「雨のワルツ」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。
渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。
竹内京子 二年生。優樹の妹。
新田百合 一年生。日向の恋人。
桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。
白崎先生 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
新田 椿 百合の姉。
竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。
篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。
麗華 彼方の客。
智美 彼方の客。
梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。
川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。
美波 看護師。
「雨のワルツ」
「京子ちゃんってさ、元々こっちの人?」
「いいえ。高校からです。元々は、お兄ちゃんが住んでる街の方の出身です。」
雨の音を聞きながら、二人はベッドの中で抱き合っていた。
何をするわけでもなく、ただお互いの体温を確かめていた。
「そうなんだ。ねえ、夫婦岩って知ってる?」
彼方の長い指が、髪を撫でる。
「夫婦岩…?すぐそこの観光スポットですよね?」
「観光客なんて、全然いないけどね。行ったことある?」
「いいえ。遠くから見たことしかないです。」
「僕ね、小さい時から、そこがお気に入りだった。
周りは断崖絶壁で…よく日向と一緒にそこで遊んでてね、危ないっていつもおばあちゃんに怒られてた。
おばあちゃんはね、いつも優しいんだけど、怒るとすっごく怖かった。」
今日の彼方は、饒舌だ。
昔を懐かしむように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「…おばあちゃん、心配してるんじゃないんですか。」
「おばあちゃんは、僕らが五歳の時に死んだよ。それからは、日向と二人きり。」
「…ごめんなさい。」
彼方は気にした様子はなく、静かに微笑む。
「夫婦岩はね、夕日が綺麗なんだ。海に浮かぶ岩だから、周りを全部見渡せる。
おっきな岩が二つあってね、なんだかそれが僕と日向に見えた。
だから、あの場所が好きだったんだ。」
京子は、黙って彼方の思い出話を聞いていた。
彼方の過去なんて、何も知らなかった。
自分から聞くこともなかったし、彼方も話そうとはしなかったからだ。
以前、母親がネグレクトをしていると聞いただけ。
「おばあちゃんが死んでから、僕と日向は二人きりだった。
まだ五歳だったんだよ?たった五歳で日向は家事覚えて、なんとか二人で生活してきた。
僕も日向の真似して、洗濯したり料理したりもしたんだけどさ、全然駄目でさ。ほら、僕不器用だから。
結局家のことは、全部日向に任せっぱなしだったなあ。」
慈しむように、彼方は笑った。
日向の話をする彼方は、いつだって自然だった。
自然に笑って泣き、慈しみ、愛おしむ。
真っ直ぐなひたむきな想いが、痛いほどに。
「…京子ちゃんには、僕のお母さんの話したことあったよね?」
「…はい。」
「母さんはね、たまに家に帰ってきてたんだよ。
でもね、帰ってくるたびに、酒に酔って暴力を振るってた。
母さんが飽きるまで殴られて、蹴られて、体中が痣とか傷だらけになった。」
彼方は悲しそうに、長い睫毛を揺らして目を伏せた。
そして、京子をぎゅっと抱き寄せる。
「僕らさ、本当は元気なのに、そんな体見られたくないから、体が弱いから体育できないとか、夏でも長袖着たりしてさ、ずっと隠してた。」
