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序章 最期の好機

 世界は正直だ。そして、平等だ。

 機会と努力を踏まえた過程が、相応の結果として訪れる。形は違っても、誰もが何かを得られる。そんなこの世界を、俺は何よりも尊く思っていた。そう、間違いなく、思っていた。


 今現在、目の前には、今の俺と全く同じ顔、背格好をした男が、あらゆる部分からおびただしい量の血を垂れ流して倒れている。一言で言うなら、本当の俺とでも言うべきだろうか。

 普段なら、誰かのこんな姿を見るだけでも卒倒してしまうだろう。が、今は全くもって冷静……というより、あまりの出来事に呆けてしまっている。

 彼は、俺なのだ。字面では混乱してしまいそうなので、少しだけ言い方を変えよう。

 目の前に倒れている男は、どこからどう見ても、『俺自身』なのだ。

 少し離れた位置で、フロント部分を大きく凹ませたトラックの運転席が開いた。中から出てきたのはガタイの良い中年の男。顔は真っ青に血の気が引いており、口が半開きのままになっている。どうやら俺は、あのトラックに轢かれてしまったようだ。

 早足で俺に近付こうとする運転手だったがそこまで辿り着くよりも早く、周囲には人だかり。そして、それを助長するような悲鳴やざわめきが広がっていた。その中の半数以上の人間の手には、携帯電話が握られている。この中の誰かの写真では、俺と俺のツーショットになったりするんだろうか……。

「なにをのんきなこと考えてるのさ? あんた死んじゃったっていうのに」

「そうか……。俺は、死んだのか」

「そう。今までしてきたことも、夢も理想も全部パー。人生お疲れ様!」

 なんとも元気な声で労いの言葉を掛けられたが、こんなに棘のあるものは初めてだ。

「俺と話してるってことは、君も俺と同じような存在ってことかい?」

「へ? 私があんたとかい? ふふっ」

 俺の問いかけの何が面白かったのか、突然笑われてしまった。思わず声の方に顔が向いてしまう。

「そうか。君は……天使だったのか」

 純白のベールに身を包み、ソファにでも腰掛けるようにふわふわ浮いている女性がそこにはいた。肩にようやく届くほど伸ばされた栗色の髪。目は切れ長だが、全体を見ると若干幼く見える整った顔。リングこそ付けてはいないが、『天使』という表現が相応しいと思った。

 彼女は俺と目が合うと、にっこりと微笑み、

「正確には違うんだけど、そういうことにしといてあげる」

 そう言って、優雅に口元に手を当てながら、再びくすくすと笑った。

 それ以上の会話はなく、俺の視線は自分の死体へと戻る。少しずつながら、現状が脳内に染み込んできた。

「もう、終わりなのか……。今までやってきたことも、何もかも……」

「だからそう言ったでしょ、全部パーだって。あんたが大好きな世界の平等。そのひとつがやってきただけじゃない」

「それってつまり……」

「大正解。……『死』だよ」

 俺が答えるよりも早く、天使は全てを知っているような口ぶりで言った。

 やがて警察が到着し、俺の財布を開く。身元確認のために取り出された免許証には、俺の情報がしっかりと載っていた。どこかで抗っていた心は、この瞬間、小気味よく崩れてしまった。

「もう、連れてって、くれないか……」

 喉が潤いを失い、言葉が詰まる。

「連れてくって、どこへさ?」

「どこでもいいから早く!」

 今の俺は、情けないほどに動揺している。その証拠に、天使の真っ当な疑問に逆上してしまった。これ以上この現場を見ていると、価値を失ってしまった人生を見つめていると、絶望で壊れてしまいそうになる。

 それを察してくれたのか、天使はすぅっと俺の目の前へ滑り降りてきた。

「変えたいって……思うかい?」

 俺より頭ひとつ小さい天使は、琥珀色の瞳を揺らすこともなく、真っ直ぐに尋ねた。

「あんたはまだ、二十数年しかこの世界に関われてない。知らないことも多いでしょう。だから、チャンスをあげる。ヒントをあげる。助けてはあげない。答えも教えない。それでも、今のこの結果を変えたいと思うかい?」

 言葉が、視線が、なんの躊躇いもなく俺を貫く。それは問いかけというより、むしろ誘惑に近いような衝撃。

 ――俺は、生き返れるかもしれない。

「どうにかしてくれるっていうのか?」

 すがるような声が、思考を追い抜いてこぼれた。

「質問したのは私だよ。あんたはどうしたいんだい?」

「……変えたい。こんな終わり方あんまりじゃないか。俺は……、俺は、まだ生きていたい」

「ふむふむ……。なるほどね」

 俺の言葉に満足したのか、天使は目を細めると、二、三度頷いた。表情は先ほどとはうって変わり、空気には穏やかさが漂う。

「それじゃあ色々大変だとは思うけど、あんたは結果を変えることに挑戦するってことでいいのかい?」

 もちろん、と俺は頷いた。後悔はない。彼女に頼らなければ、きっと俺はこのまま消えてしまう。そんなの嫌だ。

「それで、俺は何をすればいいんだ?」

「巻き戻すのさ。ただそれだけ」

「巻き戻す?」

「そう。あんたが辿っていた運命は、ついさっき終わりを迎えた。それを、ちょっといじっちゃおうって話さ」

 いつの間にやら俺の死体が片付けられそうになっている現場を指差しながら、天使は続けた。

「あそこにいるあんたが、あそこにいるあんたじゃなくなるとしたら……どうだい?」

 言葉遊びでも始めたかのように聞こえるが、つまりは……、

「違う人生を歩めば……」

 流れが変わってしまうということなのではないだろうか。

「まぁ、大まかに言えばそんなもんさ。人間は運命を過大評価してる。絶対だって思い込んでる。でも、そんなのあるわけないのさ。運命っていうのは、たくさんの道で出来てるるんだ。ま、最後の最後はみんな同じだから、道が違うだけって考えでもいいと思うけどね」

 最後に軽くおどけて見せた天使だったが、彼女の放った言葉は、あまりにも希望が溢れるものだった。運命は変えられる。そして、そのチャンスを、今まさに俺は手に入れようとしている。逃してなるものか。決して。

「改めて頼む。俺に、人生を変えるチャンスをくれ!」

 俺は即座に頭を下げた。本来なら終わっていたはずの俺の人生。それが、ここからまたスタートを切れる。言い様のない喜びと感謝を込めて、頭を下げ続けた。

「そんなに畏まらなくたっていいのに。ま、悪い気はしないね。それじゃ、早速始めちゃおうか」

 言葉の終わりと同時に、ポンと頭に重みを感じた。おそらく、手を置かれたのだろう。

「あの……、これは?」

「静かに。一気に飛ぶからね。ちょっとだけビックリするかも」

 先ほどと同じようにクスクスと笑う天使。どことなく楽しそうにしているのは、俺に対する何かしらの期待と捉えていいだろう。それなら、俺はしっかりとハッピーエンドを迎えてやるしかない。見せ付けてやろうじゃないか。強い思いを胸に、静かに目を閉じた。

「覚悟は出来たみたいだね。じゃあ、また向こうで会おうじゃないか――」

 直後、俺は突き落とされた。

 ――どこへ? わからない。

 ――景色は? だめだ。目が開かない。

 ――不安は? ない……とは言い切れない。が、期待が勝る。

 帰ろう。俺の愛した世界で、再び生きていくために……。

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