第15話 二人の時間
今、俺は畳の上に座って壁に寄りかかっている。今日一日の疲れを抑えるためだ。
帰った後、玄関で父さんと母さんにかなり怒られた。そんな俺を怒られる原因を作った莉那はすまなさそうに俺のことを見ていた。事情を知っているだけのじいちゃんはそんな俺たちを見て苦笑を浮かべていた。そして、彩は二階から野次馬気分で俺のことを見ていた。
両親は一通り俺のことを怒り終わると今度は早く夕食を食べろ、と言ってきた。俺が悪いというのはわかっているが、やっぱりそこまで強く言われると少しへこむ。
そんな心境のまま俺はできるだけ早く夕食を食べるとすぐに風呂に入り自分の部屋に行った。
部屋に入った途端に疲れがどっと出てきて今のように畳の上に座って壁に寄りかかったような体勢になった。優はつい先ほど夜の散歩をすると言って外へ出て行ってしまった。なので、部屋にいるのは俺と莉那だけだ。
「雅渡、大丈夫?」
莉那が俺のことを心配そうに覗き込む。
「普段、そんなに動かないからな。お前を探すために六時間も動き続けてたから疲れたんだと思う」
少しだるさを感じながら俺は答える。
「そっか……。ごめんね、雅渡」
莉那は暗い表情を浮かべて謝る。俺はそんな莉那の顔を見ていたくなかった。
「いや、気にすんなって言ってるだろ」
「でも……」
莉那は自分のしたことに後悔しているようだ。後悔するのはいいことだと思うがこれはさすがに後悔しすぎだと思う。
うーん、どうやったら後悔を和らげることが出来るか、それかどうやったら俺がそれ関係のことを言ったときに本気で謝らせないようにできるか。そう考えていると、あるひとつの言葉が思い浮かんだ。
実際に言うのは結構恥ずかしいが、莉那のためなら仕方がない。それにこれから言おうと思っていることは本気でそう思っていることだ。
「そんな、自分だけが悪いみたいに考えるなって。……えっと、それに、俺は莉那にそんな暗い表情をしていてほしくない。できれば、笑っていてほしいって思うからさ」
恥ずかしさで顔が火照っていっているのを感じながらも莉那の顔を見る。対して俺の言葉を聞いた莉那は呆けたような表情を浮かべている。
そんなに俺がそんなことを言うのが意外だったのだろうか。確かに、今までこんなことを言ったことは一度もないがそんな反応を返されると少しショックを受ける。
いや、よく考えてみれば今日の夕方にも似たようなことを言ったような気がする。でも、あの時は冷静ではなかったのでその分、受け入れがよかったのかもしれない。
このまま俺が考えることに集中していれば多分このまま沈黙状態が保たれてしまう。だから、莉那が喋りやすいように俺が口を開いた。
「何、呆けてるんだよ」
俺はそう言いながら莉那の額にでこぴんをする。莉那の覚醒を促す為のものなので痛くはないはずだ。
「雅渡、いきなり何するの!」
少し怒ったように莉那は言う。額の辺りを押さえていないことから痛くはなかったようだ。
「莉那が呆けてるからいけないんだろ」
「だって、雅渡の口からあんな言葉が出るとは思わなかったんだもん……」
少しいじけたように、しかし、恥ずかしそうに顔を俯かせて言う。いじけたように言ったのは自分を表に出しすぎないためだろうか。
そんなふうに中途半端に隠されると俺まで恥ずかしくなってしまう。なので、俺もそれを隠すための行動を取る。
「どういう意味だよ、それは」
さっきよりも強めに莉那の頭にでこぴんをしながら俺は言った。
「いたぁ!雅渡、ひどいよ。痛かったよ!」
莉那は左手で俺がでこぴんをした辺りを押さえている。そして、莉那は右手で俺の右手を掴んだ。
莉那は数秒俺の手をじっと見ると自分の方へと俺の手を引き寄せた。俺は壁から背中を離して少しだけ莉那に近寄る。
莉那は引き寄せた俺の手を両手で包み込むようにして胸の前に持ってきている。
「……でも、ありがとう、雅渡。さっきの言葉、嬉しかったよ……」
莉那は目を閉じて穏やかで安らかな表情を浮かべている。なんだか、その表情を見ると俺の気持ちまでもが穏やかになるような気がした。
「もう、このことについては謝らないようにするよ。その代わりに笑ってあげるね。雅渡が望んだように」
そう言って莉那は笑った。今まで莉那が俺に見せてくれた笑顔の中で一番綺麗だ、と俺は思った。
