第四話 最初の『お礼』
何だか佳澄と対面してから様々なことが起こり過ぎていたし、何なら日依自身が持ち掛けた提案が最も場を掻き乱したような気がしないでもないが…ともあれ。
少々突拍子が無さすぎるこちらの申し出を受け入れてもらえたため、これで佳澄が路頭に彷徨うことは無くなり一件落着──かと思われたのだが。
やれやれと満足げに立ち上がろうとした日依を横目に、どういうわけかそんな彼女を見つめて悩まし気な面持ちとなった佳澄の姿を見てこちらも動きを止めてしまった。
「ふーむ…そうなると、どうしたものかな」
「あれ…どうしたの、小野寺さん? 何か不満なところでもあった…?」
「ううん、そうじゃなくてね。旗倉さんの提案は凄く嬉しかったしありがたいって思ってるよ。ただ何というか、それだとこっちが貰いすぎだから…お返しの方をどうしようかと」
「…お返し?」
口元に人差し指を添え、そんな様子さえも映える美しさを持った佳澄は相変わらずだがそれよりも気になるのは彼女が口にした内容。
日依から持ち掛けられた解決策に対する感謝と共に伝えられてきたのは、これまた首を傾げてしまいそうな類のもの。
しかしそれを聞かされて疑問符を頭に浮かべた日依に構うことなく佳澄は言葉を続ける。
「そうそう。流石にこの条件だと私が一方的にメリットを貰いすぎだから、同じ分だけ旗倉さんにもメリットを提供しなきゃなって」
「別にあたしは気にしてないけど…勝手に使ってくれればそれでいいから、お礼はいいよ?」
「ダメダメ。こういうのはしっかりしておかないと後々面倒になるからね」
「ふぅむ…分かった。じゃあ何をしてくれるの?」
正直佳澄がそこまで考えてくれていたとは想定外だったのだが、意外にも律儀な性格をしていた彼女からすると己だけが利を享受する環境は受け入れ難かったのかもしれない。
日依としては決して彼女だけが得をしているなんてことは無いし、ずっと家では一人で過ごしていたので微かに感じていた寂寥感を紛らわせることが出来るという利点もあるものの…そこはスルーされてしまったようだ。
しかしここで無理に佳澄のお返しとやらを拒否したところで現状が良い方向に進むとも思えないので、『無理をしなくても…』とこぼれかけた心の声はグッと抑え込む。
……ただ、何と言うべきか。
そんな気楽な態度で向こうが何をしてくれるのか、ほんの少しワクワクとした心境でいた日依に投げかけられてきた案は、彼女の予想を凄まじい勢いで上回ってくるものであった。
「とりあえず今考えてる案としては、ここで過ごさせてもらう代わりに滞在費用を渡すとかかな。一日当たり一万円くらいでいい?」
「待って待って!? お返しってそういうのなの!?」
「へ、何か違った?」
…とてもあっさりとした態度で語られてきた割には、その内容はあまりにもぶっ飛んでいる。
そもそもお礼は不要だと伝えていたはずなのに…それを聞いたうえで尚、ここで時間を過ごすために金銭を支払おうなどと言い出したのだ。
しかもその額がまたおかしすぎる。
佳澄本人はこれくらいが妥当だろう、と言わんばかりにあっけらかんとした対応を貫いていたがどこの世界にクラスメイトの家に上がるだけで万札を支払おうとする高校生がいるというのか。
金銭感覚が狂っているとしか思えない提案を前にしてしまえば、流石の日依も動揺は避けられず…半ば反射的に、気が付いた時にはその申し出を蹴っていた。
「当たり前だよね!? いくら何でもその金額はおかし──って、そこじゃなくて! そもそもお金とかいらないから!」
「えっ、お礼としてはこれが一番妥当かなと思ったのに……旗倉さんは変わってるね」
「…あたしがおかしいの、これ?」
勢いのままに金銭のやり取りなど不要だと伝えこそしたが、そこで返ってきたのはまるでこちらの方がおかしいとでも言わんばかりに首を傾げる佳澄のリアクション。
本心から日依が何に困惑しているのか分からないと言わんばかりの反応をされてしまったので、もしやおかしいのはこちら側か…?などと一瞬考えそうになるも踏みとどまる。
そんなことは無い…はずだ。
