「唯一の救い」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。元バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。
渡辺真紀 元バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。
竹内京子 二年生。優樹の妹。
新田百合 一年生。日向の恋人。
桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。
白崎先生 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。
篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。
麗華 彼方の客。
智美 彼方の客。
梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。
川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。
「唯一の救い」
すっかり傷が消えた、綺麗な体。
誰とでも体を重ねる、汚い体。
今日も、彼方は女と体を重ねる。
相手なんて、誰でもよかった。
もう、こんなことをする必要なんてない。
女を抱いて、金を稼ぐ必要は、もうない。
金なんて、有り余るほどあった。
けれど、彼方はこの行為を止められなくなっていた。
毎日薄っぺらい愛を囁いて、女を抱く。
気付けば、一種の依存症のようになっていた。
愛されたい。
望まれたい。
求められていたい。
誰でもいいから、自分に居場所を与えてほしい。
「ねえ、麗華さん。」
情事が終わった後。彼方はベッドに寝転がる女に声を掛ける。
その日の相手は、麗華だった。
「なあに?」
麗華は、甘い猫撫で声を洩らして、上体を起こす。
彼方は麗華の細い肩を抱き、耳元で囁く。
「僕と、付き合ってよ。」
そのまま唇を奪おうと、頬に手を添え、顔を近づける。
けれど、麗華は人差し指を彼方の唇に押し当てて、キスを拒否した。
「残念。ベッドの上での言葉は、信じない主義なの。」
そう言って、麗華は妖艶に微笑んで見せる。
「僕、本気だよ?」
彼方は可愛らしく首を傾げて、麗華を見つめて微笑む。
麗華の好みは、カッコいい男よりも、可愛らしい男。
こういう仕草には、弱いはずだ。
「じゃあ尚更ね。」
軽くあしらうように、麗華はするりと彼方の腕の中から抜ける。
「そういう言葉は、ベッド以外のところで言ってちょうだい。」
そう言って、麗華は煙草に手を伸ばす。
細い煙草に火が点けば、薄い紫煙が揺らめいた。
「まあ、ベッド以外のところでも、返事は変わらないかもしれないけどね。」
なんだ、脈なしか。
麗華なら、いけると思ったのに。
「そっか。残念だなぁ。」
みんなそうだ。体は欲しいけれど、自分はいらない。
都合のいい関係しか、求めていない。
体を重ねても、心までは交わらない。
愛されているわけでは、ないんだ。
「智美さん。」
その日の相手は、智美。
情事が終わり、智美はベッドに腰掛けて、携帯画面に夢中だった。
「んー?」
メールを打っているのか、指先は忙しなく動く。
けれど、携帯に集中しているのか、返事は生返事だった。
「ねえ。僕のこと、愛してよ。」
彼方は、智美の隣に座り、携帯画面を見つめる智美の顔を覗く。
智美は反射的に、携帯画面を彼方に見えないように背けた。
「…それは、どういう意味で?」
智美は驚いたような、不思議そうな顔になっていた。
彼方は返事をせず、智美を後ろから抱きしめる。
その体は、情事の後の熱を残さず、冷房の風ですっかり冷えていた。
どうして女は、夏場でも体が冷たいのだろう。日向とは、大違いだ。
「どうしたの?最近ちょっと様子がおかしいんじゃない?病んでるの?」
智美は、心配そうに彼方の顔を覗きこむ。
そして、その細く長い手で、彼方の頭を撫でた。
日向よりも小さい。けれど、大人の手。
「ちょっと痩せすぎじゃない?前に焼き肉行った時もさ、全然食べなかったじゃない。」
智美の手は、頭から肩をなぞり、腕をすり抜ける。
「うん、ごめんね?あの時は、ちょっと食欲がなかっただけ。」
最近は、食事もまともに摂れない。
ほとんど食べていないのに、お腹がすく感覚はないし、口に入れれば吐き気に苛まれる。
おかげで体はフラフラするし、思考も鈍る。
それでも胃が食べ物を拒否するものだから、どうしようもない。
「智美さんは優しいね。いつも僕の心配ばっかりしてくれる。」
智美は心配性で優しい。
