Noel.
多くの人が待ちに待っていた、クリスマスがやってきた。
身を切るような朝の寒さの中、あたしはアンナが住むアパートの屋根に座っていた。昨日と同じ、白い息が漏れる。ただ昨日と違うのは、あたしがれっきとした天使であること。
今日だけ、あたし達天使は奇跡を起こせる。もうリリーは、何か奇跡を起こしただろうか。昔と変わらない仲間たちは、変わらずまた競っているだろうか。
……そろそろ、かな。
詳しい時刻は分からないけれど、もうそろそろ街の人々が起きだしてくるだろう。
あたしは息を吸って、恨めしいまでに晴れた空に人差し指を向けた。
『雪よ、降れ』
心の中で強くそう念じる。心臓がドクンと脈打ち、体から何かが抜けたような気がした。
すると、青空は瞬く間に灰色の雲に覆われ始めた。さらに数分待つと、ふわり、ふわりと小さな雪が舞いだした。粉でしかなかったそれは、やがて大粒のぼたん雪へと変化してく。
満足してそれを見る間もなく、あたしは胸を押さえて咳き込みだした。
命を留める大事な臓器が早鐘を打ち、肺からは嫌な咳が出る。
あたしは、一気に命の半分を削るような奇跡は起こしたことはないけれど、小さなものでも積み重なれば山となる。規模が小さいことしかしてこなかったが、起こした回数は他の仲間の倍はある。
こんな咳が出るのも、舌に血の味がするのも、天使自身の命を代償とする奇跡を起こしすぎたせいだ。
あぁ……あたしも老い先短いんだなぁ。
そう思ったあたしの耳に、人々の感嘆の声が届く。
屋根から下を見下すと、起きてきた何人かの町人が、空を見上げて目を見開いてきた。大人は雪の白さに見惚れ、子供はゆっくりと積もっていく雪を見て喜んでいる。
それだけで、あたしは自分の命の残量なんてどうでもいい気がしてきた。
だって、あたしのしたことを多くの人々が喜んでくれている。礼なんていらない。喜んでくれるだけでいい。
外の騒ぎが気になったのだろうか、アパートの扉が開いて、中から昨日見た車椅子が出てきた。
アンナだ。
あたしを天使に戻してくれた、あたしを奇跡を起こす気にさせてくれた、無垢で悲劇に見舞われる幼い少女と、その母親だ。
「まぁ……!」
母親がびっくりして声をあげる。
さて――、アンナは喜んでくれるかな……?
不安が半分の期待に胸を膨らませて、あたしはアンナが口を開くのを待った。
ゆっくりと幼い少女の唇は開かれ、血色のよろしくないその間からこぼれた言葉は――。
「…………きれい」
その言葉に、あたしは微笑もうとして――――、酷く咳き込んだ。あたしのこの身体は、あたしが思っている以上にまずい状態らしい。
でも気にしない。
クリスマスは奇跡を起こす日で、それをするのが天使の役目だから。人知れずひっそりと奇跡を起こして、静かに消えるのがあたしの思う天使だから。
「ほら、アンナ。見て、雪よ――」
「……うん。ママ、きれいだね」
アンナは弾けんばかりの笑みを浮かべていた。
それだけで、あたしの心は満たされる。喜んでもらえたんだと、天使に戻ってよかったと……。
神の使いだからこそ分かるのだが、やっぱりアンナに残された人生はとても短い。それでもアンナは、初めて見る雪にはしゃいでいる。
少女のその表情を見ているうちに、あたしはもう一回奇跡を起こそうと思った。
それは結構大がかりな奇跡だ。もしそれをしたのなら、あたしは間違いなく消えてしまうだろう。
でも、それでいいと思えた。
自分の寿命を削ることはとても嫌だったけれど、それでもあの少女の笑顔を見ていたら、そんな思いも消えてしまった。
あたしらしくないなぁ……。
自嘲気味に笑って、でも最後に自分らしくないことをするのもいいかもしれないと思い直した。
そして、あたしは奇跡を起こす指をアンナに向けた。
今までしなかったことを、最後に一度だけ、あの子に……。
『あたしの全てと引き換えに、あの子の―――――――――』
先程より強く念じ、先程のように力が抜けていったのを感じた。
視界がぐらりと歪む。
雪の積もった屋根に手をついて、あたしはぼやける視界でアンナを見た。
彼女の身に起こったことは、誰も知らない。いずれ知るかもしれないが、気付くのには誰もが、アンナまでもが時間をかけるだろう。
奇跡は誰にだって一度は起きるけれど、起きたことは誰も知らない。
人知れず、ひっそりと起こされた、奇跡。
イエス・キリストの誕生も奇跡だけれど、その奇跡はとてもささやかなものだった。誰も知らなかった。誰にも気づかれないところで、小さな奇跡が起きて、それはやがて大きな奇跡を起こしていったんだ。
その彼に起こった奇跡のように、あたしがアンナに起こした奇跡も誰もが知らない。
それでいい。それがあたしの願いなのだから。
しばらくしたら、彼女は気づいてくれるだろう。あたしがしたことを。その身に起きた、信じられない事実に。
その時、アンナはどんな反応をするだろう?
その様子を想像して、あたしは薄く笑った。
脳裏に、ファーザーや大天使、大勢の仲間たちと、そしてリリーが現れては消えていく。
あたしがしたことを知ったら、彼らは何て言うだろう。笑うだろうか。リリーは……きっと泣くだろう。
今この場には誰もいないけれど、それでも言いたい。
「*****」
――そこで、あたしの意識は途切れた。
――――☆―――――★―――――☆――――
「どうしたの? アンナ」
「今、声が――。ありがとうって………」