに飲みすぎて、安心を得る。

立派な薬物中毒だと思う。薬なしじゃ、生きられない。

違法なものじゃなく、ちゃんと病院で処方された薬なだけ、まだマシだが。


薬、酒、煙草、女。

溺れられるものには、何にでも溺れた。

利用できるものは、何だって利用した。

依存できるものには、何だって依存した。

立派な堕落人間だ。もう救いもないほどに。


大切にしたいと思っていた日向を裏切った。

日向の大事な人を傷付けて、日向も傷付けた。

二度と元には戻れないと思って、自分は逃げ出したんだ。

日向のためだと言いながら、日向に合わせる顔がないだけだ。

色々な理由を付けて、日向の前から姿を消した。

このまま死んでしまおうかとも思った。


それなのに自分は、店の客と体だけの関係を続けているうちに、自分は本当の恋をした。

損得勘定抜きに、京子のことを好きになってしまったんだ。

京子を大事にしたいと思った。初めての気持ちだった。


けれど、京子を好きになったことで、日向への想いに気付いた。

あれは、恋じゃなかった。

好きだと言いながら、必要だと言いながら、日向を手放したくないだけだった。

日向への独占欲が、愛だと勘違いさせたんだ。

もう今更、どうしようもないけれど。


大事にしたいと思った京子も裏切っている。

自分は、京子のことを好きだと言いながら、客との体の関係を切れないでいた。

別に、体を重ねるのが好きなわけじゃない。性欲を持て余しているわけでもない。

最初は金だけが目的だったけれど、いつの間にか依存症になっていた。

内心では客のことを馬鹿にしていながら、その関係に溺れている。


本当に自分は、どうしようもない人間だと思う。

例え、枕営業だと言っても、体を売っているのだと言っても、裏切りは裏切り。

きっと京子は、呆れ果てて軽蔑し、自分を捨てるだろう。

京子にバレるのが怖い。誠が余計なことを言わなければいいが、時間の問題だろう。


京子は、自分を求めてくれている。

損得勘定なんかじゃない。純粋に、自分を好きでいてくれる。

昨日だって、可愛らしく自分に甘えてくれた。

それは酒がさせたことかもしれない。けれど、酔っているからこそ、本音が出るものだ。

京子は、自分と体を重ねることを望んでくれた。


それでも京子を抱かないのは、京子を客と同じ扱いにしたくなかったからだ。

京子を汚したくなかった。抱くことで、京子を傷付けたくなかった。

ちゃんと京子を、自分の特別にしておきたかった。

…なんて、言い訳だ。


京子を抱くことに、少しの不安があった。

京子と体を重ねても、満たされなかったら、どうしよう。

その行為に愛を見出せなかったら、どうしよう。

怖かった。自分にとって、女を抱くと言う行為は、愛情表現ではない。

ただ、生きる術だった。居場所を得る術だった。

とても汚らしくて悍ましい、卑怯な手段だった。


京子を客と同じにしたくなかった。

京子への愛を汚したくなかった。

自分はどれだけ汚れてもいいから、せめて、自分の大切に想っている人だけは、綺麗でいてほしかった。



酒と薬を合わせてもあまり眠れなくて、自分は夜が明ける前に目が覚めた。

普段は澄ました顔をしている京子の寝顔は、幼くて、可愛かった。

自分が好きな人。自分を好きでいてくれる人。

綺麗だと思った。京子は、強くて、真っ直ぐで、少しも汚れていない。

こんな自分とは違う。京子は潔白で高潔だ。


京子を起こさない程度に、髪を梳いたり、頬を突いてみたりして、京子の存在を確かめた。

時々うざったいのか、顔をしかめるのがなんだかおかしくて、京子の寝顔に見蕩れていた。

できるなら、この寝顔をずっと見ていたい。

けれど、日は登ってしまったし、京子はバイトがあると言うから、仕方なしに起こした。

すると京子は「遅刻する!」と大慌てでシャワーも浴びずに出て行ってしまった。


京子がバイトへ行ってしまうと、退屈だ。

何もすることはないし、テレビだってつまらない。

京子がバイトを終えるのは、夕方だと聞いた。

それまでどうしよう。何をしていよう。

時計を見れば、まだ昼前だった。


彼方は着替えて、外に出ることにした。



いい天気、とは言えない曇天。

重たそうな灰色の雲が空を覆っている。

宛てもなくフラフラと散歩でもしようと、彼方は歩いた。

この辺りにあるのは、海と山だけ。

ゲームセンターも、映画館も、カラオケも、コンビニもない。