「ああ、そうしてくれ。でも苦しいときや悩んでるときには笑ってるだけじゃなくてちゃんと俺に伝えてくれよ。莉那が俺に何か隠してるっていうのは嫌だからな。それに不安になる」
莉那の隠された感情に気が付いたとき俺は後悔をしていた。何で気が付かなかったんだと。あの時はそういう思いだけだった。
しかし、莉那を探している間に新たな思いが浮かんでいた。実は莉那は俺のことを全く信頼していないんじゃないのだろうかという不安がそれだ。
今では俺のことを気遣ってだということはわかっている。感情を隠すのはそういった理由があるからだろう。
けれど、そうわかっていても嫌だ。信頼しているのならしっかりと自分の感情を一人で抱え込まずに曝け出してほしかった。
「うん、わかってるよ」
素直に莉那は頷いた。
それから、俺たちはまた沈黙する。ただ、今度はわざわざこの沈黙を破ろうとは思わなかった。
右手からだけだが莉那の温もりを感じている。それだけのはずなのに俺の気持ちがとても落ち着いてきているのがわかる。
そう思っていると莉那はいきなり俺の手を放した。俺はそのことに名残惜しさを感じていたが口に出すことはできなかった。
何故なら、いきなり抱きついてきたからだ。
「いてぇ!」
壁から背中を離していたので莉那が抱きついてきた衝撃で背中をぶつけた。
「あ、ご、ごめん、雅渡」
莉那は一度俺から離れて俺の様子を窺うように俺を見る。
「いきなり、何するんだよ」
俺は背中の痛みを堪えながら非難がましくそう言う。
「本当にごめんね。……でも、こっちのほうがもっと落ち着くから、さ」
莉那は俺に再度謝って、今度はゆっくりと抱きついてきた。また、俺は莉那の温もりを感じることができた。今度は更に広い面積を、更に近い距離で。
「なあ、今回はちゃんと自分がしてること、わかってるよな」
わざわざそう聞くのは例のごとく相手にどう取られるか考えずに行動を起こしたと思ったからだ。
「うん、今はちゃんとわかってやってるよ」
莉那は腕に力をこめて俺にぎゅっと抱きついてきた。
俺はどぎまぎしつつも夕方にしたときのように莉那を抱きしめてやった。それと同時に莉那の腕から力が抜けて俺の背中に腕をまわしているだけという状態になる。
というか、莉那、俺にとても甘えるようになった気がする。前は意識せずに俺に近づいてきていた感じだが今は故意に近づいてきている感じだ。
「あと、もうひとつだけ、雅渡に謝らないといけないことが、あるんだ」
莉那の少しくぐもった声が聞こえてきた。莉那は少し身をよじり俺と少し距離をとる。少しといってもまだ体は触れ合ったままだ。
お互いがお互いの顔を見る。俺は莉那の言いたいことを言わせるために質問をする。
「なんだよ、謝ることって」
「実はわたし、雅渡に嘘ついてたんだ」
「莉那が?どんな嘘をついてたんだよ」
俺は莉那が嘘をつくなんて意外だな、と思いながら聞いてみた。それに、嘘をついていたというわりにあまり悪いことをしてしまったという感じがなかった。むしろ、少し恥ずかしがっているような、そんな感じだった。
だから、純粋に莉那がどんな嘘をついたのか気になってしまった。
「わたし、知り合いに会いたいって思ったから三年間も帰ってこなかったって言ったよね。実はあれ、嘘だったんだ」
莉那はそこで俺が聞いているか確かめるように俺の顔を見る。俺は先を促すために無言のまま頷く。
「本当はね、知り合いになんて会えなくてもよかったんだ。わたしは……雅渡にだけ会えればそれでいいって思ってたんだ。それと旅をしてみたいって思ったのも嘘なんだ。雅渡に会えることだけがわたしの願いだったんだ」
「それが、お前のこの世に残る願いだったんならなんですぐに戻ってこなかったんだよ」
俺は半ば非難するように莉那に言ってしまう。責めるつもりはないのに何故だか少し語気が強くなってしまった。
「ごめんね。あの時のわたしは雅渡に会いに行っても雅渡に気がついてもらえないんじゃないのかなって思ってたんだ。だから、出来るだけ自分の気持ちを隠すように旅に出たいって強く願ってたんだ」
莉那はそこで一度言葉を切る。これから、話すことは莉那にとって大切なことだと俺に伝えるかのように。
