のんびり令嬢、王宮の修羅場でもお菓子を食べています
王宮の大広間が、ざわめきに包まれた。
「ヴィノリア・エーデルバイン! 君との婚約は、今日この場をもって破棄する!」
夜会の中央で、王太子オリアン殿下が高らかにそう宣言したからだ。
楽団の音が止み、貴族たちが一斉に息を呑む。
王宮の夜会など見慣れているはずの俺ですら、さすがに息を呑んだ。
扇の陰で目を見開く令嬢たち、慌てて顔を見合わせる貴族たち。
まさに王宮の修羅場だった。
――なのに。
「……あの令嬢は、何をしているんだ」
俺、エルヴィオ・アストレアは、思わずそう呟いていた。
視線の先。
大広間の端、立派な菓子卓の前で、ひとりの令嬢が小さなフォークを動かしていた。
淡いミルクティーブラウンの髪。
やわらかそうに巻かれた髪が肩先で揺れ、蜂蜜色の瞳が、きらきらと目の前の皿を見つめている。
パーチェ・ルチェリア。
社交界で特別目立つわけではない、どちらかといえば地味な伯爵令嬢だ。
だが今この瞬間、彼女は妙に目立っていた。
なぜなら――王太子の婚約破棄宣言の真っ最中に、平然とケーキを食べていたからである。
「……いや、食べるなとは言わないが、なぜ今だ」
隣にいた友人が「どうした?」と首を傾げたが、俺は答えなかった。
答えるより先に、パーチェが次の皿へ手を伸ばしたからだ。
食べ終えた皿を侍女に下げさせ、彼女は真剣な顔で並んだ菓子を見比べている。
その横では、殿下が得意げに続けていた。
「君は冷たく高慢だ! だがミルヴァは違う! 彼女こそ真に愛らしく、私にふさわしい!」
金髪をきらめかせた王太子の腕には、ふわふわの巻き髪を揺らすミルヴァ・セレニアがしなだれかかっている。
会場の空気がさらに冷えた。
だがパーチェは気にしない。
「うーん……」
何を悩んでいるのかと思えば、焼き菓子にするか、苺のタルトにするかで迷っているらしい。
おい、今そこか。
「……本気か、あの令嬢」
気づけば俺は、婚約破棄騒動よりも彼女の動向を追っていた。
パーチェはしばらく悩んだ末、苺のタルトを選んだ。
小さくうなずき、フォークを入れる。
その顔が、少しだけほころぶ。
「……そんなにうまいのか」
思わず漏れた声に、自分で驚く。
何を見ているんだ、俺は。
普通なら王太子の無茶に頭を抱える場面だ。
実際、婚約者であるヴィノリア嬢は静かに扇を閉じ、ひどく冷ややかな目で殿下を見ていた。
「殿下。公の場でそのような浅慮な真似をなさるとは、いよいよ救いがありませんわね」
「なっ……!」
「そちらのご令嬢を選ばれるのはご自由ですけれど、まずはご自身の立場と責任を学ばれてはいかがですの?」
強い。
さすがヴィノリア嬢である。
会場のあちこちで「おお……」と小さな感嘆が漏れた。
ミルヴァ嬢が「まあ、ひどいですわ」と声を上げ、殿下は真っ赤になって言い返す。
修羅場はさらに加速した。
……だが、やはりパーチェは気にしない。
今度は紅茶まで手に取っていた。
優雅にひと口飲み、それからタルトをもうひと口。
もぐもぐと頬を動かしている。
小動物か。
「食べ過ぎではないか……?」
つい口に出た。
「誰がです?」
「……っ」
いきなり真横から声がして、俺は肩を揺らした。
いつの間に来たのか、パーチェが不思議そうにこちらを見上げている。
近くで見ると、やはり派手ではないが、かなり可愛い。
丸い瞳が不思議そうにこちらを見ていた。
「い、いや。何でもない」
「そうですの?」
彼女は首をかしげた。ふわりと髪が揺れる。
「今日はお菓子が豪華ですわね。王宮の夜会はやはり違いますわ」
「……今、そこに感心していたのか」
「他に何かありますの?」
ある。大ありだ。
あちらで王太子が人生を派手に踏み外しかけている。
だがパーチェは本気でわかっていない顔をしていた。
いや、違う。わかっていないというより、興味がないのだ。
あれはあれ。これはこれ。
目の前のタルトのほうが大事。
そういう顔だった。
「この焼き菓子もおすすめですわ」
勧めるな。今この状況で。
「ルチェリア嬢」
「パーチェで結構ですわ」
さらりとそう言って、彼女は皿を差し出してきた。
