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「ダリアの幸福」  作者: 麻丸。
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「人魚の岩場」



登場人物


高橋日向 双子の兄。一人称は俺。

高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。

坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。

中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。

矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。

渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。

竹内京子 二年生。優樹の妹。

新田百合 一年生。日向の恋人。

桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。

白崎先生 精神科医。

リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。

お姉さん リッキーの飼い主。

新田 椿 百合の姉。

竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。

篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。

麗華   彼方の客。

智美   彼方の客。

梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。

川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。

美波さん 看護師


 「人魚の岩場」




「晴れたね。昨日の雨が、嘘みたいだ。」


カーテンを開けて、彼方が言う。

窓の外は、眩しいくらいの朝日が降り注いでいた。

時刻は午前十時前。学校はとっくに始まっている。

どうせサボるつもりだったし、今日はわざと朝寝坊をした。


二人で一緒に一つのベッドで眠ったけれど、彼方は昨日も手を出してこなかった。

ただ、抱きしめ合って眠っただけ。抱きしめる以外は、何もしてこなかった。

彼方なりの誠意のつもりだろうか。なんだか拍子抜けだ。

別に恋人らしいことがしたかったなんて、言うつもりはないけれど。

せっかく、恥ずかしくても「好き」だと伝えたのに。

ちょっとだけ、ほんの少しだけ、期待していた。


「本当に行くんですか?」


「うん。天気もいいし、ちょうどいいでしょ?」


そう言って、彼方は微笑む。


今日は、彼方の「秘密の場所」へ行くらしい。

昨日の夜話してくれた、日向との思い出の場所。


京子も、話くらいでは聞いたことがある。

こんな田舎の唯一の観光名所、夫婦岩。

けれど、ただ大きな言岩が二つあるだけと聞いた。

そんなところの、何が楽しいのだろう。

日向との秘密の場所なら、どうして自分を連れて行こうと思ったのだろう。


―京子ちゃんは、特別だよ。


その言葉が、なんだかくすぐったい。

今までの彼氏にも、兄にも、言われたことがない言葉。

何故だろう。嬉しいような、恥ずかしいような、妙な気分になる。

ああ、本当に自分は、彼方のことが好きなのか。


そんな気持ちを悟られたくなくて、京子はキッチンへ入る。

素直になれたらいいのに、やっぱり自分は素直になれない。

トーストを焼いて、卵とベーコンを炒めて、簡単な朝食を作った。

それから、二人で少し遅めの朝食を取った。


けれど、やっぱり彼方の食は細く、半分も食べないうちに「ごちそうさま」と言った。

自分の料理の腕は、悪くはないと思う。

というより、トーストも卵もベーコンも、誰が焼いてもある程度美味しくなるはずだ。

でも、最近の彼方は食事を見るたび、憂鬱そうな顔をする。

口を付けてくれるだけ、マシなのだろうか。

夏バテだと言っていたが、本当にそうなのだろうか。

病気で食が細くなっているのだろうか。

