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日常(前編)

作者: 吉柳葵緒

犯人当てのつもりで書きましたが矛盾点など多いと思います。

思えばタイミングの悪い人生を送って来た。

たった十数年の人生で太宰張りの台詞を吐くなと言われそうだけど、事実なのだから許してもらいたい。

幼稚園では好きだった女の子が友達に告白している現場に出くわし、小学校ではリレーの選手に選ばれた次の日に足を骨折し、中学一年の春には先輩カップルの修羅場に巻き込まれた。先週の金曜日には部室の抜き打ち検査に引っ掛かり、授業をサボって昼寝していたことなどなどによって反省文を課せられるはめになった。今朝にいたっては済ませたと思っていた課題プリントが白紙のままでかばんの中から発見されたのだから、僕の人生はとにかくタイミングが悪いとしか表現しようがない。

人生の幸・不幸は同じくらいだというけれど、そろそろいいことがないとやってられないというのが正直な感想だ。

◆◆◆

問十三、次のことわざのカタカナを漢字に直し、意味を答えなさい。

『カフクはあざなえる縄の如し』


何度見ても意味がわからない。これは本当に日本語なのか。

エセ理系を自称する僕は胸の中で何度目かのため息をつく。そして紙面から離陸してずいぶん経つシャーペンを指先でくるくると回転させながら、やる気のない視線を中途半端に埋められたプリントのはるか上空にさまよわせてあくびをする。そのまま音を飲みこんで口をもぐもぐさせながら、眼球の動きだけで辺りを見回す。

黒板の上の時計は着席のチャイムが鳴るまであと十五分以上あることを示しているが、教室内の席はほとんど埋まり、座っている面々も皆一様に背中を丸めて机にかじりついている。聞こえてくる音といえば、黒鉛を紙に刻む筆跡の流れ、ページをめくる摩擦音、電子辞書のキーボードを弾く響き、その中にたまに遠慮がちに混じるひとことずつの会話だけ。廊下を通り過ぎる姿はあっても、極限まで抑えられた足音はほとんど響かない。この教室内だけではない。少なくともこの階にある教室全てが、今にも誰か叫びだしそうな焦燥感と緊張感を孕み、崩壊寸前の静寂を保っている。

こう表現するとまるでこれから何かひどく絶望的な事態が待ち受けているかのようだが、それは間違っていないのだと思う。

月曜日の朝ほど精神衛生上よろしくないものはないのだから。

月曜日。それは自由気ままな土日の次に来る、一週間で一番憂鬱な日。カレンダー上は一週間の始まりじゃないくせに全てが再開する鬱屈とした日だ。社会人は蓄積した仕事を思いながら暗い顔で出勤し、学生は終わっていない課題と迫りくる小テストに怯えながら登校する。とにかくすることが山積みのこの時代、月曜日が楽しいだなんて言ってられるのはせいぜい幼稚園児までだろう。

現に僕らはこうして、金曜に出されたきり放置していた課題処理、一時間目に行われる小テスト対策、あるいは放課後の直行する塾の宿題と、内容は違えど誰もが勉強に追い立てられている。一つ終わればまた一つという自転車操業状態では、持て余す暇もぐだぐだ潰せる時間もない。先週一学期末テストが終わり、あとは夏休みを待つだけとはいえ忙しいことには変わりない。進学校の中学生というのはとにかく忙しいのだ。

と言うとなんだかシリアスに響くが、ようは皆自業自得だ。僕も含めて。それでもいいなら誰か同情してくれ。

当然だが、この事態が僕らの不徳の致すところならこの時間を優雅に過ごしている人間もいる可能性はあるし、実際いないわけではない。例えばこのクラスでは僕のすぐ前の席に座っている藤宮儚がそうだ。

あてどなく動かしていた視線を真っ直ぐに戻す。目の前には真ん中できっちり分けて編まれた藤宮の黒髪が窓からの日射しに艶々と輝き、腰の辺りまで縄状に下がっている。僕と同じくらいの高さの肩越しに覗き込むまでもなく、たまに聞こえるページをめくる音とほとんど動かない両腕は藤宮がいつものように勉強ではなく読書に興じていることを示している。一見すると優等生の知的な朝にしか見えないが、藤宮の嗜好はPTA推薦図書や文科省指定教科書と真っ向から対立するものであるため今日もまたえげつない内容の本を読んでいるのだろう。


藤宮だったら、こんな問題、簡単に解けるんだろうな。


読書しているから、ということばかりではないだろうが、藤宮儚はとにかく文系教科に強い。暗記の社会はもちろんのこと、英語のテストではハーフや帰国子女ばかりの上位五人に唯一の一般生徒として常に食い込んでいる。一番得意だという国語に至っては入学してから首位は当然、全国模試でも三位以下になったことがない。一般的には理数系が得意な人間の方が讃えられる傾向にあるが、藤宮が持つ言語センス、つまり問題の意味を読みとる才能は数学の難問を解けるよりも稀有だと言える。儚、なんておおよそ人名とも思えない字をつけられていることも少しは関係しているのかもしれない。

僕のような凡人からすれば、一周回って頭がおかしいとしか考えられないのだが。実際藤宮儚は電波的というか常人よりも七十五度ほどずれた世界に生きている。


唐突にそう思い立った僕は更に二秒ほど熟考して、シャーペンを回す手を止め、そのまま手にしたそれを藤宮の背中に軽く突き立てた。突き刺しはしない。夏服のシャツ越しに、そっとその背中をつつく。

即座に藤宮が上半身をひねって振り返る。髪を引っ張るなという約束は守ったため、その表情はめんどくさそうではあっても不機嫌ではなかった。

なに?

ほとんど口の動きだけで藤宮が尋ねる。僕はペン先でプリントの空欄を示した。そしてぺこりと頭を下げる。

藤宮はそれを見下ろすや否や僕からシャーペンを奪い取りプリントの余白にさらさらと答えを書きこむ。このやりとりも慣れたものだ。「禍福」に続いて「不運と幸運は交互に発生すること」と綺麗だが力強い字がたちまち出現した。そして、これでいい?と藤宮は視線で尋ね僕の返答も待たずにまた前を向こうとする。僕は慌ててその腕を軽く叩いた。そして余白に書く。「暇」と。退屈だから雑談に付き合ってくれという意味だった。藤宮はそれを一瞥して、だるそうに目を細める。今にもその唇がなんらかの答えを返そうと薄く開いた。

その時、前方のドアから人影が滑り込んできた。

◆◆◆

「ヤバい!」

張り詰めていた静寂を破壊したのは、追い詰められた誰かの叫びでも着席のチャイムでもなく、飛び込んできた学習委員の久保の一声だった。素っ頓狂な叫びに、ばらばらと下がっていた頭が上がっていく。久保は片手に持ったプリントの束を半身全体で激しく振りながら教壇を上り、教卓にドンと手をついた。

「ヤバいよ、これは」

戸惑っているようで、怒っているようで、ほんの少し笑っているようにも見える顔で久保は繰り返す。

「なにがヤバいって?」

最前列の女子が眠そうな声で問い返す。どうせたいしたことじゃないんだろう、という響きがその声には多分にこもっていた。実際、「のびた」の通称で通っている久保の「ヤバい」は大したことがない。せいぜい今日は抜き打ち小テストがあるらしいとかその程度だ。しかし久保はそんな揶揄にも負けず、「ヤバいんだよ、マジで」と冷静に言った。その真面目な口調に、だるそうな顔をしていた他のクラスメイトたちも興味深げな顔をする。その光景を久保は教壇の上から神託を下す神官のような目をして見下ろす。「つかみは上々」とでも考えているのか。そして、クラス中がもれなく自分に注目していることを確認した久保は、ひとことひとことを区切るように重々しく言った。

