SLで事件は起きた②
◇
車内は、通路を挟んだ両側に二人用の長椅子が敷き詰められ、各椅子の向きは、進行方向と逆方向が交互になるようにしてある。
天胡「私らは窓側の席でしょ?」
真弓「全部窓側だよ」
三人の席は、対面で座れる席であった。青樺と真弓はが同じ椅子に、向かいの椅子に天胡が座る。
発車から二分後、車内アナウンスにて。
車掌「SLアキトエクスプレスのご乗車ありがとうございます。本日も変なお客様で盛況です」
真弓「本日も、なんだね」
車掌「当列車は、石炭を燃やした熱で水を沸騰させ、その水蒸気の力を利用して走行しており、都心から最も近いSLとして多くの観光客から支持を得ております」
青樺「飽きた」
真弓「早いよ」
青樺「ちょっとトイレに行ってくる。そうしたら寝る」
と言って、青樺は通路を進んで行くが、向かいから来る一人の中年男とぶつかった。
青樺「おい、お前っ……」
男は青樺を見つめると、ヒィッ、と怯えた。途端に固まったように動かなくなった。
この男は、布袋慎一。そう名乗らなかった。
青樺「今、わたしのお尻を触ったよな?」
布袋「いっ、いいぃい……いぃ……いや、触っててててて……いないです」
青樺「本当に触っていないなら、そんな動揺はしないだろっ!」
布袋「触ってません」
青樺「今更落ち着いたって遅いんだよっ! 触ったんだろ?」
布袋「チッ、やはりバレていたか」
青樺「当たり前だ。証言がなくても、目撃者がいなくても、わたしのお尻が覚えているんだ」
布袋「なんて信頼されているケツなんだ……」
他の乗客そっちのけで二人の口論が始まると、みかねた真弓が二人の元にやって来て、
真弓「何やってんのさ?」
青樺「お尻を触られた」
布袋「すみませんでしたーっ。許してくださーいっ」
布袋は間髪入れず、その場で土下座した。
青樺「お前はなぁ、痴漢がどんなものかわかってんのか? 何らかのまとまりがなぁ、記号化されてしまうんだぞ」
真弓「それ、痴漢じゃなくて置換」
布袋「すみません。痴漢するつもりはなかったのですが、どうやら弛緩していたようです」
青樺「言い訳は聞かん。まさか犯罪に巻き込まれるなんてな。本当に遺憾だ。だがな、お前もそんなに悲観するな。許そう」
真弓「許しちゃっていいの? いや別に当事者は姉さんだから、勝手にしてもらって構わないけど」
青樺「許すっ! 如何せん、わたしは初めてお尻を触られた。わたしの初めてを奪うなんて……。ただ者じゃないぞ、こいつ」
真弓「もっとマシな言い方ないの?」
青樺の言葉に布袋は、涙を流しながら、
布袋「ほっ、本当ですか? ありがとうございます」
青樺「わかったらさっさと席に戻れっ!」
こうして布袋は、一目散に青樺から離れて行った。
一連の様子を見ていた乗客の梅子さん曰く、
梅子「このSLでは痴漢が多いんです。あなた方も気をつけてね」
青樺「何だよ。蒸気機関車かと思ったら、常軌痴漢車じゃねえか」
真弓「文句もいいけど、姉さんは早くトイレに行きなさい」
青樺「そうだった。忘れてた。というか、さっきの奴、逃がすんじゃなかったなぁ。お尻触りたがってたし、あいつにわたしのお尻を拭いてもらえばよかったわ」
真弓「やめなさい、この場でそんなこと言うの。姉さんの尻拭いは誰がやると思ってんだ」
青樺「……ごめんなさい」
こうして青樺はトイレに行った。二人が元の席に戻ると、青樺は真弓の膝に頭を載せる。
青樺「なんだか疲れちゃった。まだ……出発十分ぐらいなのに……。もう、ダメ……」
寝た。ようやく寝た。しばらくの間、真弓は膝の重みに耐えながら、天胡と一緒に外の景色を見て話していた。
真弓「本当に子どもみたいだね。姉なのに……」
天胡「青樺姉も猫被っとけば、いい人なのに」
真弓「猫被ってる時点でいい人じゃないよ」
天胡「私、古文の単語帳読んでるね」
真弓「景色見なよ。勉強もいいとは思うけどさ」
一時間後。眠りから覚めた青樺は、僅かに朦朧とする意識を戻そうと、肩を伸ばすなどのストレッチを行った。
真弓「窓開けるから、外の空気を吸いなよ」
青樺「嫌だよ、自然の空気なんて」
真弓「何でよ。美味しいじゃん、外の空気」
青樺「その空気を汚しているのは、SLの排気ガスだぞ。美味しいわけないだろ。何が美味しい空気だよ」
天胡「でもこの機関車、結構良い石炭使ってるよ」
青樺「それは知らなかった。ごめんなさい。お詫びにたくさん空気を吸います」