その病気の話を聞いても、はぐらかされる。


シャワーを浴びている時、キッチンにいる時、自分が眠った後。

彼方が自分にバレないように、こっそりと薬を飲んでいることも知っている。

本人は気付かれていないと思っているようだが、自分は気付いてる。

どうして、話してくれないのか。

自分は、彼方の彼女のはずなのに。

本当のことを話せるのは、自分だけじゃなかったのか。

今更、気を遣うような関係じゃないのに。

京子は、やりきれない気持ちを溜息にして、吐き出した。



外に出ると、暑くもなく、寒くもなく、ちょうどいいくらいの気温だった。

京子のアパートから、海沿いの道路を歩いて十五分程度。

穏やかな日本海を眺めながら、クネクネとした坂を上る。

山と海しかない、田舎の風景。

吹き抜ける潮風が気持ちいい。

しばらく歩いて、その場所に辿り着いた。


「ほら、あそこだよ。」


そう言って、彼方は指を指す。

その先を見ると、観光名所らしく、開けた高台が見える。

彼方に手を引かれて、その高台に上ると、そこには、大きな岩が二つ、海に浮かんでいた。

十五メートルを超える巨大な岩と、その岩より少しだけ小さい岩。

少し大きさが違うのが、夫婦岩と言われる所以だろうか。

二つの岩を繋ぐように、太いしめ縄が架かっている。


「正式名称は機具岩って言うんだって。」


彼方は立札を見て、言う。

ご丁寧にフリガナがつけられている。

当然か。『機具岩』で『はたごいわ』だなんて、難しくて読めない。


「ちなみに、大きい方が女岩なんだよ。」


「逆じゃないんですか?」


「逆じゃないよ。ほら、女は強し、って言うじゃない。」


そう言って、彼方はクスクスと笑う。


古い木造のベンチに座って、その景色を眺めてみる。

この静かな高台は、視界を遮るものが何もなくて、遠くまで海が見渡せる。

大きい方の岩の上に、赤い社が見える。何かを祀ってあるのだろうか。

空も海も穏やかで、澄み渡るほどの青。

太陽の光を反射して、水面はキラキラと輝いていた。

雄大な自然。でも、どこか厳かな雰囲気がある場所だった。


腰の高さまでの柵に手を乗せて下を眺めてみる。

下に広がるのは、砂浜ではなく、ゴツゴツとした岩肌だった。


「こっちから下に降りれるんだよ。」


隅の方に、下へと続く小さな階段がある。

古い木材の欄干を伝って、少し歪な石の階段を降りた。


家を出る前に、「ヒールのある靴はやめた方がいいよ」といった理由がわかった。

地面はゴツゴツとした岩肌で、スニーカーを履いていても不安定だった。

小さな石が、じゃりじゃりと音を立てる。歪な石に、足を取られてしまう。

こんな岩場を歩きなれていない自分は、今にも転んでしまいそうだ。

彼方は慣れた様子で、そんな不安定な地面を軽々と歩く。


下に降りると、高台で見たよりも機具岩はずっと大きく見えた。

四階建ての学校と同じくらいの大きさに見える。


「昔さあ、幼稚園の時にね、この岩に登ってみたくなったんだよねえ。」


機具岩を見上げて、彼方が呟く。


「登ったんですか?こんなところに?」


断崖絶壁、というわけではないが、登れるように階段があるわけではない。

刺々しい歪な形は、ロッククライマーですら躊躇うだろう。

とても子供が登れるような岩ではない。


「登ったよ。日向が『危ないからダメだ』って言うんだけどさ、男の子って小っちゃい時ってやんちゃじゃない。

 『大丈夫大丈夫』って登ったんだけどさ、半分くらい登った時に…途中で手が滑って海に落ちちゃって。

 まあ、足がつく場所だったから、たいしたことないし、大丈夫だったんだけどね、背中打ったり、ちょっとだけ足切れたりして、すっごく痛かった。

 でもさ、男の子だから泣かなかったんだよ?偉いでしょ?」


冗談めかして、彼方は笑う。


「今は泣き虫なのに、よく言えますね。」


「そうだね。でも、その時は泣かなかったんだ。

 代わりに、日向の方が泣きそうな顔してた。

 いつもそうなんだ。僕が痛いと、日向が泣きそうな顔になる。

 まあ、日向は僕と違って、泣き虫なんかじゃないんだけどね。」


切なそうに、日向の名前を呟く。

最近の彼方は、思い出話をよくするようになった。

それも、昔の日向の話ばかり。

まるで、過去を懐かしんでいるみたいに。