年頃の男が遊ぶところなんて、どこにもない。

けれど、何もないこの町が、自分が生まれた町。日向と育った町なんだ。

何もなくても、この町は日向との思い出で溢れている。


毎日通った通学路。休みの日に出掛けた海辺。

はしゃいでいて滑って転んだ畦道。泣きながら日向と手を繋いで帰った坂道。

虐待を恐れて、遅くまで時間を潰した小さな公園。幼い頃、日向とよく遊んだ夫婦岩。

それらの景色は、何も変わっていなかった。何も変わらず、昔のまま。

景色は変わらないのに、自分たちは変わってしまった。

戻れないほど、変わってしまっていたんだ。


もういつ見れなくなるかもしれない景色を、見ておきたかった。

日向と過ごした思い出の場所の一つ一つを、この目に映しておきたかった。

思い残すことがないように。諦めきれるように。

見納めはいつになるのだろう。きっと、遠くない未来だ。

季節は秋。自分たちが生まれた十月だった。


本当は、生まれ育った家も見ておきたかったけれど、やめた。

ここで日向に見つかるわけにはいかない。

日向に会っても、交わす言葉はない。


彼方は、京子の家に帰ろうと踵を返した。

湿気を含んだ風が頬を撫でる。

まだ昼過ぎなのに、夕方のように薄暗い空が広がっていた。


海辺が見える道を歩いていると、聞きなれた声が遠くで聞こえた。

犬に鳴き声。浜辺の方を見渡せば、いつかのお姉さんとリッキーが見えた。

リッキーもこちらに気付いたらしく、嬉しそうに尻尾を振ってこっちを見ている。


「リッキー。」


彼方はリッキーの方へ歩み寄る。

リッキーは今にも飛びつきそうな勢いで、ワンワン、と嬉しそうに吠え、尻尾を振る。

お姉さんは、踏ん張ってリッキーのリードを握っている。

リッキーの方が力が強いのか、引きずられているようだけれど。


「こんにちは。えっと…彼方くんの方…よね?」


お姉さんは、自信無さげに自分を窺う。

自分と日向の見分けがつかないのだろう。


「はい、お久しぶりです。」


そう答えると、お姉さんは微笑んだ。


「ホント、久しぶりねえ。最近会いに来てくれないから、リッキー寂しそうだったのよ。」


リッキーは自分を見て、千切れんばかりに尻尾を振っている。

そんなリッキーを頭を撫でると、リッキーは気持ちよさそうに目を細めた。


「リッキーも久しぶり。」


「ワン!」


元気な返事と共に、リッキーは嬉しそうに自分の手の平を舐める。

リッキーなりの愛情表現だ。

大きな体と綺麗な毛色、キラキラした瞳。人懐っこいところも変わっていなかった。

リッキーも変わらない世界の住人なのだ。自分とは、違う。


それから、久しぶりにリッキーとじゃれ合うように遊んだ。

広い浜辺で追いかけっこをしたり、その綺麗な毛を撫でたり。

リッキーは嬉しそうに「もっと、もっと」と言うように、ワンワンと吠えた。


少しだけ、沈んでいた気持ちが楽になった。

アニマルセラピーなんてものもあったっけ。

確かに、動物と触れ合っていると、癒される。

動物は可愛い。こんなにも、自分に懐いてくれる。

悪意や欲に塗れた人間なんかとは違う。

リッキーの純粋で欲も悪意もない綺麗な瞳が、輝いて見えた。

少しだけ、少しだけ、心が解れた。


リッキーの頭や背中を撫でて遊んでいると、少しの変化に気付いた。

変わっていないようで、変わったことがある。

リッキーと遊ぶ自分をニコニコと見つめるお姉さん。

その飼い主のお姉さんの腹が、少しだけ大きくなっていた。

確か、妊娠しているんだっけか。


「お腹、大きくなりましたね。」


「ええ。今七ヶ月目なの。」


そう言って、お姉さんは愛おしそうに腹を撫でる。

小さな命を身ごもった腹。子供が宿った腹。

この人は、母親になる人なんだ。


「彼方君も触ってみる?」


「いいんですか?」


「ええ。この子も喜ぶと思うわ。」


彼方は、恐る恐るそっと、お姉さんの腹に触れてみた。

温かい。微かに命の鼓動を感じる気がする。

なんだか不思議な気分だ。ここに、赤ん坊がいるのか。

その膨らんだ腹をゆっくりと撫でると、トン、と軽い衝撃が手の平に伝わった。


「あ。」


「ふふっ、今、蹴ったわね。彼方君に挨拶してくれたのかな。」


お姉さんはなんでもないふうに笑って自分の腹を撫でる。

まるで、お腹の中にいる子供をあやすように。


「最近よく動いたり蹴ったりするのよ。男の子なんですって。」