と言って、本当にたくさんの空気を吸った。これにより体内のガス交換が過度に促され、青樺の意識も冴え渡っていく。
それと同時に事件は起きた。柏姉妹とは通路を挟んだ反対側の椅子、そこには一人の男が、向かいには竹子がいる。男は右手にハンバーガーを持っているが、どうにも様子がおかしい。ゲップが止まらず、顔も青ざめていた。今にも吐き出しそうだった。そして吐いた。
運よく竹子が、ビニール袋を差し出したことで、車内が大惨事になることは防げた。
青樺「ちょっとわたしが見てくるよ。今、機嫌がいいし」
真弓「大丈夫なの? 心配」
天胡「行かせてあげなよ。どうせ何とかなるでしょ」
青樺「あぁ、任せろ。こういうときに、いつも波紋を広げるのはわたしなんだ」
真弓「……じゃあ戻れっ!」
そして青樺は、体調不良の男に近寄る。この男は、薬袋恒義。そう名乗らなかった。
青樺「あなた、大丈夫じゃないな?」
薬袋「これが大丈夫なわ……、あっ、うん。大丈夫じゃない。そうです……」
すると、向かいの竹子も薬袋を宥めるように、
竹子「さっきまでおとなしかったのに。急にどうしちゃったの……」
青樺「原因は何だろう。このハンバーガーは車内販売のやつか?」
薬袋「車内販売にこんなのねーよっ! これは家にあったハンバーガーだ。外の景色を見ながら食べようと思って」
青樺「こんな煙い景色で楽しいか?」
竹子「やだぁ。この機関車、良い石炭使ってるじゃない」
青樺「忘れてた。ごめんなさい」
薬袋「……景色は見ていておもしろいよ。小鳥たちのさえずりに混じる車のクラクションとか、壮麗な樹木と共存する産業廃棄物とか、雄大な山々に聳え立つソーラーパネルとか」
青樺「楽しくなさそーっ!」
薬袋「そもそもあなた、何してるんですか? 僕のハンバーガー、盗み食いするつもりですか? これ賞味期限切れですよ」
青樺「違う。あなたが突然吐いた原因を知りたいんだ。わたしはハンバーガーの食べ過ぎが原因と考えているが、どうだ?」
薬袋「違うと思う。おそらく不眠が原因だ」
不眠ゆえか、薬袋の情緒は次第に不安定になっていく。
青樺「何と⁉︎ ハンバーガーは関係ないのか。で、不眠と言うが、睡眠時間はいくらだ?」
薬袋「一睡もしてねえよっ!」
青樺「お前やめておけ。徹夜なんて体に悪いぞ。死ぬ気か?」
薬袋「僕は死にましぇん」
青樺「それ、鉄矢」
薬袋「うるせえ。僕に関わるんじゃねえ。目障りなんだよっ!」
青樺「誰が目障りなんだよっ?」
薬袋「お前だよっ!」
竹子「まあまあ、落ち着こうよ、恒義くん」
薬袋「お前も誰なんだよっ! というか何で名前知ってんだ?」
薬袋によって押し出された青樺は、元の席に戻る。
天胡「どうだったの?」
青樺「あの小学生が救護人のプロになれるかもしれないこと以外わからなかった」
真弓「そんな話してなかったでしょ」
青樺「いやいやいや、本当にすごいんだよ、あの女の子。ズボンの前ポケットにはレジ袋がいっぱい入っているの。で、ズボンの後ろポケットにもレジ袋が入っているの。そしてズボンの内ポケットにも」
真弓「どこにポケットがあんだよっ! それじゃあ取り出すとき、股間を弄っているみたいになっちゃうでしょ。下品なのは良くないっ!」
天胡「別に袋ぐらい青樺姉も用意しているでしょ?」
青樺「そりゃあしているぞ。わたしのリュックの中にはシュークリームの袋が、靴の仲には煎餅の袋が、最後に椅子の下には菓子パンの袋が」
真弓「さっさと捨てなさいよっ!」
青樺はゴミをまとめてリュックに入れた。
天胡「青樺姉もまだまだね。あの女の子には勝てないか」
青樺「あぁ。あの子、凄いよ。全自動エチケット袋ロボかと思ったよ」
真弓「なるほど、エチケット袋だけに、嘔吐(AUTO)で対応するのか。いや汚いよっ! やめなさい」
青樺「…………珍しいな、真弓」
天胡「今日、私以外みんな変だよ」
青樺「こういうときこそ、真弓の出番だろ」
天胡「ホントそう。この卵が腐ったみたいな空気感を変えていけるのは、まゆの一声だけだ」
青樺「さぁ。勇気を持って、思ったことを言ってごらん」
真弓「いや、勇気がないんじゃなくて、言う気がないの」
青樺「あー、これ正常だわ」
天胡「うん。全く問題ないね」
と安心したところで、次は天胡が薬袋の元に近寄って行く。
真弓「もうそっとしておいてあげなよ」
という声も振り払った天胡。
真弓「お願いだから、善意の押し付けにならないようにね」