京子はじっと、降り続く雨音と、彼方の鼓動を聞く。
彼方の胸に顔を埋めて、ドクン、ドクンと、彼方が生きている音を聞く。
冷えた体は、すっかり暖かくなっていた。
「一回、本当に死のうとしたことがあったんだ。そんな虐待とか嫌になってさ。
その時も夫婦岩の近くでね、…入水しようとした。
けど、…日向は見つけてくれたんだよ。
僕、何も言わなかったのに、雨の中びしょびしょになりながら、僕を見つけてくれた。
僕を抱きしめて、僕がいなくなったら生きていけない、って…言ってくれた。」
彼方にそんな過去があったなんて。
だから日向に執着しているのか。
無理もない。彼方が心を許せるのは、日向だけだったんだ。
本当に彼方のことを理解してやれるのは、日向しかいなかったんだ。
どんなに人に囲まれていても、どんなに女にモテても、抱えた秘密が大きすぎたんだ。
「日向は、僕の神様だったんだよ。日向がいたから、生きていられた。」
切ない言葉が、彼方の口から洩れる。
それでも精一杯愛おしそうに、甘く切ない響きだった。
「私は…貴方の神様には、なれないんですか?」
その言葉に、彼方は曖昧に笑った。
やっぱり彼方にとって日向は特別で、その特別に、自分はなれないんだ。
たとえ日向の代わりになれなくても、彼方の特別になりたかった。
彼方の唯一になりたかった。この人を、救いたかった。
「明日、学校サボっちゃおうか。」
「え?」
突然、彼方の声が明るくなって、京子は戸惑う。
いつもの、少しおどけた調子の彼方に戻っていた。
「夫婦岩、行こうか。僕と日向だけの秘密の場所に、京子ちゃんも連れて行ってあげる。」
「観光名所なのに、秘密の場所なんですか?」
「観光客なんていないって。いたとしたら、よっぽどの物好きだよ?岩と海しかない場所だもん。」
「そんなところに、女の子を連れていく気ですか。」
「京子ちゃんだけは特別、だよ。」
そう言って、彼方はふふっと笑う。子供のような無邪気な笑み。
特別。耳元で囁く低い声が、なんだか心地いい。
同時に何故か怖くなって、京子は彼方を抱きしめる手に力を込める。
壊れてしまいそうなほど、細い体だった。
―この人を、手放したくない。
今、彼方は、京子の腕の中で、生きている。
凍えそうになりながら、必死に温もりを貪っている。
欠けた心を痛がって、助けを求めている。
嘘でいいと言いながら、愛されることを望んでいる。
不器用で、愚かで、寂しい人。
―嘘でいい。嘘でいいから、好きって言ってよ。
その言葉に、京子は何も言えなかった。
恥ずかしさと、プライドと、少しの自尊心が邪魔をした。
でも、今なら言える気がした。
今なら、ちゃんと自分の口で気持ちを伝えられる気がした。
「…彼方さん。」
「んー?なあに?」
彼方は低く甘い声で囁きながら、京子の髪に指を遊ばせる。
京子の短い黒髪は、彼方の長い指に絡んでは解けた。
なんだかやっぱり恥ずかしい。彼方の顔が見れない。
でも、言わなくちゃ。ちゃんと言わなくちゃ。
今しかないんだ。自分が素直に好きだと言えるのは、今だけだ。
頬が熱くなるのを感じる。心臓が早くなる。
たった二文字の言葉なのに、口にするのを躊躇う。
言うのは一瞬だ。その一瞬のために、自分は今こんなにもドキドキしている。
京子は彼方の胸元に顔を埋めたまま、小さく深呼吸をする。
平静を保って、なんでもない風を装って、
「…好き…です。」
消え入りそうな小さな声を洩らした。
言ってしまった。
心臓がバクバクしている。無意識に彼方を抱きしめる腕に、力が籠っている。
恥ずかしい。自分は素直に好きだなんて、言うような女じゃないのに。
京子は恥ずかしさに耐えながら、彼方の反応を待っていたが、彼方は何も言わない。
恐る恐る顔を上げて彼方を見ると、彼方は目元を手で覆っていた。
「彼方さん…?」
「…ホント?」
押し殺したような声で、彼方は聞く。
表情が見えない。彼方は何を思ったのか。
