十月十九日―Ⅳ
一から何かを作ることは難しいですね。
俺の発言に夕顔は、目をパチパチとしていた。
「そんなレベルで人殺してる人間を抑えられるか」
分からないが、そんな程度じゃ、一般人でも気味が悪いと思う程度で何も起きないだろう。
俺の言葉にしばらく目を丸くしていたが、
「ふーん」
なにやら面白そうなことを思いついたようにニヤニヤしながら座っている俺の体に抱きついてきた。
体は見た目通り余り発達しておらず抱きつかれた感触はなんというか硬かった。
「……なにしてんだ?」
別に子供に抱きつかれて喜ぶ性質じゃないんだが。
そんな俺の言葉なんてそっちのけで俺を抱く両手の力を強めた。
「んー?私の嬉しさをキミに対して表現してるだけさ」
実は僕はヨーロッパ生まれなのだよと、夕顔は嘯く。
「全くその通りだよ。今の話だって相手がそう考えちゃったらパァだもんね。それに今の話はもしかしたら外してるかもしれない。その通り。キミの言うとおりこれ位で済むなら警察もいらないでしょ」
――だったらさ
また俺の耳元でそっと呟いた。
――信じられるようにしちゃえばいいんだよ。
夕顔は呟いた。
「……どうやって?」
それは確かにそうだ。
「そこは……ほら企業秘密?」
そう言うと俺を抱くのを止め先ほどの田中さんの所へ行った。
「あらま」
夕顔が間の抜けた声を出した。
その声に釣られて台所の方を覗き見る。
「あっ」
反射的に声が漏れる。
地下室にいたはずの田中さんが台所に立って夕顔と対峙していた。
その目は血走り今にも夕顔に襲いかかってきそうだった。
……って、この状況って俺も夕顔も危なくないのか?
そんな殺意むき出しの視線を受けているのにも関わらず夕顔は、
「ありゃりゃ、随分とまぁかかったね」
まるでこうなることを予測していたかのような喋りっぷりだった。
「えぇ。流石にあんなに縄を切れそうな物ばかりこれみよがしに置いていったのだから予測出来てないわけないわよね。もしかしてあなたは私に殺してほしかったの?」
鋏とかカッターとか近くに置いとくものなのかしら。
そう言って田中さんは笑った。
初めて聞いた田中さんの声は年よりもしゃがれていた気がした。
「まさか。あなたみたいな変人に付き合ってる暇はないわ。私のやりたいことは済んだし、これからのことも考えついた。だからあなたは勝手にこの茶番でも終わらせれば?」
そう言って俺の方を振り向いた。
「そろそろここからお暇しようか」
俺の横まで歩いてきて俺の手を握った。
「お、おい。まだ向こうお前殺す気満々ってのがひしひしと伝わってくるんだが」
俺の手をリビングを出て玄関に行こうとする背中に声をかけた。
というかなんでこいつは平気なんだ。
なにも関係のないはずの俺はこんなにビビっているっていうのに。
当事者であるはずの夕顔は平然の顔をして、平気だと答えた。
「平気って…」
あの田中さん憤怒の形相で睨んでますよ。
さっき貴方が言った言葉のせいでめちゃくちゃ殺気だっていますし。
そんな俺の表情に夕顔は呆れたような顔をした。
「もう心配症だねキミは。それにしてもいい加減彼女も気づくはずだよ自分の体の異変に」
体って言うかなんと言うか……そう言いながら、夕顔は玄関へと歩を進めた。
「え?」
夕顔が言った事が信じられずに聞き返すと同時にきゃっと小さな悲鳴とともに大きな音が聞こえた。
「なんだ?」
音のする方向を見ると田中さんが転んでいた。
何もなかったはずなのに大きな尻もちをついていた。
「え?え?」
転んだ当人も驚いている。
もう一度立とうとしてもまた滑ったように地面に伏せてしまう。
なんだ?その場所だけ特別に滑るのか?