「あの時のわたしは雅渡に会いたいっていう気持ちを押さえれてたと思ってたんだ。だけど本当は抑えられてなかったのかもしれない。だから、三年間はどうにか気持ちを抑えられたんだけど、三年目にはついに抑えられなくなったんだ。抑えてたって思ってた雅渡に会いたいって気持ちがとっても強くなって自分をどうすることも出来なくなってた。多分、死ぬ前に願ったとき以上に雅渡に会いたいって願ってたと思うよ」
莉那は俺の顔をじっと見つめている。俺がどう思っているのかを窺うかのように。
「雅渡に会いたいっていう気持ちが大きくなったわたしは雅渡に会えて、雅渡がわたしに気がついてくれて、雅渡と話せてすっごく嬉しかったんだ。それに、わたしが雅渡の日常を壊してるって思ったのに雅渡がわたしのことを受け入れてくれたことも、わたしがそばにいることを望んでくれたこともすごく嬉しかったよ」
俺のことを見つめたまま莉那は言った。莉那が考えていたのは死んでから今にいたるまでのことだったのかもしれない。
「雅渡、いまさらだけど、三年間も待たせちゃってごめんね。わたし、臆病だったのかもしれない。わたしが自分の想いにもうちょっと素直に従って勇気を持ってたらもっと早くわたしたちは会えてたのにね」
そう言いながら莉那は再度俺に抱きついてきた。俺もそれに応えて莉那の体を抱きしめる。
「気にする必要なんてないよ。俺たちはこうしてまた出会えたんだから。お互いの気持ちも知ってな」
「そうだけど。もったいないなって思っちゃうんだ。三年間っていう時間が。それだけ時間があればわたしたちどれだけ近寄れてたんだろうって思うと余計にね」
どこか残念そうに莉那は言う。俺も確かにそうだな、と微かに思った。しかし、それは莉那が俺のことを想ってやったことだ。だから簡単には同意できそうにはなかった。それに、三年という莉那との空白の時間があったからこそお互いに自分の気持ちを伝えることが出来たのかもしれない。
そう思うと、早くなくてよかったとも思う。早く出会っていた場合、どうなっていたかがわからないのであまり強くそう思うことは出来ない。しかし、別にそれを知る必要はない。現に俺たちはこうしてまた出会って新しい関係を築きつつあるのだから。
この考えは莉那に伝えておきたいと思った。だから、俺はその為に言葉を紡ぐ。
「確かに俺も早く出会えていればよかったな、とは思う。けど、三年っていうお互いに離れている時間があってよかったって俺は思ってる」
俺の言葉を聞いて莉那は抱きついたまま俺の顔を見上げる。俺が言ったことの意味がわからないといった感じの不思議そうな顔をしている。
「どういう、こと?」
表情どおり莉那は俺が言ったことがいまいちわかっていないようだ。
俺は莉那の問いに答えるように説明を続ける。
「俺たちは三年っていう時間の中でいろいろ考えたり感じたりして、自分の想いを膨らませることが出来ただろ?そのおかげで俺は莉那に俺の気持ちを伝えれた。莉那もそうだろ?」
こくり、と莉那は頷く。
「だからだよ。早く会えなくてよかった、とは思わないけど考える時間があってよかった、とは思ってる」
「そっか。そういう考え方もあるんだね。わたしは全然思いつかなかったよ。やっぱり、雅渡って賢いんだね」
莉那は笑顔でそう言った。賢いのとは少し違う気もしたが、好きな人に褒められるというのは嬉しかった。
「これから、どんどん積み重ねていけばいいんだよね。一緒にいる時間も楽しい思い出もお互いの想いも」
「ああ、そうだよ。俺たちにはいくらでも時間があるんだからそれを使えばいいんだよ。それに、もし俺が死んだら絶対に幽霊になってお前と一緒にいてやる」
奇妙なセリフだな、と思いながら俺は言う。奇妙だけれど、これは俺の気持ちそのものだ。事故でも病気でも寿命でもなんでもいい。もし、俺が死んだ場合、莉那がこの世に残りたいと強く願ってこの世に残ったように、俺も死んだときには絶対にこの世界に残ってやる。
そういう決意をこめたような言葉なのだから。
「なんか、自分から絶対に幽霊になるって宣言するのもおかしいよね」
莉那もなにか引っかかるようなところがあったのか少しおかしそうに笑いながらそう言う。しかしすぐにその笑いは引っ込められ嬉しそうな笑みへと変わる。
「うん、でも、ありがとう。わたしのことをそんなに想ってくれて」