「どうやら、理科の、テスト答案が、なくなった、らしい」

三十秒ほど沈黙が流れた。「は?」と誰かがつぶやく。

「期末テストの答案用紙が、盗まれた、んだと」

「嘘だろ……」

「嘘じゃねーよ。今、会議室で話し合いしてる。オレさっきC組の奴と一緒に廊下で聞いたし」

そこから先はまさに阿鼻叫喚の騒ぎだった。「っしゃ!」とガッツポーズをする奴、頭を抱え込む奴、自分の聞き間違いでないことを前後左右斜めに確認する奴、「ええー」と意味のない声を上げる奴、ぽかんと固まる奴、と多種多様な反応で静かだった教室内はざわめきに満たされた。

「皆落ち着け。知ってる限りで説明する」

ひとしきり騒がせた後、久保は鋭く手を打ち鳴らして再び自分に注目を集めた。すかさず前方の席で手が挙がる。

「どこのクラスのがなくなったわけ?」

「うちの学年全クラスだそうだ」

 「なくなったって、うっかり紛失したってこと?それとも盗難?」

 「たぶんだけど…盗難らしいな。オレも直接確認したわけじゃないけど、金曜にはなくなってたって」

 少し言い淀んだ久保の答えに教室がまたざわめく。それを強引に遮ってまた別方向から声が飛ぶ。

 「再テストになんの?」

 一番の関心事に、一気に空気が静まる。

 「なんじゃねーかね?採点まだ終わってなかったみたいだし。これ以上は今日これから臨時の学年集会あるからそこで説明あるはず」

 「まあ、だろうな」

 質問者がうなずく。予想通りの回答とはいえ、ひとまずは状況を把握したことでほっと空気が緩んだ。ぎゃあぎゃあ騒いださっきまでとはずいぶんとテンションに差があるが、中学生は忙しいし飽きっぽいのだ。

 「ん。じゃあ、他に質問ない?ならプリント配るから」

 ひとまずそれで騒ぎは終了した。朝からの思わぬ騒ぎに皆集中の糸が切れてしまい、それからは軽くざわめきながら始業までの時間を潰していた。

 「あ、九条。九条柊君」

 不意に、せっせとプリントをさばいていた久保が僕を呼んだ。

 「はあい」

 僕は片手を軽く横に突き出して返事をする。

 「何だよ。てかフルネームやめて」

 「おまえ、容疑者候補らしいぞ」

 プリントの名前をチェックしながら、久保は「課題出してないぞ」と変わらない口調で爆弾発言をした。

 ◆◆◆

 「いつかなんかやらかすとは思ってた」

 「これで柊も前科一犯かあ」

 「九条君とも短い付き合いでしたなあ」

 「輝かしい未来が待ってる俺らには、柊は遠い存在になってしまったんだよ」

 「魔除けとして柊君は犠牲になったのです」

 「そういえば、カンニングで警察沙汰になった事件あったよね。あれ、国立大じゃなかったっけ」

 「そうそう。業務妨害だっけ?だったらテスト盗んだらどうなるんだろうな。うちも一応国立中だし」

 「少なくとも今回の件でマッティーは左遷だよね。可哀想。せっかく国家公務員に進化できたって喜んでたのに、また薄給の考古学研究者に逆戻りか」

 「君ら、他人事だと思って面白がるなよ」

 「「おもしれえもん」」

 綺麗に重なったソプラノとバスに僕は口元を引きつらせる。

 放課後、学校近くの公園で東屋の下に集まった僕たちは今日発覚した事件について意見交換会という名の雑談をしていた。

 「九条君、そんなしかめっつらしてると表情筋が筋肉痛になるよ」

 コンビニで買ったプリンをすくいながら水城百合が赤ぶち眼鏡の奥でふふふと笑えば、

 「そうそう。柊は何か考えてるようで何も考えてない顔が一番似合うんだから」

 と、同じくコンビニ由来の駄菓子を片手に志摩安吾が薄茶色の前髪を風に揺らしてニヒルな笑みを浮かべる。僕は渋面を崩さずにぱくりと溶けかけのアイスをまるごとくわえこむ。

 「それにしてもさあ、授業中に盗みだすなんていささか短絡的にすぎるだろ」

 木のテーブルを挟んで僕の向かいに座った安吾が、机の上に置いたプリントをぐさぐさと爪でなぞる。朝の臨時学年集会で配られたそれには事件の概要と理科教師からの謝罪が掲載されている。父兄への説明は後日行われるとして、とりあえず生徒への対応はこれで十分ということらしい。「お客さん」の私立ならともかく、ちょっと入るのがめんどくさいだけの公立中では生徒の扱いなんてこんなもんだ。

 「授業中なら普通は鉄壁のアリバイあるし、その時間に姿が見えなかった奴を疑うのは当然。九条君、どうせサボるなら保健室に居座っとけばよかったのに。あんたが部室で昼寝してたせいで、他の三人も部室の合鍵没収されちゃったんですけど?あんたのタイミングの悪さに私らを巻きこむのはやめてよね」

 そう言いながらざくりと黄色い塊にスプーンを突き立てる水城の目は笑っていない。表情は笑顔だが、もともとの目つきがあまりよくないためものすごく怖い。

 「申し訳ないでございます」

 深々と頭を下げる僕の頭上で、安吾がため息を吐く。

 「おまえらそのやりとりもう何度目だよ。本当なら無期限部室使用停止のところを藤宮のおかげで二週間の謹慎で終わったんだ。過ぎたことはいいんだよ。で、今回の騒ぎが片付いたらそれが短縮されるかもしんないってんで犯人探しすることになったんじゃないか。もっと建設的な議論をしようぜ」

 今日一日で集めた断片的な情報を元に『建設的な議論』をメモしているはずの手もとのルーズリーフに、文字よりも意味不明な落書きの方が多く見受けられるのは気のせいだろうか。僕と同じように安吾の手元を覗いて水城は鼻で笑う。

 「その建設的な議論の結果、建設には資材が足りなすぎるっていう事実に行き着いたんじゃん。だからこうして儚の到着を待ちつつ各々のネットワークで情報収集してんでしょ。あんたらの携帯、さっきから全然鳴ってないじゃん」

 そう言う間にもテーブルの上の携帯が着信を告げて震える。

 「お。誰かな。…あ、久々にアタリ。志摩君、容疑者リストに一人追加。D組の来生さん、遅刻してきてたけどその時間の体育は出てないって」

 メールの文面を確認して即座に返信を打ち始めながら水城が指示し、安吾がルーズリーフにその名前を書き加える。なんだかんだいって、ここに載っている公式発表以外の情報は水城が一人で集めたものだ。「アタリ」、と言ったが、当然「ハズレ」はその倍以上あるわけで、そんなメールや電話にもいちいちきちんと対応しているコミュニケーション能力の高さには頭が下がる。おばちゃんは何でも知っていると言うが、その予備軍の女子たちはこうして能力を磨いていくのかもしれない。

 「来生、っと。これで七人か。たぶんこれ以上は増えないな。しかし意外に多いな。一クラス最低一人は容疑者がいるじゃねーか」

 「しかも揃いも揃って動機がありそうな面子だな。僕以外」

 「ああ。おまえも含めてな」

 「………………えーっと、A組は僕、B組が新里と甲斐、C組の日吉と梶原と橘に、D組来生か。C組多いな。っていうか、これほとんど学年上位陣の優等生だろ。こいつらサボってるくせに成績いいって理不尽だな。だけどいかにも怪しい。動機はできのよくないテストを採点されたくなかった。これで決まりだ」

 「柊、その動機って自分にも言えるってわかってんのか?どう考えたっておまえだけ浮いてるし、消去法で疑われるもやむなしだろ」

 「失敬な。この僕がそんなせせこましいことするわけないだろ。先月の実力テスト、何位だったと思ってんだ。いまさら失うような名誉やプライドなんてないね。テスト結果に関して恐れるものがあるならば、担任からの呼び出しと三者面談くらいなものだ」

