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のんびり令嬢、王宮の修羅場でもお菓子を食べています

作者: 棗 月雫
掲載日:2026/04/10


 王宮の大広間が、ざわめきに包まれた。


「ヴィノリア・エーデルバイン! 君との婚約は、今日この場をもって破棄する!」

 夜会の中央で、王太子オリアン殿下が高らかにそう宣言したからだ。


 楽団の音が止み、貴族たちが一斉に息を呑む。

 王宮の夜会など見慣れているはずの俺ですら、さすがに息を呑んだ。


 扇の陰で目を見開く令嬢たち、慌てて顔を見合わせる貴族たち。

 まさに王宮の修羅場だった。



 ――なのに。

「……あの令嬢は、何をしているんだ」

 俺、エルヴィオ・アストレアは、思わずそう呟いていた。


 視線の先。

 大広間の端、立派な菓子卓の前で、ひとりの令嬢が小さなフォークを動かしていた。


 淡いミルクティーブラウンの髪。

 やわらかそうに巻かれた髪が肩先で揺れ、蜂蜜色の瞳が、きらきらと目の前の皿を見つめている。


 パーチェ・ルチェリア。

 社交界で特別目立つわけではない、どちらかといえば地味な伯爵令嬢だ。


 だが今この瞬間、彼女は妙に目立っていた。


 なぜなら――王太子の婚約破棄宣言の真っ最中に、平然とケーキを食べていたからである。


「……いや、食べるなとは言わないが、なぜ今だ」

 隣にいた友人が「どうした?」と首を傾げたが、俺は答えなかった。


 答えるより先に、パーチェが次の皿へ手を伸ばしたからだ。

 食べ終えた皿を侍女に下げさせ、彼女は真剣な顔で並んだ菓子を見比べている。


 その横では、殿下が得意げに続けていた。

「君は冷たく高慢だ! だがミルヴァは違う! 彼女こそ真に愛らしく、私にふさわしい!」

 金髪をきらめかせた王太子の腕には、ふわふわの巻き髪を揺らすミルヴァ・セレニアがしなだれかかっている。


 会場の空気がさらに冷えた。

 だがパーチェは気にしない。

「うーん……」

 何を悩んでいるのかと思えば、焼き菓子にするか、苺のタルトにするかで迷っているらしい。

 おい、今そこか。


「……本気か、あの令嬢」

 気づけば俺は、婚約破棄騒動よりも彼女の動向を追っていた。


 パーチェはしばらく悩んだ末、苺のタルトを選んだ。

 小さくうなずき、フォークを入れる。

 その顔が、少しだけほころぶ。


「……そんなにうまいのか」

 思わず漏れた声に、自分で驚く。


 何を見ているんだ、俺は。

 普通なら王太子の無茶に頭を抱える場面だ。


 実際、婚約者であるヴィノリア嬢は静かに扇を閉じ、ひどく冷ややかな目で殿下を見ていた。

「殿下。公の場でそのような浅慮な真似をなさるとは、いよいよ救いがありませんわね」

「なっ……!」

「そちらのご令嬢を選ばれるのはご自由ですけれど、まずはご自身の立場と責任を学ばれてはいかがですの?」


 強い。

 さすがヴィノリア嬢である。

 会場のあちこちで「おお……」と小さな感嘆が漏れた。


 ミルヴァ嬢が「まあ、ひどいですわ」と声を上げ、殿下は真っ赤になって言い返す。

 修羅場はさらに加速した。



 ……だが、やはりパーチェは気にしない。


 今度は紅茶まで手に取っていた。

 優雅にひと口飲み、それからタルトをもうひと口。

 もぐもぐと頬を動かしている。

 小動物か。


「食べ過ぎではないか……?」

 つい口に出た。


「誰がです?」

「……っ」

 いきなり真横から声がして、俺は肩を揺らした。


 いつの間に来たのか、パーチェが不思議そうにこちらを見上げている。

 近くで見ると、やはり派手ではないが、かなり可愛い。

 丸い瞳が不思議そうにこちらを見ていた。


「い、いや。何でもない」

「そうですの?」

 彼女は首をかしげた。ふわりと髪が揺れる。

「今日はお菓子が豪華ですわね。王宮の夜会はやはり違いますわ」

「……今、そこに感心していたのか」

「他に何かありますの?」


 ある。大ありだ。

 あちらで王太子が人生を派手に踏み外しかけている。


 だがパーチェは本気でわかっていない顔をしていた。

 いや、違う。わかっていないというより、興味がないのだ。


 あれはあれ。これはこれ。

 目の前のタルトのほうが大事。

 そういう顔だった。


「この焼き菓子もおすすめですわ」

 勧めるな。今この状況で。


「ルチェリア嬢」

「パーチェで結構ですわ」

 さらりとそう言って、彼女は皿を差し出してきた。

「アストレア様も召し上がります?」