「もう性別わかるんですか?」


「ええ。先月病院の先生に教えてもらったの。きっと、わんぱくな子になるだろうなあ。」


そう呟いたお姉さんのは、幸せそうだった。

満たされている、そんな表情だった。

腹の中の子が産まれるのを心底楽しみにして、待ちわびている、そんな顔。


自分達の母親も、こういう表情をしている時があったのだろうか。

自分達を望んで、待ちわびて、楽しみにしていてくれたのだろうか。

少しでも、このお姉さんのように、母親らしい感情を持ったのだろうか。


いや、ありえない。

自分の記憶の中は母親は、いつも酒に酔って暴れて暴力を振るった。

「いらない」と、「産まなきゃよかった」と、「死んで」と、暴言を浴びせられ続けたのだ。

母親にとって、自分たちは、いらない子供だった。


「…親になるって、どんな気分ですか?」


彼方は小さな声で呟いた。

お姉さんは首を傾げて考えるような素振りを見せて、


「うーん…そうね。ちょっとだけ…不安かな。」


と、困ったように笑った。


「どうしてですか?」


「ちゃんと元気に生まれてくれるかな、とか、いいお母さんになれるかな、とか色々考えちゃうのよね。

 私にはこうやってリッキーがいるけれど、子供を育てたことなんてないんだもの。

 犬や猫を飼うのとは違うの。人間を産むのよ。感情を持った人間を。

 親になるってことは、この子の命を背負うってことなの。

 ちゃんと、母親としてこの子を幸せにしてあげないといけないの。」


言い聞かせるように、彼女は強い口調で言う。

まるで、彼女が自分自身に言い聞かせているようだ。

強い決意を、言葉にしているみたいに。


「でも、この子は私たちのもとへ来てくれた。私たちの子供として、ここに宿ってくれた。

 だから、この子のためにも、もっとしっかりしなきゃって思うの。」


そう言って、彼女は笑った。

その笑顔は強く、綺麗で、大人の顔だと思った。

人の命を背負って生きる覚悟を持つ、大人だと。


「…お姉さんは、いいお母さんになれると思いますよ。」


微笑みを作って、彼方は言った。


「本当?そう言ってくれると嬉しいわ。」


お姉さんは照れたように、はにかんで笑った。


「リッキーもこの子のお兄ちゃんになるのよねえ。」


照れ隠しのようにお姉さんはリッキーの頭を撫でる。

リッキーは「ワン」と短い返事をした。


なんだか、望まれて生まれてくるその子供が羨ましくなった。

自分の親も、このお姉さんのような母親なら、自分は過ちを犯さずに済んだのだろうか。

間違えることなく、幸せになれたのだろうか。

いや、そんなこと、考えたって無駄だ。


「ねえねえ、彼方君は好きな人とはどうなったの?」


興味深々と言うように、お姉さんは目を輝かせている。

そういえば、以前、そんなことを話したっけな。

あの時は、もう二度と会うこともないと、つい言ってしまった。

余計なことなんて、言わなければよかったな。

でも、この人は、自分が好きな人と言ったのが、日向のことだとは気付かないだろう。


「フラれちゃいましたよ。」


「え、そうなの?」


お姉さんは驚いたように目を瞬かせる。


「はい。今は、別の子と付き合ってます。」


「そうなんだ…。なんか…ごめんね。」


申し訳なさそうにお姉さんは首を傾げる。

お姉さんが困ったような顔をするものだから、彼方は笑った。

すっかり張り付いた、作り笑顔。


「平気ですよ。今は彼女のことが好きだから。」


自分が平気だと笑えば、みんな笑ってくれた。

作り笑顔は、人と付き合うための処世術だ。

けれど、お姉さんは笑ってはくれなかった。


「…彼方君、少し雰囲気変わったね。」


「え?」


お姉さんは、まじまじと自分を見つめる。


変わった、だなんて。

このお姉さんの記憶の中の自分は、どんな顔をしていたのだろう。

今よりは幾分かは、綺麗に見えていたのだろうか。


「なんだか、大人びたみたい。」


大人びた。彼女には、そう見えているのか。

自分は臆病で、卑怯で、狡い、子供のままなのに。

汚れた、の間違いではないだろうか。

自分は大人になんて、なりきれていない。大人のフリをしているだけだ。

けれども、そう言って微笑む女性に、彼方も微笑みを返した。


「そうですか?僕なんて、まだまだ子供ですよ。」


「あら、もうすぐ高校卒業でしょ?進路は決まったの?」