 「自分は頭が悪い、って公言してて切なくなんねーの、おまえ」

 教室のすみにたまったほこり以下のプライドを掲げて胸を張る僕をまじまじと見て、安吾は呆れた声で言う。

 「切ない。むしろだんだんテンション下がってきた。だがそれを認めるわけにはいかない」

 「……おまえさあ、頭悪いっていうよりも馬鹿だよな。見た感じは真面目くんなのに」

 「うるさい文学系チャラ男め。完全な名前負けじゃないか。」

 「名字が二つあるみたいな奴に言われたくねーよ。真面目系クズが」

 真面目系クズ。思ったよりも心に来る言葉だ。僕らは友達だと思っていたがその関係性も今日この時を限りに見直す必要がありそうだ。

僕は両手を立てて降参のジェスチャーをとった。

 「わーかったよ。僕は怪しい。それは否めない。でも僕は犯人じゃない。だからこの中に真犯人がいる」

 「だったら真犯人の有罪を証明するために証拠を集める努力をしなさいよ。悪魔の証明なんてどうせできないんだから。それが無理なら頭使って推理の一つでも提示しなさい」

 返信を終えた水城がスプーンを口に運びながら、僕たちのやりとりに水どころか氷をさすような声で冷ややかに言った。

 「はい…」

 「すみません…」

 僕と安吾はややしょぼんとしながら鳴らない携帯を確認し、ルーズリーフにまとめられた事実をながめる。


 犯行現場:北校舎三階理科準備室


 犯行日時:金曜日の三時間目(十時四十分~十一時半)

 容疑者(事件時の居場所):九条柊(部室)、新里兵助(保健室)、甲斐桂一(南校舎裏)、日吉彩歌(保健室)、梶原紫子(相談室)、橘侑司(授業終了間際に遅刻登校)、来生葵(D組教室)


 事件当時の時間割:A組数学、B組英語、C組理科、D組体育


 動機:悪い成績を採点されないための証拠隠滅?

 

 「あー、この時間うちのクラス英語かー。そういえばそんなこともあったなー」

 「君らんとこが真田先生キレさせたせいで、次の僕たちが八つ当たり受けたんだよな。久保が理不尽に当たられてたし」

 「久保なー。あいつも気の毒にな。がり勉のびたみたいだしな。あの時間の真田のキレ具合は半端なかった。久々に廊下に立たされた奴出た。まあ俺は次の理科の課題が終わってなくて必死だったわけだが」

 考え事をする時のくせで顔半分を手で覆って頬杖をつきながら安吾はぶつぶつ言う。

 「単純に考えれば怪しいのは甲斐、橘、来生だな。でも保健室は先生が席を外すことが多いし、その隣の相談室なんかただの空き部屋だろ。どっちも東校舎三階だから現場まで渡り廊下一本で行き帰できる。準備室は施錠してなかったし、答案の入った封筒はひとつが机の上に、他も近くの棚に積まれてたらしいからそんなに手間取ることもなかっただろう。他の場所にしたってこれだけ時間がありゃ十分だしな。つまり全員に可能性があったってことになる」

 そこで安吾は確認するように僕を見た。僕は理解したという意味をこめてうなずいたが、メモを見ているうちに思いついた疑問を口にする。

 「だけど、新里と日吉は同じ保健室にいたんだろ?どっちかが出入りしたら気づくんじゃないのか?」

 「ところがそうともいえなかったりする」

 僕の疑問に横から答えたのは水城だった。

 「日吉さん、最初からじゃなくて授業の途中に抜けて保健室に行ったんだって。対する新里君は二時間目から具合が悪くてずっとベッドで熟睡してたらしい。そしてあの日、三時間目に保健室に一分でもいたのは日吉さんと新里君だけ。日吉さんもうとうとしてて隣に人がいたかは覚えてないって。先生は授業開始直後と十一時過ぎに一度戻って二人がいることを確認してるけど、それ以外は一階の事務室で作業してた。つまり二人のどちらにも確実なアリバイはない」

 タタンと携帯を指で叩くと水城は「女子は人間観察と行動分析が好きだからね。気をつけな」と言った。何に気をつけろというのだろう。品行方正な僕には想像もつかないが、たぶん恨みを買ってあらぬ噂を流されないようにしろというぐらいの意味だろう。

 「相談室の梶原も、廊下に出るには保健室の前を通らなきゃならないが、壁にもドアにも窓はないから足音にさえ注意すれば気づかれることはない。三階の他の部屋は全部物置きだしな。遅刻してきた橘だって本当はもっと早く登校していて隠れていただけってこともありうる。来生も同じだ。一番距離のある甲斐も問題は時間だけだからな。一応甲斐は十一時十分ごろに音楽の古木先生にサボりを見つかって注意されてる。少なくともその時間にそこにいたことは間違いないが、他はどうだがわからない」

 そう言うと安吾はあと少しになった駄菓子を一気に頬張った。僕はとっくに棒だけになったかつてアイスだったものを小刻みに振りながら考える時のくせで頬に指を立てる。

 「ん、まあ、結論としてはそうなるよな。だけどさ、これってそもそも計画的犯行なのか?」

 「え、なに。九条君は突発的犯行だと思うの?」

 少し驚いたような水城の視線を真っ直ぐ受け止めて、僕は言葉を選びながら自分の中の違和感を口にする。

 「いや…うん。確実にそうだってわけじゃないけどさ、計画してやったにしてはなんかちぐはぐなんだよな。答案を全クラス分持ち去る発想はあるのに、どうして自分に容疑がかかるような時間帯を選んだのか。他にもさ、盗んだ封筒をどうやって持ち運んだのかとか気になるんだ。一枚一枚はペラペラの答案でも二百枚近くになるとかなりの量だろ?盗んだ後はかばんに隠して持ち帰るとしても、授業中の廊下を手提げ持ちで歩いてるなんて明らかに変だし、誰かに見られたらどうするんだ?…よく考えればちゃんと説明できることばかりなのかもしれないけどさ、なんか変だよ」

 僕の疑問に水城と安吾は眉間にしわを寄せて考え込んだ。

 「たしかに、この面子がやらかしたにしては妙なんだよな。頭が悪いっていうか、やっつけ仕事な感じがする」

 「でもさ、だったらこの中に真犯人はいないかもしれないってこと?」

 「うーん」

 「いや。犯人はこの中にいる」

 突然加わった第四の声に、僕たちは横を見た。

 「おまたせ」

 最後の参加者、藤宮儚は無表情というわけでもないが愛想がいいわけでもない、「普通」の顔でひらひら指を振った。

 「あ、儚おつかれちゃん」

 「んー。百合ちゃんも御苦労さま。九条、もうちょい詰めて」

 「うぃす。お疲れさんです」

 現在この中では最低身分に位置している僕は、ぐい、と突き出された藤宮のかばんに追い立てられてベンチの真ん中から端ぎりぎりへと移動した。僕がいなくなった場所に重そうなかばんとサブバックを境界線のように下ろして藤宮は音もなく腰を下ろす。

 「かばん重そうだね」

 「今日この後塾だから。新しいテキストがやたら厚くってさ。しかもそれが三冊」

 藤宮はいかにも疲れたという様子で肩を回す。

 「あれ。SSSクラス授業あるの?私らはないのに」

 「授業っていうか、来週の全国模試の勉強会。本当は自由参加なんだけど、シャーリーがこの間あたしに負けたこと根に持ってぎゃあぎゃあやかましいから、ついでに宿題やっちゃおうかなと思って。プラス、梨夏子ちゃんに借りてた漫画を学校で返し忘れた」