「…私がそんな冗談を言うように見えますか?」
「…見えない。」
「…そういうことですよ。」
目元を覆っていた手をどけると、彼方の瞳は潤んでいた。
「そっか。…そっかあ。」
そう言いながら、彼方は京子を強く抱きしめる。
「なんだろ…なんか…嬉しくなってきちゃった。」
そう耳元で呟くと、彼方は涙を零した。
嬉し泣き、というやつだろうか。
馬鹿にされて笑われるかと思ったのに、驚いた。
彼方は不思議な男だ。
モテるし、告白なんて慣れているだろうし、キスやその先だって、いろんな女としてきただろうに。
以前だって、自分の不意打ちのキスに、彼方は顔を赤らめた。
どうして自分が好きだと言っただけで、泣くのだろう。
彼方は見た目はほとんど大人なのに、中身は子供のようだ。
純情、とは言わないけれど、時々純粋で無邪気な一面を見せる。
大人でもない。子供でもない。
頑張って背伸びをして、大人ぶっている子供のようだ。
中途半端に、強くあろうとしているみたいだ。
本当は怖がり痛がり寂しがりで、泣き虫なくせに。
日向の傍を離れて、一人で生きていけるだなんて寂しいことを言って、強がっている。
そんな彼方が愛おしくて、でも、なんだか切なくなった。
「京子ちゃん、好きだよ。」
そう言って、彼方は泣きながら笑った。
白い壁、白い床、白い天井。
無機質な空間で、日向はベッドに横たわる女を見ていた。
体中に包帯が巻かれて、腕や胸には無数のチューブや機械が繋がれている。
口元には呼吸器が付けられていて、か細い呼吸を繰り返していた。
静かな部屋で聞こえるのは、振り続く雨音と、よくわからない機械の電子音。
ピクリとも動かない目の前の女は、まるで死んでいるのではないかとさえ思うほどに、青白かった。
この女の顔をはっきりと見るのは、初めてかもしれない。
歳の割には、綺麗で整った顔立ち。細い体に長い手足。
きっと、美人だと言われる部類の女だろう。
長い睫毛や白い肌、シャープな顎に、すっと通った鼻筋は、母親譲りなのだと思う。
ベッドに横たわる女は、まぎれもなく自分の母親だった。
交通事故だったらしい。
大型トラックに撥ねられて、意識不明の重体だと電話で聞いた。
けれど、実際には、外傷は左腕の骨折と、掠り傷や、打撲程度でたいしたことないらしい。
しかし、頭を強く打って、生死の境を彷徨っていた。
そして、昨日の夜中から集中治療室で処置を受けて、ついさっき、一命をとりとめた。
この女は、まだ生きている。
呼吸器の中で、か細い呼吸をしている。
体中に繋がれた機械で、かろうじて心臓を動かしている。
いっそ、死んでくれたらよかったのに。
集中治療室の前で待つ間、何度もそう思った。
助かるのを待つのではなく、息絶えるのを待っていた。
その呼吸が、心臓が、止まるのを待っていた。
祈るような気持ちで、彼女の死を願った。
無限に続く虐待から、解放されるのを、心待ちにしていた。
けれど、現実は上手くはいかなかった。
彼女は、かろうじて生き延びた。
まだ意識は戻らない。
けれど、目を覚ましたら、自分を見てどんな顔をするのだろう。
彼女の終わりを見届けようとしていた息子に、どんな言葉を投げかけるのだろう。
罵詈雑言を浴びせられて、また殴られるだろうか。
いや、相手は怪我人だし、場所が場所だ。それはないと、思いたい。
医者の話では、意識さえ戻れば、怪我は命に関わるものではなく、すぐ退院できるらしい。
けれど、目が覚めて、退院したとしても、怪我だらけの不自由な体じゃ、一人で生活できないだろう。
きっと、家に戻ってくる。自分が世話をしないといけないのか。
また、あの悪夢の日々が始まるのか。
百合に心配かけてしまうな。
そういえば、朝にメールを送ったきりだった。
日向は、ポケットから携帯電話を取り出した。
メールの受信を知らせるランプが点灯している。
受信ボックスを確認すると、新着メールが三通。
二通は百合からで、もう一通は将悟からだった。