 なぜ俺の名を知っている。

 いや、夜会で顔くらいは知られていてもおかしくないか。


 しかしこの流れで菓子を勧められるとは思わなかった。

「……もらおう」

「まあ。よかったです」

 パーチェは嬉しそうに笑った。


 その瞬間、なぜか胸の奥が少しだけ妙な音を立てた。

 可愛いな、と。

 認めたくないが、思ってしまった。


 向こうではまだ修羅場が続いている。

「ミルヴァは君のように冷たくない!」

「でしたら、そのお優しいご令嬢とどうぞお幸せに。わたくしは止めませんわ」

「なっ……!」

 ヴィノリア嬢の圧勝である。

 もはや誰が見てもそうだ。


 そしてこっちはこっちで、パーチェが三つ目の焼き菓子に手を伸ばしていた。

「まだ食べるのか」

「あら。王宮の夜会ですもの」

 基準がわからない。

「こういう場では、用意してくださったお菓子を楽しむのも礼儀でしょう?」

「初めて聞く理屈だな」

「そうかしら?」

 きょとんとされると、もう強く言えない。


 俺は思わず息を吐いた。

 こんな呑気な令嬢がいるのか。いや、いるから目の前にいるのだが。


 しかも見ているうちに、だんだん目が離せなくなってくる。

 次は何を食べるのか。

 この騒動をいつ気にするのか。

 本当に最後までこのままなのか。


 そんなことばかり考えている自分に気づき、少し頭が痛くなった。


 やがて、ようやくパーチェが皿を置いた。

「……満足しましたわ」

「そうか」

 なぜだろう。少しだけ達成感がある。


 彼女はそこで初めて、騒ぎの中心へ視線を向けた。

「あちらは何をしているのかしら?」

「今さらか」

「何だか大変そうですわね」

「大変どころではないな」


 パーチェはしばらく眺め、それからあっさりと言った。

「では、わたくしはそろそろお暇しようかしら。貴族として夜会にはきちんと参加しましたし」

「参加の仕方がずいぶん自由だったな」

「お菓子もたくさんいただきましたわ」

 誇らしげに言うな。


 だが、そんな顔まで可愛く見えてしまうのだから困る。


 彼女が一歩踏み出した瞬間、俺は考えるより先に口を開いていた。

「お送りします」

 パーチェがぱちぱちと瞬く。

「まあ、どうしてですの?」

「どうしてって……」


 どうしてだろうな。


 修羅場のど真ん中でお菓子を食べ続けるような令嬢を、このままひとりで帰すのが妙に気になった。


 いや、それだけではない。

 もっと見ていたいと思ったのだ。

 この令嬢が、次に何を言うのか。何を食べたがるのか。何に首をかしげるのか。


「先ほどから騒がしいですけれど、あちらでは何をしているのかしら?」

 本気でわかっていない顔で問われて、俺はとうとう苦笑した。

「……本当に気付かないのですね」

「何にですの?」

「いえ。こちらの話です」

 俺がそう言うと、パーチェはますます不思議そうにしたあと、ふと小さく微笑んだ。


「では、お言葉に甘えて送っていただきますわ。帰り道に、王宮の焼き菓子の感想を語ってもよろしくて?」

「……ええ、どうぞ」

「よかったです。実は先ほどの苺のタルト、生地の香りがとてもよくて」


 夜会の喧騒を背に、俺たちは並んで歩き出す。

 向こうではまだ王太子が何か喚いていたが、もうどうでもよかった。


 今の俺にとって大事件なのは、そちらではない。

 修羅場の中でひとりだけいつも通りで、タルト一つで幸せそうに笑う、この令嬢のほうだ。


「アストレア様?」

「エルヴィオで」

「……では、エルヴィオ様」


 パーチェは素直に呼び直し、それから少しだけ目を輝かせた。

「次の夜会も、お菓子はたくさん出るのでしょうか」


 俺は吹き出しそうになるのをこらえ、肩をすくめる。

「どうでしょうか。ですが、もし出るなら」

「出るなら?」

「またご一緒して、見届けましょう。あなたが何皿食べるのか」

「まあ。失礼ですわ!」

 そう言いながら、彼女は少しも怒っていなかった。


 むしろ楽しそうで、俺はとうとう笑ってしまった。


 たぶん次の夜会でも、この令嬢は修羅場より菓子卓を選ぶのだろう。


 そして俺はきっと、また呆れながら、その姿を目で追ってしまう。

 ……本当に、困った令嬢だ。


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― 新着の感想 ―
まさかの脇役が主役。おそらくメインの二人も気付いていたのでは。二人の心の声を聞いて見たいですね。
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