 「へえ。最高クラスは大変だねえ」

 「まったくだよ。なんで塾に行ってまで見知った顔に囲まれなきゃならんのか。男女比六対一だし。百合ちゃん、次のクラス替えテストでうち入ってよ」

 「絶対無理。私の数学のできなさはご存じでしょうに」

 「あたしだって理系教科ダメだよ」

 「そういう発言はテストで七十点以下取ってからにしてよねー。ねー?九条君、志摩君?」

 「なんで俺らに言うんだよ。なあ、柊」

 「黙秘権を主張します」

 はしっこで縮こまったまま、僕はふるふると首を動かす。


僕らの学校では、ほんの一部を除いてほぼ全員が塾や家庭教師、あるいはその両方を利用している。学校で出される課題をこなし、放課後は自主学習に励み、平日はただひたすらに問題を解き続ける。移動時間のことなどを考えると学校から直行できる距離の塾に人が集中するのは当然で、年によって増減はあれど同じ学年ならだいたい皆同じ塾に通うことになる。学校の近くにいくつかあるうち一番人気なのが駅前の一校で、クラスは違えど藤宮、水城、安吾、そして一応僕もそこには籍を置いている。

その塾ではクラスが実力順に上からSSS、SS1、SS2、S、Aと分けられている。といってもそれは確定ではなく、毎月末に行われる塾内テストの結果によってランクアップすることもあればクラスを落されることもある。基本的には、SSSのメンバーは固定でうちの学校の生徒しかおらず、SS1とSS2なら七人に一人の確率くらい、Sで四人に一人、Aなら過半数が他の学校の生徒という構成になっている。Sの意味はわからないが、校内ではAクラスのAは「AHO」のAだという認識が一般化している。

ちなみに、藤宮は中学一年の春からずっとSSSクラスで、水城も安定したSS1クラス、安吾は春にクラス落ちしてAクラスになり、僕は入塾してからずっとAクラスだ。


 地方とはいえ曲がりなりにもある程度の「お受験」を突破しなければ入学できない以上、うちの中学の生徒は基本的に勉強熱心だ。更にろくな私立もないため、県内で一定のラインを越えそれなりに向上心のある奴はだいたいうちの中学を受験し通っている。そしてそういう奴らはとにかく自分の地位を守ることに固執し、競争意識を後生大事に抱え込むことになる。必然的に学年全体の偏差値は入学時から下がるどころかどんどん吊り上がり、毎年卒業式後には職員室前にそっけなく掲示されている有名高校への合格者を増産している。

 無理もないのだ。生まれ持った才能や資質が大部分を占めるスポーツや芸術とは違い、勉強は一定のラインまでなら努力しただけの結果が返って来る。それにきわめて簡単に他人に自分の存在を示すことができる。他になにもない大半の人間にとって、それはとても魅力的なことだ。特に、狭いピラミッドの上位に居続ける人間ほど落ちることを恐れる。自分が誰かを引きずり下ろした自覚があるからこそ、落ちた時にどうなるかを想像して怖いのだ。

僕にもそんなころがあった。もっともその妄想は、入学早々の実力テストの順位と、藤宮という「本物」に遭遇したことで原子レベルに砕け散ったのだが。


「ところでさあ、儚、さっきの言葉どういう意味?なんかわかったの?」

「んー」

学校からの通り道にある洋菓子店名物のアップルパイを頬張りながら、藤宮は小首をかしげる。それは「ちょっと待て」という藤宮なりの合図だ。どうやら今のは単純にイエスかノーかで答えられない質問だったらしい。

あくまでマイペースにけれど待たせることなく一切れサイズのパイを胃におさめ、ゴミまで片付け終わると、藤宮はかばんを手元に引き寄せながら何げなく言った。

「ていうか、犯人と話してきたとこだし」

「は」

「え」

「マジで!?」

「マジっすよ」

あまりの急展開に呆然とする僕たちを尻目に、がさごそかばんを探りながら藤宮は淡々と言う。

「答案用紙は家にあるって。だけど自分の答案だけはもうシュレッダーにかけちゃったから返そうにも返せないらしい。結論から言うと、再テストだね。今回はあんまり出来がよくなかったからあたしとしては大歓迎だけど」

かばんから取り出したクリアファイルをテーブルに投げ出して、藤宮は僕たちを見回した。

「で、いきなり答えを聞きたい?それとも考える時間がほしい?」

「……それって、考えたら出る答えなのか?俺らは藤宮みたいに頭良くはないんだぞ」

たしかに。

小さく手を上げて質問した安吾に、僕と水城は視線で同意する。ガリ勉どもの努力を涼しい顔で飛び越えて偏差値ピラミッドの頂点に君臨する人間と、凡人では頭の働かせ方からして違うのだ。

しかし藤宮は当然と言わんばかりにうなずいてみせる。

「そのルーズリーフ見たかぎり、容疑者と事件当時の居場所はしぼりこめてるみたいだね。だったらそれに付随する諸事情もわかってるでしょ。証明に必要な事実はもう揃ってるよ。あたしが知ってて君らが知らない新事実はない。これはね、数学的思考っていうより文章読解みたいなものだよ。答えははじめから書いてある。あとはそれに合った読み方を探すだけ」

「読み方?」

水城が戸惑った声を上げて対角線上の僕を見る。まるで通訳しろとでも言うような目だが、平々凡々とした人間である僕に天上人の言葉が理解できるはずなどない。

「そう。読み方にもいろいろある。上から下に読むのがいつも正しいとは限らないよ。どんなにめちゃくちゃに見えることだって当事者からすればちゃんと筋が通っているように、ちゃんとしているように見えるものの中にだって思いもよらない解答があるんだよ。簡単なはずの問題でも『こういうことだろう』って推測しながら答えを探したら、足元にある正解を踏み壊しちゃうって」

「…つまり…先入観を捨てろってこと?」

「いえす」

おそるおそる尋ねた僕の目を真正面から見すえて藤宮はパチリと手を叩く。

「これは、僕らが考えているような事件じゃない、と」

「ざっつらいと」

またパチリと一度。そして藤宮は「で?」と僕たちにさっきの質問の回答をうながした。

「そう言われたら考えたくなるじゃねーか…。ああそうだ。考えるよ。考えて正解にたどりついてやるよ!」

「私も解けるんなら自力で解いてみたい、かな」

安吾と水城の返事を横目に心なしか満足そうな顔で受け入れた藤宮が、一人沈黙している僕に「で?」と繰り返す。本音を言えば、犯人が誰でも自分でないことさえ証明されれば僕はそれでよかったのだが、性格の基盤になってしまっている小市民気質が空気を読まない発言をせきとめている。

「部室が使えるようになっても、合鍵は返ってこないよね」

「……………」

「しばらくは監視も厳しいだろうし、困ったなあ。息抜きにサボる場所がまた一つ減ったわけだ。空き教室はエアコンつけられないし、部室の扇風機は貴重だったんだけど」

黙りこくって目をそらす僕の顔を斜め下から覗きこんで、「ねえ?」と藤宮は人形のようにぱっちりとした目を無表情に見開き首をかしげる。たったそれだけだというのに、水城に睨まれるよりも数段怖い。藤宮の性格からして怒っているわけではないだろうが、その声には有無を言わせぬ威圧感があった。

「……僕も…考えます」

「がんばれ」

伏し目がちに答えた僕に、藤宮は今日はじめてニコリと笑った。

◆◆◆

とりあえず現時点でわかっていることと疑問点を整理しようということで、箇条書きを連ねた新しいルーズリーフを囲み、僕ら三人はかたい頭でなんとか突破口を見つけようとする。


事実

・容疑者(居場所)は、九条(北校舎横部室棟)、新里(東校舎三階保健室)、甲斐(南校舎裏)、日吉(東校舎三階保健室)、梶原(東校舎三階相談室)、橘(授業終了間際に理科室に遅刻してきた)、来生(西校舎一階D組教室)


・犯行時刻は十時四十分~十一時半?(二時間目の休み時間にはあったが、三時間目の休み時間にはなくなっていた)


 ・現場は北校舎三階の東端(東西南北の校舎は渡り廊下で十字につながっており、行き帰は簡単。ただし東校舎と西校舎の階段はそれぞれ西と東に一か所ずつしかなく、東校舎は二階までしか上がれない)


 ・事件当時の時間割は、A組が数学、B組が英語、C組が理科、D組が体育(前の時間は、A組が体育、B組が数学、C組が英語、D組が理科)


・北校舎が専門棟、南校舎と西校舎が教室棟で、東校舎は事務棟


・東校舎三階から北校舎三階は最短一分、西校舎一階なら三分、南校舎一階からだと五分。


・日吉は理科の授業を抜け出して保健室に行っている(準備室はその道なりにある。ただし行きは手ぶらで封筒を隠せるようなものは持っていない)


・新里も日吉も十一時すぎには保健室にいたことが確認されている


・梶原が相談室にいたという証拠はない(九条、来生も同様)


・甲斐は十一時十分~二十分ごろまで古木先生といっしょにいた


・橘は十一時二十五分にかばんを持って教室に入って来た


・部室の抜き打ち検査は十一時二十分ごろ


・教室の窓は曇りガラスで、事件当時は冷房が入っていたためどこも閉め切っていた


・目撃されているメンバーは皆手ぶら


疑問

・犯人はどうやって大量の答案を見とがめられずに運べたのか?