「ええ、一応。普通に大学行きますよ。」


「そうなんだ。じゃあ、これから受験勉強大変ね。」


「はい。勉強ばかりで嫌になっちゃう。」


息を吐くように、嘘を吐く。

張り付けた笑顔で、それを真実だと思いこませる。

嘘で作られた自分と言う人間を、存在させる。


良心が痛むなんてことは、なかった。

だって、自分はすっかり汚れきってしまっているのだから。

痛む心も、持ち合わせてはいなかった。


それからしばらくお姉さんと談笑して、リッキーと遊んで、時間が過ぎた。

リッキーは頭がいい。自分がお姉さんと会話をしている時は、ちゃんと大人しくしている。

頭を撫でてやったら、それが遊んでいい合図だと言わんばかりに、飛びついてくる。

飛びついてくると言っても、力任せなわけでもなく、ちゃんと自分が支えられるぐらいの力加減にしてくれる。

「駄目」と言ったことはしないし、叱るとしょんぼりとした顔をする。

頭を撫でて褒めてやれば、尻尾を振って嬉しそうな顔をする。

人間の言葉をちゃんと理解するし、表情も感情もある。


いつか、日向に「ブリーダーになる」と言ったことを思い出す。

日向を自分から引き離して、日向に自分の将来を考えさせるために吐いた嘘だった。

けれど、本当にそんな未来があったら、と思った。


自分が過ちを犯すことなく、間違えることなく、一緒に高校を卒業して、進路は別々だけれど、日向と仲が良いまま自分はブリーダーになって、大好きな犬や猫囲まれ、日向に自分の彼女を紹介して、日向の彼女も紹介してもらって、お互い喜んで、お互いに仲が良いまま幸せになって―。

そんな未来があったらと思った。

でも、もう無理だ。もう何も望めない。

自分は道を誤りすぎた。幸せになんて、なれるわけがない。


ふいに、生暖かい感触が頬に触れる。


「わっ!」


リッキーが自分の頬を舐めたのだ。

リッキーは心配そうな表情をして、自分を見つめていた。


自分は今どんな顔をしていたのだろう。

落ち込んでいるように見えたのだろうか。

ペロペロと、リッキーが自分の頬を舐める。

なんだか、慰められているみたいだ。


「大丈夫。大丈夫だよ。ありがと、リッキー。」


彼方はリッキーの頭を撫でる。

リッキーはまだ心配そうな顔で自分を見つめていた。


「…へくっしゅ!」


ふいに、背後で可愛らしいくしゃみが聞こえた。

お姉さんが、寒そうに肩を竦めていた。

気付いたら、結構時間が経っていたようだ。

海から吹く潮風は、少し肌寒いものに変わっていた。


「そろそろ帰った方がいいですよ。風邪ひいたら大変だし、お腹の子も心配だから。」


「そうね。最近寒くって困っちゃう。」


そう言って、お姉さんは鼻を啜る。

寒いのを我慢して、自分をリッキーを遊ばせてくれていたのだろうか。

妊婦なのに、悪いことをしたな、と彼方は思った。


リッキーはお姉さんの方へと走り、その大きくなった腹に頬ずりをした。

まるで、お姉さんと腹の中の子を温めるように。

お姉さんが妊娠していると、わかっているのだろうか。

さっきも自分を慰めてくれた。

喋ることはできないけれど、人間の感情には敏感なようだ。


「ねえ、彼方君。また、リッキーに会いに来てくれる?」


リッキーの首輪にリードを繋ぎ直しながら、お姉さんは言う。

賢いリッキーは、されるがまま、大人しく座っていた。


「あ…えっと…たまに、なら。受験勉強とか、大変だから。」


「そうよね。受験生だもんね。

 でもね、リッキーがこんなに楽しそうなのは久しぶりなの。

 リッキー大きいから、みんな怖がっちゃうのよねえ。いい子なんだけどなあ。」


そういえば、日向もリッキーのことを怖がっていたな。

日向の場合は、犬でも猫でも、例え兎でも、ビビッて触れないのだけれど。

動物は可愛いのに。どうして怖がるのだろう。

人間の方が、欲に塗れていて、よっぽど怖いじゃないか。


「リッキーがこんなに懐くのも、彼方君くらいなのよ?

 彼方君は、動物に好かれる才能でもあるんじゃないのかな。」


「そんなことないですよ。ただ、動物が好きなだけです。」


「ブリーダーとか似合いそうなのになあ。」


そう言って、お姉さんは笑う。


それは、見れない夢だ。

明るい未来なんて、ない。

もう、幸せなんて望めない―。


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