そんな彼方の話を、京子は黙って聞いていた。


「その後は、散々だったなあ。

 おばあちゃんのお説教はすっごく長かったし、日向も『だから危ないって言っただろ』って怒って、しばらく口聞いてくれなかったよ。

 日向ったらね、怒ったらいつも無視するの。僕が謝るまで、ずーっと目も合わせようとしない。

 わかりやすくプイってそっぽ向いてさ。話しかけても、名前呼んでも、返事しないんだよ。

 岩から落ちても泣かなかったのに、日向に無視されるのが辛くて、泣きながら謝ったっけ。」


照れくさそうに、彼方ははにかむ。

その言葉の一つ一つから、日向への想いを感じる。

やっぱり彼方は、今でも日向のことを想っている。


なんだか面白くない。

やっぱり彼方の一番は、日向なんだ。

諦めたと言ったのに。自分を好きだと言ってくれたのに。

日向に嫉妬するのはお門違いだとは、わかっている。

けれど、チクリと胸が痛む。


無意識に、唇が尖る。

彼方のことが好きだと自覚した時、自分は彼方の一番にはなれないと思った。

彼方のことが好きだと言ってから、自分が彼方の一番になりたいと思った。

寂しがりなこの人の、居場所になりたいと思った。

けれど、口を開けば日向の名前ばかり呼ぶ。

その響きが切なくて、なんだかやりきれない気持ちになる。

自分は、日向には勝てない。勝てるわけがない。


唇を尖らせる京子の様子には気付きもせずに、彼方は岩場にしゃがみ込む。

そして、水面に手を遊ばせた。長い指先が海水に浸る。

波がその手を攫おうと、揺れる。

袖くらい捲ればいいのに。


「袖、濡れますよ。」


「平気だよ。」


静かに寄せては返す波。

穏やかに、ゆらゆらと揺れる。

岩場に当たり、跳ね返り、飛び散る。

一際大きい波に、彼方の白いジャケットの袖が濡れた。


「あー…。」


彼方は水面から手を出して、濡れた袖を見つめる。

手首の部分が、水を含んで変色していた。


「ほら、言ったじゃないですか。」


「このくらい平気だよ。すぐ乾く。」


平日の海は、静かだった。

辺りに人影はない。こんな田舎を走る車もない。

たまに、遠くで小さな漁船が見えるだけ。

まるで世界に二人きりになったようだった。


「ねえ、京子ちゃん。人魚姫って知ってる?」


ふいに、彼方がポツリと呟く。


「童話ですか?」


「うん。僕ね、昔から人魚姫の絵本が好きだった。」


そう言って、彼方は微笑む。

なんだか意外ではない気がする。

子供っぽいというか、無邪気というか、彼方は難しい本より、絵本の方が似合っていると思う。

それにしても人魚姫だなんて。

絵本の中では珍しいバッドエンドではないか。


「最後は、泡になって消えちゃうんですよね。」


「え?妖精になって、王子様を見守るんじゃないの?」


彼方は、驚いたように目を瞬かせる。

妖精だなんて、初めて聞いた。


「泡ですよ。」


「妖精だよ。」


むっとした表情で、彼方は言い返す。

負けず嫌いな京子も、ムキになって言い返す。


「泡ですって。」


「妖精だってば。」


「泡。」


「妖精。」


なんだかおかしくなって、二人は顔を見合わせて笑う。

不思議な感じだ。二人は、趣味や趣向が似ているわけでもない。

ただ、お互いに好きになってはいけない人を、好きになってしまっただけ。

それだけだったはずなのに、今は彼方の隣が心地いい。


「でも、どっちにしても、バッドエンドでしょう。」


人魚姫は、人間の王子様に恋をする。

大好きな王子様に近付きたくて、魔女に頼み込んで、声と引き換えに足を手に入れる。

人間になって陸に上がった人魚姫は、何も話せなくても、王子様の傍にいられた。

けれど、突然王子の結婚が決まる。

魔女は言う。「その想いが叶わなかったら、お前は泡となって消えてしまう。」

「王子を殺せば、消えなくて済む」そう姉たちに言われて、握りしめたナイフを、人魚姫は王子に突き刺すことはできなかった。

結局、想いも伝えることもないまま、人魚姫は消えてしまう。

悲しい、悲しいお話だ。


彼方は、静かに首を振る。


「そんなことないよ。

 ハッピーエンド…とは言えないかもしれないけど、人魚姫は幸せだったと思うよ。」


「どうしてそう思うんです?」


「好きになった人を、殺すことなんてできないでしょ?