・犯人があえて自分が疑われるであろう時間帯を選んだのはなぜか(放課後などチャンスはいくらでもあったはず。計画的にしてはずさんで、突発的にしては手際がいい)


・犯人はなぜ答案を盗んだのか(普通は思いつかないような理由?)

「なんつーかさー、こうして書くとやっぱり全員怪しく見える。ぱっと見、こいつではないな、っていう考えが浮かんでこない」

頬をぐにぐにもみしだきながら安吾が険しい顔でつぶやく。

「そうでもない。僕は僕が犯人じゃないことを知ってる。だからまずは僕の名前を消すことからはじめよう」

「そこに論理的な根拠はあるのかい?」

「僕と神のみぞ知る」

「却下」

「九条君は後回しでいい。それよりあんたら真面目にあと六人を考えなさいよ」

やたらと前髪をかきまわしながら水城がレンズ越しに僕たちを睨んだ。その手元には別のルーズリーフがあり、なにやら思考を整理するためのメモが書き散らされている。

「わりと本気で怖いからその目はやめてくれ。てか水城はなんか思いつかないのか?それ」

反駁の響きまじりに安吾がルーズリーフを指差す。水城もだいぶ悩んでいるようだからまだ何も進んでいないのだろう、浅はかな僕はぼんやりとそう思った。

「思いついたよ。最終回答は出てないけど、今のところ容疑者が三人消えた」

しかし、水城はあっさりとその問いかけにうなずいた。

「え。うそ…はやくね?」

思わず間抜けな声が出る。尋ねた安吾も虚をつかれたように口を薄く開いている。

「甲斐君と来生さん、あと梶原さんは除外できるんだよね?」

アホどもにはかまってられないという表情で、水城は藤宮に確認する。「ん」と藤宮は微笑んだ。それを見届け、水城はまだぽかんとしている僕たちに説明するべく事実が書かれている方のルーズリーフをシャーペンで叩いた。

「いい?まず甲斐君。彼はこの前提の範囲からすると真っ先に消える。なぜなら、彼は答案を盗んでも隠すことができなかったから」

僕と安吾はその言葉の意味を数秒考えて、二人ともほぼ同時に「あ」と声を漏らした。

「教室に入れなかったんだな」

横目で見た藤宮がうなずく代わりにパチと手を鳴らす。

「そう。その時間帯、B組は授業で教室を使っていた。仮に甲斐君が答案の入った封筒を持ちだせても、彼は教室に戻ってそれを自分の荷物に隠すことができなかった。分厚い封筒が四つもあればそれなりにかさばって目立つ。他の場所に隠すにしても誰かに見つかりやすくもなる。それに、十一時十分の時点でたぶん彼は手ぶらだったんでしょ。ここには犯行推定時刻を十時四十分から十一時半って書いてあるけど、考えてみなさいよ。あんたらだったら、先生が教室の外に出る可能性の高い最初の十分くらいは最低でも待つでしょ?その時間が一番サボりが見つかりやすいタイミングだもん」

そこで水城は一息ついた。

「たしかにそうだ。実際には動ける時間はもっと限定されてくる」

過去のあまり誇ることもできない経験を思い返して僕はふむふむとあごに手を当てる。

「ってことは、実際は早くても十時五十分からだよな。それに、授業の前半は小テストやら課題の答え合わせやらで先生が教室内をうろうろしてるから、廊下にいるところを窓から見られる可能性もある。だったら確実にいけそうな十一時以降って見た方がいいな。すると」

「甲斐には無理だな。時間がない」

安吾の言葉に続けて、ひとり言のように僕は言った。

「そう。甲斐君がいたのは南校舎一階。そこから理科準備室のある北校舎三階までは全力疾走したとしても五分はかかる。経験あるからわかるでしょ?」

僕らは無言でうなずく。南校舎にクラスがあった一年のころは、移動教室のたびに荷物を抱えて廊下を疾走していた。事前に移動の準備を整えて、他に何もせず、授業終了とほぼ同時に教室を飛び出して走ってもそれだけかかるほど南校舎と北校舎は遠い。

「騒がしい休み時間ならともかく、静かな授業中の廊下を全力疾走したらまずいのは当たり前。でもゆっくり歩いたとしたら片道で十分弱はかかってしまう。往復するだけで二十分。仮に彼が足音をほとんど立てず、誰にも見つからずに廊下を走って往復したとしても、やっぱり移動に十分はかかる。実際にはこんなことシュミレーションもしにくいだろうから、ぶっつけ本番でやったとしてそんなにさくさく動けるかどうか。準備室に行って答案を盗んでくるだけであっという間に十一時十分になる。彼には十一時十分から二十分のアリバイがあるから、当然答案は隠せない。その時まだ持っていたという可能性もなくはないけど、それはたぶんない。同じことが十一時二十分から十一時半までの十分にも言える。よって、甲斐君に犯行は不可能」

ほとんど息つぎもせず一気に言い終えると、水城は、ふう、と呼吸をした。

「すげー、水城あたまいー」

「さすが生徒会書記。数学七十二点」

「どこが。むしろこんなあたりまえのことに気づかなかった時点でダメでしょ。あと私の数学の点数は関係ないでしょ。次言ったら歩くたびに靴のかかと踏んでやるから」

はやしたてる僕らに悔しそうに水城は言う。負けず嫌いというか、向上心が強い奴なのだ。

たしかに理解してみればなぜこんな簡単なことがわからなかったか、とも思えてくる。だがどんな難問でもやり方を知っていてヒントさえもらえば誰だって解けるのだ。本当に頭がいいというのはそれを全部自力でこなすことだ。ちらりと視線を向けると、藤宮は素知らぬ顔で読書をはじめている。

「次。来生さんと梶原さんはもっと簡単」

「あ、これは俺もすぐ理解できた。次は俺説明したい」

授業中の小学校低学年のように安吾が勢いよく手を上げる。僕と水城が注目すると、安吾は長めの前髪をわざわざ真面目ぶった七三分けにしてから話し始めた。

「まず来生。来生はD組だよな?そして俺らの学年の教室が並んでるのは西校舎の一階。教室の並びは四校舎の連結点の中庭に対して奥から順にD,C、B、Aだ。で、そこから北校舎三階に行くには三つのルートがある。一、A組横の階段を三階まで上って渡り廊下を通る。二、中庭を抜けて北校舎一階まで行き、階段を上る。三、屋外に出て西校舎の外を回る。だけど、あの時来生にはこの中のどのルートも使えなかったんだ。まず一。柊、その時間のB組の授業なんだった?」