こうやって弱いところを見せれば、自分のことを気にかけてくれる。
「私は八方美人だから。」
そう言って、智美はおかしそうに笑う。
「八方美人なんていうのはね、誰のことも好きじゃないからできることなのよ。」
「…僕のことも?」
そう聞くと、智美は何も言わずに、ニッコリと微笑んだ。
その微笑みは肯定か。ああ、智美も、同じなんだ。
誰も、自分のことを愛してはくれない。
「美咲ちゃん、僕と付き合ってよ。」
その日の相手は美咲。
彼女は十九歳のキャバクラ嬢だ。
「えー無理だよー。私、彼氏いるもん。」
ベッドの中で抱きしめ合いながら、美咲は甘ったるい猫撫で声を洩らす。
美咲とも、何度もこんな夜を過ごした。
「彼氏がいるのに、僕と寝てたの?」
わざとらしく唇を尖らせて、彼方は美咲の顔を覗きこむ。
美咲は少し強引でワガママな男が好きだから、嫉妬をしたフリ。
「だって、こんなのただの遊びじゃない。」
子猫のような三日月の目を細めて、美咲は意地悪に笑う。
「彼方君とこうやって遊ぶのは好きだけど、彼方君のことは信用できないなあ。」
遊び、か。
彼氏がいるのに、遊びだと割り切って自分と寝るなんて、悪い女だ。
自分も人のことは言えないけれど。
「そっか。それは残念だね。」
結局、いくら体を重ねても、所詮は一夜の夢。
満たされるはずも、受け入れられるはずもない。
一瞬の快楽に、寂しさを誤魔化すだけ。
虚しいことだとはわかっていても、こんなことを繰り返すのは、自分が弱いからだ。
嘘でもいいから、求められていたかった。
優樹のマンションに帰ったって、ほとんど眠れやしない。
体も心も疲れているはずなのに、目を瞑ってみても、意識は明瞭のまま。
少し多めに薬を飲んでみても、微睡むことさえ許されない。
ベッドに寝転がってみても、眠れるはずもなく、時間だけが過ぎていく。
目を瞑って、何も考えないようにしていても、罪悪感が押し寄せてくる。
ああ、自分は何をしているのだろう。何がしたかったのだろう。
こんな日々、望んでたわけじゃないのに。
日を追うごとに、どんどん、汚れていく。
体だって、心だって、どす黒い何かに浸食されているような気分になる。
もういっそのこと、消えてしまいたい。
何も考えなくても済むように、死んでしまいたい。
自分なんて、自殺してしまえばよかったんだ。
死ぬのを怖がって、未練がましく生きていても、ただ辛いだけだ。
こんな汚い自分を、誰にも見られたくない。
みっともなくて、みすぼらしい自分。
誰も自分を見ないでほしい。このまま独りで隠れていたい。
けれど、何故かとても寂しくて、孤独が怖くなる。
独りになりたくない。誰かの傍に、おいてほしかった。
そうだ、京子に会いに行こう。
京子の傍は、何故か落ち着く。
色を使う必要もないし、気を遣う必要もない。
京子は、自分が傍にいることを許してくれる。本気で自分を拒絶することはない。
嫌味を言いながらも、仕方なしに、自分を傍に置いてくれる。
そんな居場所を失いたくないがために、京子と付き合った。
恋人と言う鎖で、京子を繋ぎとめた。
なんだかんだ言って、京子は優しい。
その優しさは少し日向に似ていて、辛くなる半面、とても安心できた。
本人は似ていないと言うが、日向と京子の性格は、少し似ている。
性格と言うよりも、自分に対しての接し方が似ているのだろうか。
素っ気なく、優しい手を差し出してくれる。
呆れながらも、心配してくれる。
怒りながらも、慰めてくれる。
戸惑いながらも、受け入れてくれる。
日向も京子も、不器用だけど、優しい人間なんだ。
正直、京子に愛情なんてない。
けれど、京子を傍に置くためには、恋人になるしか方法が思いつかなかった。
京子の隣では、飾らない素のままの自分でいられる。
そんな、安心できる居場所を近くに置いておきたかった。
恋人になった京子に、「好き」という言葉を、よく言うようになった。
それは、祈りや願いのような意味を含んでいた。
口にするたび、その言葉が本当になればいい、と思った。
好きだ好きだと言っているうちに、本当に京子のことを好きになれればいいと思った。
そうすれば、きっと自分は救われる。
京子を愛することができれば、日向を忘れられる。
そう信じていた。
間違えたんだ。日向を好きになった自分が。
自分と日向は双子だ。しかも男同士。
こんな自分が、日向に愛されるわけはない。
最初から、わかっていたことだ。
それでも自分は、この想いを隠していられなかった。それが、自分の過ちだ。
京子のように、隠してさえいられれば、日向と離れることもなかった。
日向との関係を、壊すこともなかった。
今こんなにも辛いのは、全部自業自得なんだ。
いつものように、駅前のケーキ屋に寄る。