 人魚姫は自分が犠牲になることで、王子様を守ったんだよ。

 王子様の幸せのために、死ぬことを自分で選んだんだよ。

 大好きな王子様を守るために死ねるなんて、それって、凄く素敵なことじゃない?」


そう言って、彼方は切なそうに微笑む。

美しい自己犠牲精神。

それが素敵だなんて、京子は思えない。

そんなものは、ただの自己満足だ。

押しつけがましい、偽善だと思う。


「私は、そうは思いませんけど。」


「じゃあ京子ちゃんが人魚姫だったら、優樹さんを殺す?」


物騒な言葉を、平然と口に出す彼方。

真っ直ぐな瞳が、自分を見つめる。

いつもの冗談なんかじゃない。彼方の目は真剣だ。


「それは…」


「無理だよね。…僕も、日向は殺せない。」


強い言葉で、彼方は言う。

口ごもって、京子は何も言えなかった。


「日向を殺すくらいなら、僕が死ぬよ。日向のためなら、僕は死ねる。」


彼方は、悲しい顔で笑った。


「…馬鹿なこと、言わないでください。」


「冗談だよ、冗談。ただの例え話。」


消えてしまいそうな、儚い微笑み。

まるで、彼方が波に攫われてしまいそうで、怖くなった。

この雄大の海が、彼方をどこか遠くへ連れ去ってしまいそうで、寒気がした。

彼方が本当に命を絶ちそうで、恐ろしかった。

だって、彼方は死にたがっている。

自ら命を絶つことを望んでいる。


無意識に、彼方の腕にしがみつく。

どこにも行かせない。遠くへなんて、行かせない。


「…貴方の彼女は私なんですから、勝手にいなくなったり…しないでくださいよ。」


「京子ちゃん…。」


そっと、彼方に抱き寄せられる。

まだ温かい彼方の体温が、ひどく愛おしく感じる。

生きている温度。その温度が欲しくなって、京子も彼方の背中に腕を回した。


「死んだりしたら、許しませんよ…。」


小さく呟くと、彼方の長い指が、頭を撫でて髪を梳いた。

けれど、彼方は何も言ってはくれなかった。

ただ静かに、宥めるように優しい手付きで自分を抱きしめて、頭を撫でた。


寂しい波音が聞こえる。遠くで鳥の開く声が聞こえる。

彼方の胸に顔を押し付けると、心臓の鼓動を感じた。

大丈夫、生きている。まだ、生きている。

自分を抱きしめて、命を紡いでいる。


「海が好きなんだ。」


彼方が、ポツリと呟く。


「どうせ死ぬなら、海に還りたいなあ。」


そう言って、彼方は一層強く自分を抱きしめた。

その寂しい響きに、涙が出そうになる。

彼方が自分に話してくれる思い出話も、自分を包み込む優しさも、全部が終わりを迎える準備な気がして、胸が震えた。


京子は、海に向かって祈った。

ああ、どうか、この人を連れて行かないで。

この人の弱さも、甘えも、寂しさも、全部自分が受け止めるから。

だから、だからどうか、この人の傍にいさせて。


「…今日も、仕事…休めないんですか…?」


躊躇いがちに、京子は口を開く。

甘えるような言葉なんて、普段は恥ずかしくて言えない。

けれど、今は、まだ彼方を帰したくなかった。

もっと一緒に、いてほしかった。


「え?…えーっと…。」


彼方は、戸惑ったような声を上げる。

自分らしくないことを言ったのは、わかっている。

笑われてもいい。からかわれてもいい。それでもいいから、傍にいたい。


けれど、彼方はもじもじと、言い辛そうに言った。


「実は…昨日サボっちゃったんだよね。」


「え?休みじゃなかったんですか?」


「うん…。」


叱られた子供のように、彼方は俯いて肩を落とす。


「優樹さん怒ってるかなあ。怒ってるよね?連絡してないもん。

 優樹さん怒ったら怖そうだなー…。あー怒られるの嫌だなー…。」


大袈裟に、彼方は溜息を吐く。

さっきまで大人びた儚さを持って、死や自殺を仄めかしていたのに、急に子供の顔になる。

小さい子供のように、うじうじと怒られることを憂うなんて。

いつもの、彼方だ。京子は少しだけ、安心した。


「…ちゃんと連絡しない貴方が悪いでしょう。思いっきり怒られてきてください。」


「ええー、京子ちゃん冷たーい。」


彼方は唇を尖らせて、不貞腐れる。

無邪気な、子供の表情。


「明日も…来てくれますよね?」


確かめるように、京子は問う。


「…うん。会いに行くよ。もうちょっとバイト減らしてくれたら嬉しいけど。」


そう言って、彼方は笑った。


少しでも、彼方と過ごせる時間がほしかった。

脆く、臆病な彼方を、守りたかった。

自殺だなんて、馬鹿なことを考えないように。

自分の傍に、置いておきたかった。


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