「英語」

僕はルーズリーフの文字を指す。

「そうだ。で、さっき話してたけど、その時間はうちのクラスの奴が廊下にほとんど開始から終了までずっと立ってたんだ。だけどそいつは何も言っていない。さすがに人が大荷物抱えて通り過ぎたら記憶には残るだろ。つまり、あの時間に廊下を通った奴はいなかったことになる。二は、教室を出て中庭から回ろうにもそこは職員室のすぐ前だ。まず選ばないだろう。横切るにしても地味に広いからな。三は、靴を履いて校舎の外を大周りに行こうにも授業中の教室の前を通ることには変わりない。しかも外側の窓は曇りガラスじゃないからはっきりと姿を見られてしまう。問題外だ。よって、来生が犯人である可能性はまずない」

藤宮の様子をうかがって安吾は続ける。

「次に梶原。これがたぶん一番単純だ。東校舎は構造上階段が二階までしかない。うちの学校の意味不明な構造の一つだが、このせいで相談室から北校舎に行くには三階の渡り廊下を通るか西校舎一階まで下りて校舎を回ることになる。まあ普通前者で行くよな。でも、梶原は移動以前に相談室から出ることができないんだよ。いや、出たらわかってしまうんだ。だって、相談室のドアにはウィンドドラムが下がってるんだから」

僕は来訪者の存在を告げるたび涼やかに遠くまでよく響くウィンドドラムの音を思いだす。相談室に誰かが入ったことを先生が保健室にいながらにして把握するために設置されているそれは、当然、ドアを閉め切っていようが古いエアコンががなりたてていようがよく聞こえるのだ。

「熟睡してたっていう新里はともかく、隣の保健室にいた日吉はそんなに深い眠りに落ちてたわけじゃなかったみたいだよな。経験上わかるんだが、あのウィンドドラムの音は閉め切った保健室で寝ててもよっぽど熟睡してないかぎりうるさいくらいはっきりと聞こえる。だったら、梶原が外に出たなら日吉はその音を聞いてるはずだよな?その時相談室には梶原一人だったんだから。でも日吉は何も知らないらしい。てことは梶原は出なかったんだろう。だから梶原も犯人じゃない。よって、甲斐、来生、梶原は容疑者から消える。QED」

最後のその言葉を言うことだけが目的だったというように安吾は厳かに宣言した。

「はい。ってことであと容疑者は九条君も入れれば四人なんだけど」

水城はあくまで自然に主役を安吾から奪還した。そう言いながら安吾の手にシャーペンを突き刺しにかかっていたように見えたのは、調子に乗っていることへの嫌がらせではなく疲れた僕の精神が見せた幻覚だと思いたい。

「九条君にも犯行は無理。なぜなら盗めはしても隠せなかったから。A組の九条君が答案を隠すなら部室しかない。それもあの部室に物を隠せる場所なんて限られてる。だけど部室はその時間抜き打ち検査に入られてる。検査は十一時二十分くらいだったらしいけど、その前に九条君が答案を盗んで隠したとしても発見されてたはず。だから九条君も容疑者から外れる」

心なしかさっきよりベンチの端に追いやられている安吾がテーブル越しにささやいた。「無罪無罪って叫ぶより理路整然と話された方が説得力あるな」と。「理系は言葉で説明するのが苦手なんだ」と僕はうそぶいた。そのやり取りを聞いてか視界の隅で藤宮が声を立てずに笑う。

「残るはあと三人。こっから先がね」

いったん休憩ということで、安吾はテーブルに突っ伏し、水城は眼鏡を外して拭きはじめた。現時点でほとんど発言していない僕は動きのにぶい頭を叩いて考えをまとめようとする。いくら頭が悪いと認めることにためらいはないと言っても、解くと決めた問題に解答も出さず答え合わせを待つほど僕はあきらめがよくない。ルーズリーフを眺めて目を細めていると、藤宮が近寄って来た。

「なあ、なんかヒントない?四人まではよく考えればわかるけど、あとの三人はどうすればいいんだかさっぱりだ」

「ヒント、ねえ」

頬を両手で挟んでルーズリーフを見下ろしながら藤宮は視線を流して考え込む。

「そもそも藤宮はどういう風に考えたんだ?やっぱり消去法で可能性のない奴を消していったのか?」

「んーん」

ふるふると藤宮は首を振る。

「何て言ったらいいんだろう。さっきあたし、材料は出揃ってるって言ったじゃない?それはそうなんだけど、あたしと皆とではたぶん根本の着眼点からして違うのね。百合ちゃんと志摩君は、用意された条件の中で考えうることだけ考えてるでしょ?だけどあたしはそうじゃなくて…うーん。無理矢理説明すると、そのルーズリーフに書いてないことの可能性に注目したわけ。そしたら一発」

「書いてないことの可能性?」

「そ。そこに書いてあることは正しいし、たぶんそこに書いてあることだけでも正解には行き着く。だけど、そればっかりを見てたらなかなか先には進めない。もっと高い位置から全体を見渡してみる必要があるんだよ。あたしが出せるヒントはそれくらいかな」

「高い位置から、か」

「たぶん、九条君はあたしと思考回路似てると思うよ。だから『こうでしかない』っていう発想からも抜け出しやすいはず。あとねー、九条君、さっきからほとんど推理を披露してないでしょ?」

藤宮は横目で意地悪く笑う。

「頭がよろしくないもので……」

僕はがくりとうなだれる。

基本が同レベルの安吾や水城が相手ならいいが、藤宮のように本当に頭がいい人間に言われると心理的ダメージが大きいのはなぜだろう。事実を再確認させられるからだろうか。

「ああ。別に意地悪で言ったわけじゃないから気にしないで。そういう意味じゃなくて、九条君はその分先入観なく最終面にたどりつきやすいよね、ってこと。ラスボスを倒すのに経験値は重要だけど、それまでのボスの傾向からこういう奴がラスボスだと思ってたら足元すくわれた、ってことあるじゃない?九条君はその危険性が低いから」

「いきなりラスボス倒せるってこと?僕は藤宮みたいな伝説の勇者じゃないよ。せいぜい村人Aだ」

「あたしだって伝説の勇者じゃないよ。あたしは黒魔導士」

「悪役じゃねーか」

「ははは。すべてを見通す力がある者はたいてい悪役だよ」

「自分で言っちゃうか。でも、そんだけ頭いいって憧れるんだけど」

「なんでよ」

「いや…。自分にないものだからじゃないか?」

「ふーん。そういうもんですかねえ」

藤宮は、かっくんと、首が落ちるのではないかというほど大きく傾けて、「でもねー」と薄笑いを浮かべながらつまらなさそうな声で言った。

 「なんでもかんでも考えずにわかっちゃうってね、面白くないんだよ、やっぱり」

 「…………藤宮は、」

 「なーに、話してんの?」

 突然、藤宮の横から水城が顔を出した。いつの間に近づいていたのだろう。ぼんやりしていた僕はビクンと肩を揺らす。

 「え、なに。九条君なんでそんな動揺したの。やましい話?やましい話なのか?九条君の分際で。あんた、私の儚になにをしやがった」

 藤宮の肩を引き寄せながら水城がギロリと僕を睨む。

 「なにも。ちょっと雑談してただけ。百合ちゃん、もう休憩は終わり?」

 「うん。あんま長くなると謎とき自体に飽きちゃいそうで」

 「そう。じゃあ、はじめたら?志摩君、仲間はずれでかわいそうだし」

 自然な手つきで水城の腕を引きはがし、藤宮が示した先には、唇をとがらせてこっちを見ている安吾がいた。

 「柊のバカ!裏切り者!」

 「僕がいつ君を裏切ったって言うんだ」

 「あんた、ぶりっことかもう流行らないから」

 すねる安吾につっこみながら僕と水城は再開のために席に着く。藤宮はと言えばそれっきり黙りこみ、読みかけの文庫本を開いてまた自分の世界に没入した。


「じゃあ、再開しますか。早速だけど、なんか思いついた人は?」

「あ、水城。ちょっと確認したいことあんだけどさ、新里、金曜に早退しなかったっけ?あと、四時間目に先生は保健室に戻ってたかどうかも」

「え?ちょっと待って。えっと………あ、うん。そうだわ。新里君は四時間目はじまってすぐに早退してる。先生は三時間目の休み時間から戻ってた。奈々ちゃんが三時間目終わった後すぐに怪我の手当てで保健室行ったって言ってるもん」