何かに満足したようなそんな笑みを浮かべて莉那は言った。
「どういたしまして。というか、礼を言われるようなことでもないんだけどな」
俺も笑みを返しながら莉那に言った。本当に礼なんてどうでもよかった。所詮、俺自身のわがままみたいなものだ。
「うん、それも、そうだね」
莉那は俺がそう思っていることがわかったのか素直にそう言ってくれた。なんとなくそれが嬉しかった。
「そうだ、雅渡。目、瞑ってくれるかな?」
いきなり、莉那がそんなことを言ってきた。今までの会話との関連を考えてみるが関連など見つからなかった。
「いきなり、そんなこと言って何するつもりだよ」
俺は莉那の唐突さに呆れつつも聞いてみた。
「いいからいいから、気にしないでわたしの言うとおりにしてよ。悪いことはしないからさ」
笑いながら莉那は言った。
確かに悪いことはいっさいしてきそうになかった。なので、俺は莉那を信用してゆっくりと目を瞑った。
目を瞑ると当然何も見えなくなる。何も見えなくなって視界が遮断されると別の感覚が敏感になってくる。
莉那の温もりを更にしっかりと感じて鼓動が高鳴るのを感じる。なんだか、落ち着かない気分になってくる。
莉那が動くのを俺は感じる。それから莉那の吐息が俺の顔にかかってきた。莉那の微かな息遣いも聞こえてきた。もしかしたら、かなり顔を近づけているのかもしれない。
目を開きたいという気持ちがあったが開くことは出来なかった。莉那は絶対に目を開けるなとは言っていなかったが多分それは言い忘れただけだと思う。しかし、それが俺の目が開けられない理由ではなかった。
何故か、動かないのだ。何かに抑えつけられたように自分のまぶたを動かすことが出来ない。何故なのか考えてみるが理由はわからない。
いや、その理由は今わかった。多分、目を瞑って感じる莉那の様々なもののせいで緊張してしまっているのだ。その緊張が大きすぎるせいで俺は自分の体を動かすことが出来ないのだ。
これから、莉那に何をされるかはわからない。けど、莉那にされることだったら何でもいいような気がした。
だから、俺は全身から力を抜いた。というか、いつの間に俺は力を入れていたんだろうか。自分が力を入れていたことに全く気がつかなかった。
されるがままにしようと心に決めた途端に、
「二人とも、何してるのにゃー?」
そんな、何かを楽しんでいるような声が前方から聞こえてきた。
その瞬間に莉那が動いたのを感じた。それから、少し遅れて俺は目を開けた。
俺から少し離れた場所で慌てふためいている感じの莉那の後ろに優の姿を見つけた。今、優がいるということは先ほど俺たちが何をしていたのか見られていたということだろう。それを理解すると同時に俺の気持ちが慌ててきた。
「お、おかえり、優。どこに行ってたんだ?」
とりあえず、俺は何も聞かれない、または言われないようにするために優が口を開くよりも先にそう聞いた。
「近くの山に行ってきたにゃ。頂上から見た月がすごく綺麗だったにゃ。二人にも見せてあげたかったにゃ」
先ほど見てきた景色を思い出すかのように優は言う。
俺は話を逸らすことが出来てほっとする。そう、俺は思ったがそれは間違っていたようだ。
「それで、二人は何をしてたのかにゃー?ボクには抱き合ってたように見えたにゃー」
笑みを含んだ声で優は言う。たぶん、俺たちのことをからかっているんだと思う。そう、わかっていても俺にはどうすることも出来なかった。
莉那は顔を染めて俯いているようだった。
「それに、莉那は目を瞑っている雅渡にキスをしようと――にゃっ!」
優はいきなり莉那に口を押さえられる。しかし、少し遅かったようだ。優が言いたかったであろうことはしっかりと俺に聞こえてきた。
「えっと…………莉那?」
俺は動揺のせいで混乱してしまいそれだけしか言うことができなかった。優が言ったことへの理解が追いつかない。
「え、えと、あの、あのね、雅渡。その、誤解、じゃなくて、あ、あれだよ、あれ!」
莉那も相当動揺しているようで俺に何を伝えたいのかいまいち伝わってこなかった。いや、たぶん、莉那が動揺していなくてしっかりと伝えようとしていても理解できなかったと思う。それほどまでに、俺も混乱してしまっている。