「アストレア様も召し上がります?」
なぜ俺の名を知っている。
いや、夜会で顔くらいは知られていてもおかしくないか。
しかしこの流れで菓子を勧められるとは思わなかった。
「……もらおう」
「まあ。よかったです」
パーチェは嬉しそうに笑った。
その瞬間、なぜか胸の奥が少しだけ妙な音を立てた。
可愛いな、と。
認めたくないが、思ってしまった。
向こうではまだ修羅場が続いている。
「ミルヴァは君のように冷たくない!」
「でしたら、そのお優しいご令嬢とどうぞお幸せに。わたくしは止めませんわ」
「なっ……!」
ヴィノリア嬢の圧勝である。
もはや誰が見てもそうだ。
そしてこっちはこっちで、パーチェが三つ目の焼き菓子に手を伸ばしていた。
「まだ食べるのか」
「あら。王宮の夜会ですもの」
基準がわからない。
「こういう場では、用意してくださったお菓子を楽しむのも礼儀でしょう?」
「初めて聞く理屈だな」
「そうかしら?」
きょとんとされると、もう強く言えない。
俺は思わず息を吐いた。
こんな呑気な令嬢がいるのか。いや、いるから目の前にいるのだが。
しかも見ているうちに、だんだん目が離せなくなってくる。
次は何を食べるのか。
この騒動をいつ気にするのか。
本当に最後までこのままなのか。
そんなことばかり考えている自分に気づき、少し頭が痛くなった。
やがて、ようやくパーチェが皿を置いた。
「……満足しましたわ」
「そうか」
なぜだろう。少しだけ達成感がある。
彼女はそこで初めて、騒ぎの中心へ視線を向けた。
「あちらは何をしているのかしら?」
「今さらか」
「何だか大変そうですわね」
「大変どころではないな」
パーチェはしばらく眺め、それからあっさりと言った。
「では、わたくしはそろそろお暇しようかしら。貴族として夜会にはきちんと参加しましたし」
「参加の仕方がずいぶん自由だったな」
「お菓子もたくさんいただきましたわ」
誇らしげに言うな。
だが、そんな顔まで可愛く見えてしまうのだから困る。
彼女が一歩踏み出した瞬間、俺は考えるより先に口を開いていた。
「お送りします」
パーチェがぱちぱちと瞬く。
「まあ、どうしてですの?」
「どうしてって……」
どうしてだろうな。
修羅場のど真ん中でお菓子を食べ続けるような令嬢を、このままひとりで帰すのが妙に気になった。
いや、それだけではない。
もっと見ていたいと思ったのだ。
この令嬢が、次に何を言うのか。何を食べたがるのか。何に首をかしげるのか。
「先ほどから騒がしいですけれど、あちらでは何をしているのかしら?」
本気でわかっていない顔で問われて、俺はとうとう苦笑した。
「……本当に気付かないのですね」
「何にですの?」
「いえ。こちらの話です」
俺がそう言うと、パーチェはますます不思議そうにしたあと、ふと小さく微笑んだ。
「では、お言葉に甘えて送っていただきますわ。帰り道に、王宮の焼き菓子の感想を語ってもよろしくて?」
「……ええ、どうぞ」
「よかったです。実は先ほどの苺のタルト、生地の香りがとてもよくて」
夜会の喧騒を背に、俺たちは並んで歩き出す。
向こうではまだ王太子が何か喚いていたが、もうどうでもよかった。
今の俺にとって大事件なのは、そちらではない。
修羅場の中でひとりだけいつも通りで、タルト一つで幸せそうに笑う、この令嬢のほうだ。
「アストレア様?」
「エルヴィオで」
「……では、エルヴィオ様」
パーチェは素直に呼び直し、それから少しだけ目を輝かせた。
「次の夜会も、お菓子はたくさん出るのでしょうか」
俺は吹き出しそうになるのをこらえ、肩をすくめる。
「どうでしょうか。ですが、もし出るなら」
「出るなら?」
「またご一緒して、見届けましょう。あなたが何皿食べるのか」
「まあ。失礼ですわ!」
そう言いながら、彼女は少しも怒っていなかった。
むしろ楽しそうで、俺はとうとう笑ってしまった。
たぶん次の夜会でも、この令嬢は修羅場より菓子卓を選ぶのだろう。
そして俺はきっと、また呆れながら、その姿を目で追ってしまう。
……本当に、困った令嬢だ。