そして、京子が喜ぶような、とびっきり甘いお菓子を選ぶ。
今日は「こだわり卵のトロけるプリン」を十個。
両手いっぱいにお菓子を抱えて、自分が住んでいた田舎へ向かう電車に乗る。
すっかり見慣れた景色は、ただただ車窓を流れるだけだった。
まるで、世界が自分を置き去りにしていくみたいだ。
「自分がいなくても地球が回る。」
歌だったか、ドラマだったか、そんなことは忘れてしまったけれど、昔テレビで聞いたセリフ。
確かにそうだと思う。自分がいなくても、日向は幸せそうに笑っているだろうし、自分に好意を寄せてきた女子たちだって、自分のことを忘れて他の誰かを想っているだろう。
学校も何事もなかったかのように、いつも通りの退屈な授業を繰り返す。
自分がそこにいる必要なんてないんだ。
自分が望まれた居場所ではなかったんだ。
もう戻れない。戻る気もない。自分は、汚れきってしまったから。
そんなことを考えていると、電車は地元の駅へと到着する。
電車を降りて駅を出ると、遠くから学校のチャイムの音が聞こえた。
携帯電話で時刻を確認すると、ちょうど五時限目が始まったみたいだ。
自分と同じ学校の生徒に見つからないように、地元の町を歩くのは、高校の授業の時間と重なるようにしてきた。
京子のアパートは、駅から徒歩十分の距離にある。
通いなれたこの道を歩いて、京子のアパートへ向かう。
そして、京子に貰った合鍵を使って、京子のアパートの部屋を開ける。
京子のアパートは1Kのシンプルな作りだった。
八畳の部屋と、キッチン、お風呂とトイレは別。
ベランダは広くて、陽当たりがいい。
すっかりヘビースモーカーになってしまったから、片道二時間の煙草が吸えない電車内は辛い。
口が寂しいというか、手持無沙汰というか、体がニコチンを欲している。
しかし、京子には、部屋の中は禁煙だと言われている。
だから、周りの住人に見つからないように、ベランダにしゃがみ込んで、煙草を吸う。
缶コーヒーの空き缶を灰皿代わりにして、京子が帰ってくるまでの時間を持て余す。
京子の部屋はシンプルだ。綺麗に片付けられている。
服は綺麗にクローゼットにしまってあるし、本は本棚にびっしりと並んでいる。
テレビ台の横に、優樹が誕生日にプレゼントした簪を見つけた。
普段使いはできないだろうから、ショーケースに入れて飾ってある。
その横には、少し雑にネックレスやブレスレットが置いてあった。
去年付き合っていた彼氏に貰ったものだろうか。
それとも、優樹がプレゼントしたものか、自分で買ったものか。
思えば、いつもお菓子ばかりで、形に残るものはプレゼントしたことない。
恋人、なのだから、何かプレゼントした方がいいだろうか。
時計を見ると、午後四時を回っていた。
そろそろ京子が帰ってくる時間だ。
そんなことを思っていると、玄関の鍵が開く音がした。
「おかえり、京子ちゃん。」
彼方は、ひょっこりと玄関を覗き込む。
「ああ、また来てたんですか。」
京子は顔色一つ変えず、素っ気ない口調で言う。
けれど、嫌がったりはしない。静かに、自分が隣にいることを許してくれる。
素っ気ないのは、京子なりの照れ隠しなんじゃないかと思う。
京子は靴を脱いで、真っ直ぐ部屋に入って、ソファーに座る。
こうやって、自分の隣に京子が座るのは、ごく自然な日常になった。
「今日の貢物は、プリンだよ。」
彼方は、慣れた手つきで、菓子箱を開けて見せる。
本人は気付いていないのかもしれないが、お菓子を見せると、京子は子供のように目を輝かせる。
それはもう、わかりやすいほど、嬉しそうな表情を見せるのだ。
そんな表情を見るのが、楽しみになっていた。
クールな京子の表情が綻ぶのを、見るのが好きになっていた。
「ねえ。僕とのデート、考えてくれた?」
彼方はプリンと、付属のプラスチックのスプーンを京子に差し出しながら、京子に問う。
京子はそれを受け取って、また目を輝かせた。
けれど、すぐにいつもの澄ました顔に戻る。
「デートって言われても、どこ行くんですか。」
ペリペリとプリンの包装を剥がしながら、京子は言う。
「何でもいいよ。買い物でも、映画でも、遊園地…はちょっと遠いけど。
京子ちゃんは、何処か行きたいところある?」
「じゃあ無難に、買い物行きましょ。」
そう言って、京子はプリンを口に入れる。
幸せそうに緩む頬が、なんだか可愛らしい。
乗り気じゃないと思っていたが、そうではないみたいだ。
「そういえば、街の方の駅前のショッピングビルがね、なんか改装してたよ。
今週末リニューアルオープンだって。そこ行く?」
「土曜日ならいいですよ。学校もバイトも休みだし。」
「ホント?じゃあ土曜日にしよう。」
そう言って自分が微笑むと、京子は少し照れた様子で顔を背けた。