優に抱き合っていたのを見られていたということもあるがそれ以上に莉那が俺に……キスをしようとしていたということのほうが俺を動揺させていた。
目を閉じているとき、莉那の顔がすごい近くにあるな、ということはわかっていた。けれど、それがキスをするためのものだとは思わなかった。たぶん、冷静になって考えていればわかっていたことなのだろうが、あのときの俺はとても緊張していてそんな状態ではなかった。それに、あの時キスされると理解していれば、俺は正気を保てていたか定かではない。
「二人とも反応が素直でおもしろいにゃ。からかいがいがあるにゃ」
いつの間にか莉那から抜け出した優がそんなことを言っていた。
優を捕まえてどうこうする心の余裕がない俺たちは顔を赤くして俯いているしかできなかった。
「にゃにゃー。二人とも素直な上に恥ずかしがり屋にゃ?」
優は何も言うことのできない俺たちの上でそんなことを言っている。
「まあ、からかうのはこのくらいにしといてあげるにゃ」
そう言いながら優は下に降りてきた。
「二人とも伝えたいことは伝えたみたいだにゃ。これで、莉那が消える心配もないのにゃ」
どうやら、優はきまぐれで散歩に出たわけではなく俺たちにゆっくりと話をさせたくて散歩に出たようだった。そう思うと、優に感謝しないといけないな、と思った。
「ありがとな、優。わざわざ俺たちのことを気遣ってくれて」
だから、自然とその言葉は出てきた。先ほどの会話で莉那の心に残っていたものも取り除くことができたのだから。
「別に気にする必要はないにゃ。莉那が消えたらボクのことを飼ってくれる人がいなくなって困るからやってあげただけにゃ」
「俺に飼われるのじゃ不満か?」
決してそうではないと思っていたがあえて言ってみた。
「そういうことじゃないにゃ。別に雅渡に飼われるのは構わないにゃ。でも、ボクは名付け親である莉那に飼われたほうが嬉しいにゃ」
優はそう言いながら莉那の方へと飛んでいく。莉那は反射的に優を腕に抱く。
それを見て俺は一瞬だけ嫉妬のようなものを感じたがそれはすぐに無くなった。
優も莉那が消えそうになって不安だったのだろう。俺にとって莉那が大切な人であるように優にとって莉那は自分の安心できる場所を作ってくれた人なのだから。
多分、優は根が寂しがり屋なんだろうな、と思う。だから、死んでしまって孤独になったときに出会って名前を付けてくれた莉那は優にとってとても必要な存在なのだと思う。そうでなければ、あの時、優が莉那に飼ってもらうといってもらったときの嬉しそうな声が嘘になってしまう。
そういえば、ふと、疑問に思ったことがあった。それは優の昔の名前。死ぬ前の優の名前。優は莉那に付けられた優、という名前を気に入ってすぐにその名前に改名したようなので、優の前の名前を聞いたことがなかった。
「そういえば、優の莉那につけてもらう前の――死ぬ前の名前って何だったんだ?」
聞いてみたくて俺は何気なくそう聞いた。
「前の名前は忘れちゃったのにゃ。多分事故の衝撃のせいにゃ」
優は少し落ち込んだ感じの声で言う。けれど、悲しいという感じはその声から感じ取ることが出来なかった。
「でも、別にいいのにゃ。ボクには莉那が付けてくれた『優』っていう名前があるからにゃ」
「優は本当に前の名前を思い出せなくてもいいの?前の飼い主さんのこと好きだったんでしょ?」
莉那は優の頭を撫でながら言う。
「……まあ、確かに思い出せないのは嫌にゃ。せっかく、つけてもらった名前なんだから忘れたくはないにゃ。でも、失った記憶なんてそう簡単には取り戻せないにゃ。だから、もういいのにゃ」
聞いているこちらが清々しくなるほどとても明るく澄み切った声で優は言った。優には前の名前に対する未練はないようだった。
「そっか、満足、してくれてるんだね。わたしの付けた名前に」
「そうにゃ。ボクは満足してるのにゃ。だから、心配なんて必要ないにゃ。それに、前の飼い主のことは今もまだちゃんと覚えてるにゃ。これは本当に大切な記憶だから絶対に忘れないにゃ。でも、とにかく、二人とも心配してくれてありがとうにゃ」
莉那に頭を撫でられながらも優はそう言う。
「なんか、俺たちの心配も余計だったみたいだな」
俺は莉那に抱かれている優の首を撫でる。優は気持ちよさそうに「にゃ〜」と鳴いている。
