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「ダリアの幸福」  作者: 麻丸。
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「笑顔の裏の嘘」



登場人物


高橋日向 双子の兄。一人称は俺。

高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。

坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。

中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。

矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。

渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。

竹内京子 二年生。優樹の妹。

新田百合 一年生。日向の恋人。

桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。

白崎先生 精神科医。

リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。

お姉さん リッキーの飼い主。

新田 椿 百合の姉。

竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。

篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。

麗華   彼方の客。

智美   彼方の客。

梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。

川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。

美波さん 看護師



 「笑顔の裏の嘘」




「優樹さん、仕事サボってごめんなさい!」


帰ってくるなり、彼方は律儀に頭を下げた。


時刻は夕方十七時。

ちょうど優樹が目を覚まして、リビングでくつろいでいる頃だった。

昨日、彼方は何の連絡もなしに、仕事を休んだ。

家にも帰って来ず、電話をかけても繋がらなかった。

店には、彼方が休みだとは知らずに、彼方の客が何人か訪れた。

彼女たちは彼方がいないとわかると、残念そうに帰って行った。


「…許さん。」


不機嫌な声でそう呟くと、彼方は少し怯えたような表情をした。


「本当にごめんなさい。優樹さんにも、お店にも、いっぱい迷惑をかけました。…ごめんなさい。」


そう言って、彼方は頭を下げたまま、肩を窄めて、小さくなる。

まるで、怒られている子供のようだ。実際、そうなのだが。

こうやって頭を下げられると、なんだか自分が悪いことをしているような気分になる。

反省しているのはわかったから、厳しい言葉で責めるのは、止めておこう。

優樹は溜息を一つ吐いた。


「顔上げろ。で、とりあえずそこに座れ。」


優樹が対面のソファーを指さすと、彼方は恐る恐る顔を上げて、ゆっくりとソファーに座った。

まだその表情は、怯えたままで、しょんぼりと肩を落として小さくなっている。


「俺は、仕事サボったことは怒ってない。」


「え…?」


彼方は、窺うような視線を向ける。

その視線を、優樹は真っ直ぐに受け止めた。


「どこで何してた?」


「えっと…その…。」


言えないことなのか、彼方は目を逸らして口ごもった。

何か言葉を探したが、結局何も出て来ずに口を結ぶ。

誤魔化しや、上手い言い訳でも、言えばいいのに。

こういうところは、正直で真面目だ。

根底は、元々素直でいい奴なんだろう。


けれど、こいつは秘密が多すぎる。

きっと、自分が知った事実よりも、たくさんの秘密を抱えている。

その秘密を、自分に悟られまいと必死になっている。

自分のことを、信用していないのか。


訪れた沈黙が、重たい。

彼方は口を噤んだままだし、電源の入っていないテレビは真っ暗だ。

低い換気扇の音だけが、部屋の中を満たす。

耐えきれずに、優樹は煙草の火を点けた。


紫煙を肺まで吸い込んで、吐き出す。


「ごめんなさい…。」


申し訳なさそうに、消え入りそうな声で呟く。

それでも、理由は話さないのか。


「連絡ないと、なんかあったんじゃないかって心配するだろ。

 メールでもいいから、休みたいなら休みたいって一言ぐらい連絡しろ。

 言ってくれたら、ちゃんと休ませてやるから。」


「…はい。ごめんなさい。」


素直に返事をした彼方は、今にも泣き出してしまいそうな表情だった。

少し瞳が潤んでいる。膝の上で拳をギュッと握って、必死に涙こらえているようだ。

優樹は、そんな彼方の瞳を見つめる。


「次からは、絶対に連絡入れるって約束できるか?」


「…はい。約束します。本当に、ごめんなさい。」


彼方は精一杯、誠実に頭を下げた。

これだけ謝られたら、もう許すしかないな。

優樹は、下げたままの彼方の頭を少し乱暴に撫でて、明るい声で言った。


「よし、この話終わり!」


「え…?」


頭を撫でられて、彼方は恐る恐る顔を上げる。