将悟から不在着信も入っている。
『体調悪いんですか?放課後、家に寄ってもいいですか?』
一通目は百合からだ。これは朝送ったメールの返信だろう。
学校休むとだけ伝えたから、心配させてしまっただろうか。
『寝てるんですか?玄関にゼリーとポカリ置いておきますね。起きたら連絡ください。』
二通目も百合から。送信時刻は夕方だった。
風邪をひいていると思って、家まで来てくれたのか。
百合は優しい。こんなに自分のことを気にかけてくれている。
『どこ行ってる?何かあったのか?百合ちゃんが心配してるぞ。連絡してやれ。』
三通目は将悟から。送信時刻は十八時を超えていた。
将悟も家まで来てくれたのだろうか。
駄目だな、自分は。いろんな人に心配かけてばかりだ。
きっと、また心配かけることになる。
日向は、静かに眠る女を見つめる。
もう二度と目覚めなければいいのに。
ああ、百合に会いたい。
百合の細く柔らかな腕に包まれたい。
その温かい腕の中で、めいっぱい甘やかしてほしい。
優しい笑顔と凛とした声で、自分の名を呼んでほしい。
小さな掌で、自分に触れてほしい。
きっと母親が家に帰ってきたら、安らげる時間なんてない。
いつもみたいに、家で百合とくっついたり、じゃれあったりする時間なんて、無くなるだろう。
母親に、百合を会わせるわけにはいかない。
こんな人間が自分の母親だなんて、言えない。
きっと、母親は家に帰ってきて、また虐待を繰り返す。
酒に酔って、不幸を嘆く。自分の存在を否定して、暴力を振るう。
やっと、生きていてもいいと、思えるようになったのに。
将来の希望を、持てるようになったのに。
心の隅で少しだけ、いなくなった彼方を羨ましく思った。
彼方は今、幸せなのだろうか。
将悟に言われたこと、千秋に言われたことを思い返してみる。
―誠が彼方のことを知っている。
―京子が彼方とデートをしていた。
誠は、そんな素振りを一切見せなかった。
京子も彼方を知っているかという質問を、否定した。
やっぱり彼方が根回しをしているのだろうか。
自分に見つからないように、口止めをしたのだろうか。
探さない方が、お互いのためだろうな。
探して連れ戻しても、また虐待の日々だ。
きっと彼方は、そんなこと望んでない。
もう、あんな目に遭うのは、自分だけで充分だ。
ふいに、病室の扉をノックする音が聞こえる。
返事も待たずに顔を覗かせたのは、看護師の美波だった。
「日向君、お母さんはもう大丈夫だから、今日は帰った方がいいんじゃないかな?」
人の良さそうな笑みで、美波は病室へと入ってくる。
集中治療室の前で待っている間も、美波は日向を慰めたり、励ましたりしてくれた。
実際には、慰めも励ましも必要なくて、ただ母親が息絶えるのを待っていたのだけれど。
そんなこと、口が裂けても言えなかった。
「…母さん、本当にもう大丈夫なんですか?」
顔を上げずに、日向はポツリと呟く。
「ええ。頭を打ってるから、しばらくは様子を見ないと駄目だけど、体は大丈夫よ。
怪我もたいしたことないし、処置も早かったから問題ないわ。」
美波は日向の顔を覗き込み、優しく微笑む。
大丈夫だなんて、ただの気休めの言葉ならよかったのに。
後ろめたさに、その微笑みを見ることができなくて、日向はずっと母親を見つめていた。
そんな日向を見て、美波は困ったように眉を下げた。
「心配だろうけど、電車もそろそろ無くなるし…。
お母さんの目が覚めたら、また病院から連絡入れるから、ね?
ちゃんと明日からは学校行くのよ?じゃないと、お母さんが心配しちゃうからね。」
日向の肩に両手を乗せて、宥めるように美波は言う。
母親思いの息子、にでも見えているのだろうか。
本当は全然そんなことないのに。
窓の外を見れば、大雨だった。
風が強いのか、木々が激しく揺れている。
遠くで雷が鳴って、窓に雨粒が打ち付ける。
重たい雲が空一面に広がって、真っ暗だった。
まるで、これからの自分のようだと、日向は思った。