安吾の問いかけに水城は奈々ちゃんとやらからのメールを確認して答えた。

「そっか。やっぱりな。じゃあ、新里は犯人じゃない」

「どういうこと?」

「なんでだ?」

今度は僕と水城が疑問符を浮かべる番だった。安吾は自分自身にも理解させるようにゆっくりと話す。

「いいか、新里はB組だ。甲斐や柊と同じ理屈で答案を教室に隠せない。となるともし新里が犯人なら、盗んだ答案は少なくとも三時間目の間は肌身離さず持ってたはずだ。で、新里が早退したのは四時間目はじまってすぐだ。ってことはクラスの誰かが荷物を準備して保健室まで持って行ったんだ。ちょうどうちのクラスの四時間目は理科だったし、通り道だからな。それはいい。だけどな、だったら、新里はいつ封筒を荷物に紛れこませることができたんだ?」

「あ」

「なるほど」

「もうわかってるだろうけど、早退する奴っていうのは荷物が届いたらベッドを空けるためにソファーに移動させられる。ベッドは数が少ないからな。仮に荷物が届いてすぐにかばんに答案を仕舞おうにも、普通かばんはベッドまで運ばれずにソファーに置いて行かれる。封筒はそれなりに量もある。持っていることを誤魔化せるものじゃない。来室した時には持っていなかった荷物なんかをベッドから下りる時に持っていたら明らかに変だろ。しかも先生まで側にいるんだぜ?つまり、答案を隠せなかったという事実から新里はシロだ」

僕は数学の問題の別解を読んだ時のような気分で息を吐いた。

「そうだよな。盗めても隠せなきゃ意味ないし、移動できなきゃ盗めないんだもんな。前提を見直すことも大事だな」

あれほど藤宮に「視点を変えろ」と言われているのに、どうも僕はそれができていなかったようだ。藤宮は僕と自分を似た思考回路だと言ったが、僕にはとうていそうは思えない。

「とうとう二人にまで絞られたね」

名前のほとんどに線の引かれた容疑者一覧を見ながら水城が感心したように言う。

「犯人はどっちか、か」

安吾が藤宮に確認するように言うが、藤宮は何も言わず、相変わらず悠々と読書を続けている。

二人のうちのどちらかには犯行が不可能なことを証明すればいい。言葉にすれば簡単だが、そんなに簡単に証明できないから二人は残ったのであり、推理会議はそこから進まなくなってしまった。

「あー、わかんねー!」

テーブルにぎしぎしと体重をかけて安吾がだだっ子のようにわめく。その声の大きさに、少し先で遊んでいた小学生たちがおびえたような顔でこっちを見た。

「志摩君うっさい。てゆーか、もう二時間も経ってる。明るいから気づかなかったけどぼちぼち夕方じゃん」

メモだかなんだかわからない書きこみだらけで真っ黒になった何枚目かのルーズリーフを白紙と交換しながら水城がうんざりとした顔で言う。さすがの氷の視線も疲労で威力はだいぶ落ちている。

「二人とも、もう降参?」

読み終わったらしい文庫本をかばんに仕舞いながら、藤宮が微笑む。

「私はもう無理。頭パンクしそう。ってか儚、塾の時間大丈夫?」

「やだ!俺はまだあきらめない!降参は武士の恥だ!」

水城と安吾は同時に答えた。見事に対照的な答えだった。

しかし、安吾は武士だったのか。初耳だ。新撰組なら士道不覚悟でとっくに切腹を命じられている程度の浪人だろうが。

不必要に大きな安吾の声がうるさかったのか、藤宮は少し顔をしかめたが、すぐに微笑を浮かべる。

「時間は別に平気。なんならサボってもいいし。じゃあ、百合ちゃんは降参で、志摩君はまだ頑張るのね。志摩君、なんか思いついた?」

「なんにも!」

「あはは」

そして藤宮は無言でぐるぐると考え込んでいる僕にささやいた。

「間違い探しじゃなくて、正解探しをやるんだよ」、と。


発想の転換。

前提条件を疑う。

共通の疑問点に注目する。

見えないけれど考えられることはある。


僕は目を閉じてその言葉たちの意味を考える。

そう言った藤宮の思考展開を理解しようとする。

間違いではなく、正解を探す、というその意味。

どうすればこの式に正しい答えを導けるのか。

なにか間違いはないか、見落としはないか、勘違いはないか。


そして、本当に唐突に、結論にたどりついた。


それは推理というよりはひらめきと呼ぶに近いものだった。なぜなら僕は思考の結果として犯人を特定したのではなく、犯人を特定した後でその方法を理解したのだから。


「わかった」

そう言った声はとても小さかった。だから僕はもう一度声に出して確認する。

「わかった」

まず最初に藤宮が僕を見た。そして水城、彼女にはたかれて安吾が顔を上げる。三度目に、僕ははっきりと言いきった。

「犯人が、わかった」

◆◆◆

「僕たちは、根本的に勘違いしていたんだ」

三人の視線を受け止めながら僕は言う。

「藤宮は僕たちに提示されたこの条件でも真相にはたどり着けるって言ったけど、それは半分は正しくて半分は間違っている。だって、この条件に当てはまる奴なんて七人の中には誰一人いないんだ。逆に言うと、藤宮の考え方なら犯人になれるのは一人だけだ」

「それって、半分どころか完全に間違ってるってことじゃねーわけ?」

僕の言葉の矛盾にすかさず安吾が反応する。けれどその声は普通よりも小さめで、藤宮と合わないようになのか視線は僕の手元に落されている。

「いいや。藤宮は嘘はついてない。本当のことも言ってないけどね」

「そうね」

藤宮は表情筋ひとつ動かすことなくあっさりとうなずいた。

「でも、じゃあ、どういうことなの?それじゃ九条君はどうやって犯人を特定できたわけ?儚はともかく、九条君の持ってる情報は私たちと同じなのに」

水城がお手上げだ、というように両手を左右に開いて言った。

「そこなんだよ。僕らはその情報にばかり注目していた。藤宮が言ってただろ?発想の転換が必要だ、って。僕らは情報の表面ばかり見すぎてたんだよ」

基本的には与えられた情報量は僕らも藤宮も変わらないはずだ。けれど藤宮は即座に真相にたどりつき、僕らは大きく遠回りをさせられた。それは基本的な頭のよさというよりも、思考の形成過程の違いなのだろう。

「とりあえず、まず、なんで他の二人に犯行が不可能か説明するな。まず日吉。これは、『隠せなかった』からだ。仮に授業を抜け出して保健室に行く途中で盗んだとして、普通はそれをどうするか?今まで検討した奴らみたいに教室に隠しに戻るよな?でもB組前の廊下には立たされていた奴がいて、教室に行くにはその前を通らなければならない。今までにわかってることからこれは当然無理だ。保健室を抜けだしたとしても、後でどうやって保健室から見とがめられずにそんな大荷物を運び出すのかが問題になる。終わり。次に橘だが、これはもっと簡単だ。橘が理科室に行ったのは十一時二十五分だったんだよな?で、橘はかばんを抱えてそのまま来た、と」