その視線は、優樹を窺うようだった。


「もう怒ってねーよ。」


そう言って、優樹は笑う。

心配かけた罰として、少しだけ怒っているように見せただけだ。

心配はしたけれど、これっぽちも怒ってはいない。

彼方が無事だったのなら、いいんだ。怒る理由はない。


「あ、でもちゃんと客にフォロー入れとけよ。

 昨日は美咲ちゃんと、夏菜ちゃんと、絵梨佳さんがお前に会いに来てたぞ。」


「あ、はい…。」


その返事は、まだ少しおどおどとしていた。

意外と小心者なのか。さっきの謝罪も、演技なんかじゃないんだ。

嘘を吐くのも、誤魔化すのも、得意なはずなのに。


「だから、もう怒ってないって。そんなビクビクするなよ。」


そう言って、優樹はもう一度彼方の頭を撫でる。

ワックスでセットされた髪が、わしゃわしゃと崩れた。


「だって、優樹さんの顔、怖かったんだもん…。」


小さくため息を吐いて、彼方は肩を落とした。


「そんな情けないこと言うなよ。男の子だろ?」


「僕、怖いのと痛いのは苦手なんです。」


すっかり表情が緩んだ彼方は、唇を尖らせる。

こうしてみると、やっぱり彼方は子供だ。

精一杯背伸びをして大人のフリをしている、未熟で無邪気な子供だ。

子供のくせに、大人のフリをしなくてはいけないなんて、どんな理由があるのだろう。

過干渉はしないようにしていたけれど、聞いてしまいたい。

言ってくれたら、自分にだって何かできるかもしれないのに。


今まで、彼方が話してくれるのを待っていたが、一向に話す気配はない。

むしろ、京子がアパートに帰ってから、彼方は外出が多くなったし、ちゃんと二人で話す機会がなかった。

いっそ、聞いてしまいたい。聞きだしてしまいたい。

優樹は、躊躇いがちに切り出した。


「お前さー…なんか悩みでもあるわけ?」


「え?なんですか、突然。」


彼方は、不思議そうに首を傾げる。


「いや…なんか悩んでるんなら、相談してくれてもいいんだぞ?俺は、お前の味方になってやるから。」


真っ直ぐ彼方を見つめると、彼方は一瞬目を逸らした。

けれど、すぐにまた目を合わせて、言った。


「ありがとうございます。…でも、悩みなんてないですよ。仕事、楽しいし。」


柔らかく、彼方は微笑む。


いつもそうだ。誤魔化す時、彼方は笑うんだ。

その微笑みで、全てをなかったことにするんだ。

悩みなんて最初から存在していなかった、そう思わせるんだ。

勘違いだと、自分は平気だと、そう思い込ませるんだ。


綺麗な笑顔のはずなのに、優樹には、どこか悲しい微笑みに見えた。

けれど、彼方はこの微笑みで、自分が踏み込むことを拒んでいる。


「…そっか。なら、いいんだ。」


結局、彼方の心の内は覗けずに、引き下がってしまう。

やっぱり覗いてみたいなんて、烏滸がましかったのだろうか。

彼方の心には、固い鍵が掛けられている。

その鍵を持たない自分に、できることは、ない。

ただ、彼方に居場所を与えてやることしか、できない。







「中村先輩。」


午後の最初の授業を終えて音楽室を出ると、百合に声を掛けられた。

珍しく百合は、髪を可愛らしく巻いていた。

手には音楽の教科書を持っている。

次はここで、一年生の選択教科の授業があるのか。


「ああ、百合ちゃん。次、音楽?」


「はい。…えっと」


百合はキョロキョロと辺りを見渡して、音楽室の中まで覗き込む。

お目当ては、日向だろう。


「…日向先輩と、中村先輩は?」


「アイツらは、美術だから。」


将悟たちの通う学校は、選択教科で、音楽と美術の好きな方を選べる。

けれど、音楽の授業は人前で歌ったり、楽器を演奏したりするからか、あまり人気がない。

大体の生徒は、大勢の前で発表のない美術を選択する。

日向と亮太も、そうだった。


「…よかった。」


そう言って、百合は胸を撫で下ろす。


「よかった?」


てっきり日向を探していると思ったのに。

せっかく髪を巻いてお洒落をしてきたのを、日向に見せてやればいいのに。


「あの…日向先輩から、何か…聞いていますか?」


深刻な表情で、百合は言った。

昨日休みだった日向は、昼休みが終わるころに学校に来た。

心配していたけれど、体調が悪そうには見えなかったし、むしろ、元気そうに見えた。

それに、すぐに移動教室だったし、一言二言程度の挨拶を交わしただけだ。


「いや…何かって、何?」


「えっと…その…」


将悟が聞くと、百合は躊躇うように口ごもる。それほど言い辛いことなのか。

しきりに百合は、周りを気にしている。他人に聞かれたくない話、か。


「お母さんのこと…とか。」


ポツリと、百合は声を潜めて呟く。

その言葉に、将悟は驚いた。


「お母さんって…日向の母さんのこと?何かあったのか?」


「あ…いえ、やっぱりなんでもないです。」


自分が何も聞かされていないと知ると、百合は慌てて首を振る。

心配かけたくないのだろうか。けれど、そこまで言われたら自分だって察する。

雨のバス停で、ボロボロの状態で倒れていた日向が脳裏に浮かんだ。


「何でもないって…そんなわけないだろ?また帰ってきてるのか?」


日向や彼方のことばかりを考えていて、すっかり忘れていた。

日向の母親のこと。虐待を繰り返す、親らしくない親のことを。


「ええと…あの…」


百合は困ったように言い淀む。


