第1話:魔王、辞めました
「魔王様、勇者一行が第三防衛線を突破しました! このままでは玉座の間まであと一時間も持ちません!」
側近のダークエルフが、悲鳴のような報告を上げる。
石造りの重厚な玉座の間には、爆発音と振動が遠くから響いてきていた。天井からパラパラと砂埃が落ちてくる。
いよいよか、と私は思った。
三百年生きた。世界を恐怖に陥れたこともあった。だが、もう潮時だ。
「うむ。ご苦労だった」
私は玉座からゆっくりと立ち上がった。漆黒のマントを翻し、威厳たっぷりに告げる。
「あとは頼んだぞ」
「はっ! ……え?」
側近が間の抜けた声を出す間に、私は玉座の後ろにある隠し扉を開けた。
ここは緊急脱出用の通路ではない。ただの掃除用具入れだ。だが、その奥の壁には私が百年前からコツコツと掘り進めておいた、誰にも知られていない抜け道がある。
「魔王様!? どちらへ!?」
「散歩だ。……永遠のな」
私はニヤリと笑い(練習した甲斐あって、完璧な邪悪な笑みだったはずだ)、暗闇へと身を躍らせた。
さらばだ、部下たちよ。さらばだ、勇者よ。
私は今日限りで、魔王を辞職する。
***
それから半年後。
私は人間たちの王都、その片隅にある木造アパートの二階にいた。
「……高い」
スーパーマーケットのチラシを見つめながら、私は重いため息をついた。
卵の値段が先月の二倍になっている。パンも、野菜も、何もかもが値上がりしていた。
これがインフレーションというやつか。
魔王城にいた頃は、物資など略奪するか貢がせるものだったから、値段など気にしたこともなかった。だが、善良な市民(偽装)として生きる今、この物価高は死活問題だ。
「ベルナール様、いらっしゃいますか?」
ドアがノックされ、鈴のような声が聞こえた。
私はビクリと肩を震わせる。勇者の襲撃よりも恐ろしい、家賃の取り立てだ。
ドアを開けると、そこにはエプロン姿の栗色の髪の少女が立っていた。リーゼロッテだ。このアパートの大家の娘であり、私の部屋の掃除や洗濯を有料で請け負ってくれている。
「あ、ああ、リーゼロッテ君。おはよう」
「おはようございます。今月のお家賃と、家事代行費の請求書です」
彼女が差し出した紙切れを見て、私はめまいを覚えた。
持参した金貨は、この半年で驚くべき速度で溶けていった。魔族互助会からの年金(という名目の隠し資産の送金)も、最近の魔法通信障害のせいで滞っている。
「……すまない。もう少し待ってもらえないだろうか」
「困ります。父が『あの無職の中年はまだ払わんのか』と怒っていますよ」
「無職ではない! 隠居だ! ……いや、求職活動中だ」
元魔王が家賃滞納で追い出されたなどと知れたら、魔界の恥だ。
私はなけなしの小銭をかき集め、なんとか半額だけ渡して彼女を納得させた。
「はぁ……働くか」
私は重い腰を上げた。
しかし、何ができる?
『世界を滅ぼす程度の魔力』は封印した。今の私に残っているのは、魔王時代に身についた無駄に偉そうな態度と、いくつかの地味なスキルだけだ。
街の広場に出ると、いつも以上の熱気が渦巻いていた。
人々がある一点を目指して流れていく。
その先にあるのは、巨大な石造りの建物。
正面には『王都証券取引所』と刻まれた看板が掲げられている。
「……なんだ、あれは」
建物の上空には巨大な魔法スクリーンが浮かび、数字と文字が目まぐるしく変動している。
『ポーション製薬 1,200G ▲50』
『ミスリル鉱業 4,500G ▼120』
人々はその数字を見て、歓声を上げたり、頭を抱えたりしている。
ある者は一夜にして富豪になり、ある者は路地裏で絶望に暮れる。
そこには、剣と魔法の戦いとは違う、だが確かに血なまぐさい「戦場」があった。
「ほう……」
私は無意識のうちに、その建物へと足を向けていた。
魔王としての本能が告げている。
ここには、力(金)がある。そして、支配すべき混沌がある、と。
「面白そうだ」
私は口元を歪めた。
隠居生活の暇つぶしには、ちょうどいいかもしれない。