何かがおかしかった。
ただ、何かにつまずいたのではないことは傍目から見ていても明らかだ。
「どうなってるんだ」
「ま。いずれ分かるかもしれないよ?」
いつの間にか、隣に戻ってきていた夕顔にそっと耳打ちしてみるとそんな答えが返ってきた。
いずれ分かる。
どういうことだろうか。
こうして話している間にも目の前の彼女はますます錯乱状態に陥っていた。
ここからではよく聞こえないがぶつぶつと唇が動いている。
それから何度も立ちあがろうとしても転ぶということを繰り返していた。
無様というより最早滑稽に近かった。
「……手が……足が……」
ぶつぶつと音を発する唇からそんな言葉がかろうじて聞き取れた。
「手と足がどうしたんだ?」
隣にいる夕顔にそう尋ねると今度は唇を尖らせてこっちを振り向いた。
「どうなってるか考えればそんな質問は出てこないとは思うけど……ま。今は気分がいいからね。教えてあげる。彼女きっと手足が動かないんだろうね」
「手足が?」
なるほど確かにそれならば立てない。
なんて簡単に納得出来るはずがない。
俺が顎に手を当てながらそんなことを考えていると夕顔が俺の手を離して彼女の前にすたすたと歩いていった。
「お、おい」
危ないぞと言おうとする前に夕顔がこっちを振り向いて大丈夫と言って笑った。お前が大丈夫と言っても、見てるこっちにはサーカスの綱渡りを下から見ているような気分だ。
あ、いやあれは成功するから少し違うな。
まぁ、それくらいハラハラしている。
ついでに死なれたらもれなく俺も殺されるから勘弁してくれよと願った。
「ねぇあなた?」
「ひぃ」
立てないために相対的に夕顔より目線が低くなった彼女は膝を使って必死の形相で地面を這って逃げている。
それでもそう大きくないこの部屋では逃げられる距離もたかがしれていた。
しかしこの状況になっても俺の頭では五体満足に見える彼女がどうして手足が動かない状況に置かれているのか分からない。
「なんでそうなってるか教えてあげようか?」
俺の質問に答えるかのように夕顔がおびえきっている彼女の耳元に小さく囁いた。
「あ、あ、あ、あ、――、――」
ここからじゃ、なんて言ったか聞こえなかったが、彼女の精神を砕くには十分な言葉を言ったのは間違いなかったようだった。叫び声が途中から言葉ではなくただの音に変わり、顔からはサァーっと血の気が抜けていくのがここから見ていても十分すぎるくらい分かった。
「ひうっ」
彼女はそう奇声を発し、一度体を弓なりに硬直させた後ドサッと床に倒れた。
その様子を見届けると夕顔はこっちの方を向いて唇を歪ませた。
「一体どうしてこんなになっただろうね彬?」
若干楽しんでいるようにも取れる声で田中さんを見下ろしながら夕顔が呟く。
「疑問を挟む余地がないな。……お前が何かしたんだろ?」
うん。食べちゃった。
と別に隠しもせずに答えた。
さっき自分で言っていたから別に隠すことでもないいと思うが、こうもあっさりと肯定されると少し拍子抜けという感じがした。
そう言うと夕顔は俺の手を取って、
「いこ」
そう言って俺の手を引っ張った。
いきなり俺の範疇外のことが起こりすぎて、頭の処理能力が追い付かず、夕顔に引っ張られる形で家の外に出た。
入った時と打って変わって辺りはもう夜だった。
満月でもないが月が大きく感じられ、春のじめっとした風がまとわりついて不快だった。
「私ね。決めたよ」
外に出てから俺をようやく離すと月を背にして言った。
逆光のせいで夕顔の表情はうかがい知れない。
「なにをだ?」
「そうだね。キミについていこう。きっと面白いから」
「は?」
なに言いだしたんだコイツ?
最初に抱いた感想がそれだった。
はっきり言ってしまうと、もう今日みたいな事件は勘弁願いたい。
あの場にあれ以上いたら俺の寿命が五年は縮んでいた。
ただでさえ、老い先短そうなのに、これ以上減ってしまったら洒落にならない。
俺の不満そうな顔を見ると少しだけ表情を歪めたようで少し雰囲気が変わった。
「やっぱりだめだよね……ごめんなさい。無理言っちゃって。分かってるそんなこと。でもね不謹慎かもしれないけど楽しかったんだ。キミといた時間は唯一私が私でいられた時間だったからね」
「お、おい」
話が凄い展開になってきてるんだが。
というかなんだこれは?どっかでカメラでも回っているのかと疑いたくなるような展開だった。
「けどそれももう終幕。泡沫の夢として諦めるわ。さよなら」
そう言うと、彼女は踵を返す。
「ちょ、ちょっと待った」
「え?」
夕顔は髪を翻してこちらを見た。
まるでそうなることを予想していたように期待したように目がさんさんと輝いていた。
「はぁ……」
なんでこんなことになったんだろ。
自分の行動に軽く呆れて頭を掻いた。
「お前ってなかなか狡いな。そんな風にされたら断われねぇだろうが。別についてきてもいいけど近々家は引き払うから、寝床程度しか世話しねぇぞ」
夕顔の雰囲気から暗いものがふっと消えた風に感じた。
「キミは優しいねぇ。演技だって分かってるのにね。お礼にキスしてあげよっか?」
んーと俺に向かって背伸びをして唇を突き出して、手を腰に回そうとした。
「いらねぇ」
夕顔の抱擁をさらりと躱した。
「むぅ。ま。いいや」
抱擁が避けられて一瞬不満気な顔になったがすぐに何かを思い出したかのように、携帯貸してと手を出してきた。
「なんだいきなり」
そうは言いつつもとりあえず要求されたので貸してみた。
俺からそれを受け取るとどこかへ電話をかけ始めた。
そして数コールして電話が繋がるとそれを俺に返した。
「話しといて」
「あ?」
突き出された携帯を見ると番号の欄には110つまり警察に繋がっていた。
あーはいはい。分かった分かった。
警察に簡単に状況を説明して電話を切って俺達は俺の家に向かって歩きだした。
この日、俺こと、東雲彬は少女に魅入られた。
一人でも見てくれている方がいらっしゃれば感謝です。