「帰ってきてるとかじゃ…ないんですけど…その…」


曖昧に言葉を濁しながら、周りを見渡す。

三年生はもうほとんど残っていなくて、次の授業へ向かう一年生がチラホラと周りを歩いていた。

人通りが少ないわけではない。誰に聞かれるかもわからない。


ふいに、次の授業の始まりを告げる予鈴が鳴り響く。

それが合図とでもいうように、百合は安堵したような溜息を吐いた。


「ごめんなさい、なんでもないんです。…早く教室戻らないと、授業遅れちゃいますよ。」


そう言って、百合は綺麗な巻髪を揺らして音楽室へ消えていく。

その背中を、将悟は黙って見送ることしかできなかった。




「ねえねえ、日向君ー。」


「風邪治ったのー?」


「昨日休みだったから心配したよー。」


「ああ…もう平気。」


「じゃあ、これから遊びにいこうよー。」


「日向君の快気祝いにカラオケでパーッとしよう!」


「え…それは…ちょっと…。」


「なんでなんでー。いいじゃない。」


「そうだよ行こうよー。」


午後の授業をすべて終えて、放課後になり、日向はいつものように女子を目の前にして困った様子で苦笑いしていた。

甘ったるい香水の匂いと、わざとらしいほどの猫撫で声が耳につく。

隣の席の亮太は、HRから寝こけたまま。助けを求めるように日向がチラチラと視線を寄越してくる。

将悟は、いつものように女子に囲まれて困っている日向を、適当な理由をつけて連れ出した。


教室を出て、昇降口を目指して廊下を歩く。

窓からは夕日が差し込む。

すっかり日も短くなって、校庭の木々は紅葉を始めて、秋が始まっていた。

亮太を置いてきてしまったが、まあいいだろう。どうせ真紀が亮太を迎えに来る。


日向はと言うと、特に変わった様子はない。

思いつめている様子もないし、悩んでいるような様子もない。

授業中は退屈そうだったが、いつも通り…だと思う。


けれど、音楽室での百合の話が気になって、将悟は口を開いた。


「さっき、音楽室で百合ちゃんに会った。」


「え?ああ…今日、可愛かっただろ?」


「は?」


「髪、俺がやったんだ。」


指先をくるくると回して、日向は笑う。

将悟は拍子抜けした。百合の話をする日向は、本当に幸せそうに笑う。

さっきの百合の深刻そうな表情とは、似ても似つかない。


「俺がやったって…お前が百合ちゃんの髪巻いたわけ?」


「ああ。たまに練習させてもらってるんだ。」


そういうこと、か。百合のあの巻髪は、日向がやったのか。

サボったり、学校では不真面目なくせに、こういうことはぬかりがない。


「お前…午前サボりかよ。百合ちゃんまで巻き込んで。」


「まあ…ちょっと、いろいろあって。」


痛いところを突かれて、日向は苦笑いをする。

その「いろいろ」とは何だろう。

百合の顔を見る限り、何か重大なことがあったのではないかと思うのに。


「…百合ちゃん、心配してたぞ。」


ポツリ、と将悟が呟く。

日向は一瞬驚いたように目を伏せて、窺うような視線を寄越した。


「…聞いた?」


その返事は肯定か。

やけにあっさりと認めたものだ。


「いや、詳しくは聞いてない。なんかあったのか?」


「…ううん、大丈夫。まだどうなるかも…わからないし。」


そう言って、また視線を伏せる。


「百合ちゃん、お前の母さんがどうのって言ってたけど。」


「ああ…うん。」


長い睫毛の先の瞳で足元を見ながら、日向はポツリポツリと話し出す。


「なんかあの人、…月曜日の夜中に事故に遭ったらしくてさ。

 意識不明の重体だって連絡があって、…それで、昨日は病院行ってた。

 実際たいしたことなかったみたいなんだけど…まだ意識は戻らなくて。

 それに、骨が折れてるみたいだから、たぶん退院したら…しばらく家に戻ってくるんだと思う。」


日向は、自分に嘘を吐くことをしなくなった。

どうせ嘘を吐いてもバレてしまうし、諦めも混じっていると思う。

事情を知っている自分には、本当のことを話してくれる。


「病院でさ、ずーっと…死なないかな、って思ってた。…俺、最低だな。」


そう言って、自嘲気味に日向は笑う。

その愁いを帯びた表情は、何かを覚悟しているように見えた。

何を?決まっている。虐待を甘んじて受けることだ。


どうしてこいつは、逆らうことをしないのだろう。逃げ出すことを選ばないのだろう。

いくら相手が大人だとはいえ、日向は男だ。力で充分勝てるだろう。

彼方のように家を出て、自分や友人の家に匿ってもらうこともできるはずだ。

どうして日向は、それができないのだろう。

幼いころから虐待を受けて育って、感覚が、麻痺しているのではないか。


「また…しばらく俺ん家泊まるか?誠さんもいるけど。」


「そういうわけにはいかないだろ。あの人骨折してるし、誰かが世話しないと。」


『あの人』。日向はそう言った。

母親だとは、認めたくないのだろう。

けれど、日向は逃げ出せない親子関係に、雁字搦めにされている。

どうあがいても、虐待を繰り返すその女は、日向の母親なのだ。


「それはお前じゃなくてもいいだろ。」


「…俺以外、誰がいるんだよ。」


そう呟いた猫背がちの背中は、憂いを背負っていた。



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