「なんだか、眠くなってきたにゃ」
本当に眠いのか優の目は細められている。もう寝る寸前の状態になっているのかもしれない。
「じゃあ、寝ちゃえばいいんじゃない?」
「そうするにゃ。二人ともおやすみにゃ」
優は律儀にそう言う。何も言わないのも悪い気がしたので、俺もおやすみ、と言う事にした。
「ああ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
見事に俺たちの声は重なった。少し驚いて俺たちは顔を見合わせた。そして、どちらからともなく俺たちは笑い出した。
「ははは」
「あははは」
それは、公園で莉那と会話をした後に出てきたのと同じで気持ちのいい笑いだった。笑ってしまう原因はわからないけれど、なんだか幸せな気持ちになってしまう。
それから、大体十数秒ほど俺たちは二人で笑った。
「な、なんでわたしたち笑ちゃったんだろうね」
息を整えながら莉那は言う。まだ笑い出してしまうのをこらえているような感じがする。
「さ、さあな」
俺も笑い出してしまいそうなのをこらえながら答える。
「なんか、笑って清々しい気持ちになった気がするね」
笑顔を浮かべて莉那は言う。笑っていたときとは違う感じのする笑顔だ。
「そうだな。……さてと、俺もそろそろ寝るか」
そう言いながら俺は立ち上がる。
ふと机の方を見て勉強したほうがいいな、と思ったが勉強するために必要な道具は全て学校に置いてきてしまった。なので、勉強のしようがない。
それに、今日はもうかなり疲れてしまっていて勉強をする気も起きない。なので、まあいいか、と思い俺は布団の準備をしようとする。
それを、莉那に止められた。
「ねえ、雅渡。わたし、雅渡が寝てる間にこの部屋にいてもいいよね」
何故か恥ずかしがるように上目遣いで俺の方を見てそう言う。
俺はその言葉に戸惑ってしまった。昨日はわざわざ確認をとるようなことはせずに勝手に俺の部屋にいようとしていた。その昨日との違いが俺を戸惑わせる。
「別に、いいけど。ずっと、ここにいても、暇、だろ?」
俺は何を意識しているのだろうか。これだけのことを言うのにかなり緊張してしまった。
「ううん、全然暇なんかじゃないよ。……雅渡の傍に、いられる、から、さ」
とても恥ずかしそうに莉那は言った。そういうふうに言われるとこちらも目を合わせることができない。
沈黙状態になる前に、俺は寝る準備を始めた。一度、二人で沈黙した状態となってしまうとなかなか動き出すことが出来なくなってしまうだろうから。
そう考えながら、準備をしているといつの間にか寝る準備が整っていて後は寝るだけとなっていた。無意識でも寝る準備を行うことが出来るほど俺はこの作業を繰り返し行っているということだろうか。そう思うと、俺も長い間生きたな、とか年寄りくさいことを考えてしまった。
俺は少し苦笑を漏らしてしまった。
「雅渡、どうしたの?」
いきなり苦笑をした俺を見てか莉那がそう聞いてきた。
「いや、無意識のうちに布団をしいてたから俺も長い間、生きてきたんだなって思ってな」
「雅渡、なんか、それ年寄りみたいだよ」
俺が思ったことと全く同じことを莉那は口にした。やっぱり、そう思うよな、と俺は再度、苦笑をした。ただ、今回は心の中でだが。
「莉那、でこぴん、してやろうか?」
少しふざけるような気持ちで俺は言った。
「雅渡だって自分が年寄りみたいだって思ったから苦笑してたんでしょ?それなのに、なんでわたしがでこぴんされないといけないの?」
俺が本気でないということがわかったのか冗談めいたように言われた。
「それも、そうだな」
「そうでしょ」
俺たちは顔を見合わせて笑った。優を起こしてしまうと優に悪いので声を落としてだ。
「さてと」
俺はそう言って枕元の電気を付け部屋の電気を消した。そして、莉那が見ている前で布団の中に入る。なんだか、恥ずかしい。
「それじゃあ、おやすみ、莉那」
「うん、おやすみ、雅渡。明日も早く起きてね」
「できるだけ、努力はする」
莉那の注文にそう答えて俺は枕元の電気を消し目を閉じた。
莉那に見られていたらすぐに寝られないだろう、と思っていた。しかし、莉那に見られていると逆に安心したような気持ちに包み込まれてすぐに睡魔が襲ってきた。