「あー!」

水城が大きく目を見開いて叫んだ。わかったようだ。隣の安吾がおびえと困惑を浮かべて横を見たが、僕はかまわず続ける。

「見ての通り、時間割は下から順にローテーションしている。つまりA組の二時間目にB組の一時間目の教科、B組の二時間目にC組の一時間目、C組の二時間目にD組の一時間目、D組の二時間目にA組の一時間目、という法則がちゃんとあるんだ。で、その理屈通り橘たちC組の次の授業は体育だった。今の体育は男女ともにサッカーだ。グラウンドは北校舎の目と鼻の先にある。だけど僕らの靴箱は教室のある西校舎一階だ。着替えを持って行っていても体育館の更衣室で着替えて、いちいち教室まで靴を取りに戻るのはめんどくさいし手間がかかる。そこで移動教室の次の授業が体育の時には、僕らはあらかじめ運動靴に履き替えて校舎の外を回ってから移動するよな?靴は一階にそろえておいて。さて、ここで疑問なんだが、なぜ橘はいったん教室に行ってかばんを置かずにそのまま理科室に来たのか?それは、橘が昇降口には向かわずに校門から直接北校舎に来たからじゃないかと考えられる。となると、橘が犯人なら、彼は一度北校舎一階で靴を脱ぎ、他の教室から誰かに見られるリスクが高いにも関わらず三階と一階を往復した上でまた三階に上るという時間のかかる行為を少なくとも十一時から十一時二十分前後にやったことになる。無茶だろ。だったら普通にいったん教室にかばんを置いてから行動するはずだ。ちなみに十一時二十分っていうのはうちの部室の抜き打ち検査があった時間だが、先生たちはもっと早くからその辺りにいたはずだからそんな不審行為、見とがめられるリスクはもっと高い。よって橘でもありえない」

僕はそこで深く息を吸う。

「真っ先に考えなきゃいけなかったのは、誰が犯人か、じゃなく、いつ答案は盗まれたのか、だったんだ」

それにさえ気づいていればあとは一発だったのに。

「で、こっからが本題。この七人に共通してる『不可能』なポイントは、犯行時刻だ。条件から照らし合わせると、この三時間目っていう時間は不都合だらけなんだよ。そこで、発想の転換が必要になるんだ。僕たちは、答案が盗まれたのは三時間目の授業中だっていう前提で話を進めてたよな?でも、それが事実だって確証はどこにもないじゃないか」

 「…………だ、な」

 「たしかに」

 二人は真剣な顔でうなずく。

 「僕らはそこで既に間違っていたんだ。じゃあ、本当の犯行時刻はいつか?水城、なんで犯行時刻は三時間目だと思ったんだっけ?」

 「先生が最後に答案の入った封筒を見たのが二時間目の休み時間で、三時間目の休み時間には封筒はなくなってたから」

 「安吾、答案を入れる封筒ってどんなやつか覚えてるか?」

 「どんなって、そこらへんに売ってる薄茶の角二封筒だろ?模試とか他のテストとか全部同じ種類のやつを使ってたはずだ。小テストの問題も一緒に積んであったはずだし、ぱっと見で違いはわからねーと思う。それがなんだよ?」

 僕は二人の答えにうなずき、こう言った。


 「じゃあさ、先生が二時間目の休み時間に見たっていう封筒が、偽物だったとしたら?」


 「結論から言うと、封筒は三時間目より前に盗まれてたんだ。たぶん、二時間目の休み時間がはじまってすぐくらいに。だけど、たぶんこれは突発的な犯行だった。犯人はまず先生が見ていないすきに棚にあった封筒三つを盗む。この時、ごっそりなくなってるのを気づかれないために近くにあった似たような封筒の位置をずらしてカモフラージュする。そして厚さも似てる適当な封筒と、机の上の封筒を入れ替える。そして、疑われないためにその口から元の封筒の一番上にあった解答用紙、つまり採点中のやつを何枚か少しだけ飛びださせておいたんだ。授業開始前のごたごたで先生は封筒の中身全部をいちいち確認したりできない。これで一応犯行は完了だ。あとは盗んだ答案を持ちだし、最後に残った数枚を回収すればいい」

 「ちょっと待ってくれ。おまえ、これは一人にしか当てはまらないやり方だって言ったよな?でもそれだけだったら誰にでもできるんじゃないのか?それこそその時間が空いてる奴なら誰でも」

 「うん。ここまでならね。だけど、残った一枚を回収し、誰にも気づかれる心配なく答案を手元に隠せた人間となると一人しかいない」

 視界の端で藤宮が微笑んだ気がした。

 「犯人は、日吉彩歌だよ」

 公園で遊んでいた小学生も少なくなり、厳しく照りつけていた日射しがだんだんオレンジに染まっていく。その西日の中で、ぬるい風に包まれながら僕は語る。

 「知っての通り、日吉のクラスの次の授業は体育だった。日吉は体育の準備をして理科室に行ったことになる。ところで、女子ってなんで着替えを入れるだけなのにあんなに大きなバックを使うのかな?最近運動部でもないのにサッカー部とか野球部みたいな四角いスポーツバック流行ってるだろ?まあいいや。とにかく、日吉は盗んだ封筒をそのバックに入れて授業を受ける。理科準備室に行った理由は、たぶん質問とかそんなところだろう。授業前に先生のところに列ができるのはそれなりに普通の光景だからな。友達に質問させて先生の気がそれている間に盗んだのかもしれない。そして、日吉は仮病を使って保健室に行く。残りの答案はその途中で回収したんだろう。封筒にまとめるほどの量の答案は隠せなくたって、数枚程度なら折りたたんでポケットにでもしまえばいい。封筒を隠したバックは授業が終わり次第親切な友達が保健室に運んでくれる。多少膨らんでたって教科書とかを保健室に行く前に詰めておけば怪しまれない。これですべて完了、ってわけだ」

 そこまで言い終わると、僕はふうっと息を吐いた。

 パチパチパチ、と藤宮が軽やかに拍手をし、水城が「やるじゃん」と笑う。

 「なんだよー。安吾って実は頭いいんじゃん」

 「頭はよくない。藤宮の考えてることをまねてみただけだよ。つか痛い。爪ささってっし。いいかげん切れよ。ネイルアートでもすんのか、おまえは」

 ぎゅうぎゅうと爪で腕を突いてくる安吾の指先を交わしながら、僕は妙な達成感がなんだか嬉しくて少し笑った。

 ◆◆◆

 「でも、日吉はなんで答案を盗んだんだ?」

 結局塾をサボることにした藤宮と駅まで歩きながら、僕は最後の疑問を口にした。方向の違う水城と安吾とはとっくに別れ、オレンジから赤く染まりつつある歩道には僕と藤宮の影だけが伸びている。

 「気になる?」

 僕とほとんど身長の変わらない藤宮が首を傾けると、肩に長い三つ編みが、ぱしり、と当たった。毛先が刺さって地味に痛い。

 「あ、ごめん。それはともかく、気になる?」

 「それなりには」

 いつかこの身長差がもっと開くことを願いながら、僕はうなずく。

 「そうねえ」

 藤宮はロープのような三つ編みを振りながら考え込む。

 「ねえ、九条君。答案って、何でしょう?」

 「は?」

 「だから、答案って、つまり何よ」

 「答案、じゃないのか?」

 はぁー、と藤宮は大きなため息を吐いた。

 「あなたのその頭は何のためにあるの?少しは回転がマシになったかと思ったら、ぜんぜん使えない」

 「悪かったな」

 藤宮は足を限界まで広げて重力に背中を押されるように歩く。

 「答案は、答案である以前に紙でしょう。そして、答案を見るのは先生と本人だけじゃない」

 「まったく意味がわからないんだが。答案を見る可能性のある第三者なんて…………あ」

 僕は歩道の真ん中で凍りついたように立ち止った。

 「そういうことか?」

 「そういうこと」

 その瞬間、僕は自分が致命的に間違っていたことを痛感した。

 藤宮は、誰に言うでもない声で、ばっかみたい、と笑った。

 「僕は、失敗したんだな」

 「間違ってはいない。点数をつけるなら九十点ってとこかな」

 「でも満点ではないんだろ?」

 「そうね。満点ではない。それで満足できないなら、もう一度考えてみればいいんじゃない。何回同じ思考回路をたどることになっても」


 「もう一度」の繰り返しを。


 僕はじっと足元の影を見下ろした。




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