流石にこのようなケースを前にすれば誰であろうと戸惑うことは避けられず、この反応が世間一般的には正しいに違いない。というかそうでなくてはならない。
如何なるメリットがあろうとも、今の提案を聞いてはいそうですかと早々に受け入れでもしたらそちらの方が余程異常だろう。
「とにかく! お金を払うとかそういうのは無しで! お礼をしてくれようとするのは嬉しいけど、やるならもう少し別のものでお願いします!」
「そうだなぁ…あっ、じゃあこういうのは?」
「……今度は何?」
少々話題転換の手法が強引だったかもしれないが、それでもこればかりは易々と認めるわけにもいかないのでもう少し違う内容にしてほしいと懇願すれば代案を出してきた。
本音を言えば今のやり取りだけでかなりお腹いっぱいではあるものの、その中身が次こそまともなものであることを信じて恐る恐る確認した。
すると…今度は先ほどとは打って変わって、驚くほどにまともな内容を持ち掛けられる。
「私のお礼だけど、やっぱり家に居させてもらうことへの対価はしっかり渡しておきたいから…『一日一回、私が旗倉さんに何か喜んでもらえそうなことをする』ってことならいいでしょ?」
「喜んでもらえそうなこと…って、肝心の中身は何するつもりなの」
「それは分からないよ。その時の私の気分と独断と偏見で内容は決めるつもりだからさ」
「そこはかとなく不安だ……」
向こうから提供されてきた代案は、さっきと比較すればまだまともに思える類のもの。
もちろん佳澄の性格を掴み切れていない現状で、このような曖昧な内容のままに生活のルールが定められてしまう事には不安も感じるが…まぁ、さっきよりはマシかなどと考えてしまったので日依も中々彼女に毒されてきたのかもしれない。
「別にそっちが嫌がるようなことはしないよ。あくまでもこのルールは『旗倉さんが喜んでくれること』に限定してるからね」
「んん~……まぁ、それなら…いいのかな?」
「じゃあ決まりだね。となれば早速だけど…今日の分の『お礼』、しちゃおっか」
「えっ? それって今日から適用されるの?」
渋々ではあれど、この提案を受け入れなければ堂々巡りの問答が延々と繰り返されてしまう。
それはご勘弁願いたいところだったため、仕方なくそれで了承すれば…何と佳澄は早速その『お礼』とやらを実行しようとしてきた。
「当然だよ。今日も旗倉さんにはお世話になったんだし、その分はきっちり返さないと。ほらほら、ちょっとこっち来て?」
「いいけど…いきなり言われても何するの───…へ?」
「──ふふふ、捕獲完了。これで逃げられないし……ん」
……そうして自分のペースを崩すことなく、また日依の意見に耳を貸すことも無く手招きをしてきた佳澄の言う通りに疑問は抱えつつも少しずつ近寄る。
ただ──次の瞬間。
それまでとは比較にもならないほどのスピードで手を伸ばしてきたかと思われた佳澄はいつの間にか日依の身体に腕を回し、彼女の体勢を固定すると逃走不可能な状態まで彼我の距離を密着させてきた。
…遠目から見ていても佳澄の容姿がずば抜けて優れていることは百も承知であったが、こうして間近で見るとその説得力もレベルが違う。
同性の日依でさえも見惚れてしまいそうになる、端正な顔立ちをした彼女の姿に目を奪われかけ……しかし。
意識がそちらに傾きかけた次の瞬間に、日依の頬へと自身の唇を押し付けていた佳澄の行動に、彼女の脳内は一瞬真っ白になった。
「……はい、今日はとりあえずこんな感じでね。あとは明日のお楽しみ…ってことで」
「…………な、なな…何するのっ!?」
「え、何って…旗倉さんが喜んでくれるだろうことだけども」
「『お礼』ってこういうことだったの!?」
突然のキス…とはいっても頬にされただけだが、不意打ちだったことと同じ女子である日依から見ても優れた美貌を持つ佳澄からそんなことをされてしまったことで内心の動揺が隠し切れない。
ただ、彼女の方はそんな日依の困惑を見ても全く動じず言葉を返している。
「これくらい女の子同士なら普通だよ。それにほら、旗倉さんも…内心でちょっとくらいは喜んでくれたんじゃない? これでも私、かなり見た目は良いって自負してるからね」
「う…っ、で、でも! ほぼ初対面の相手にいきなりこういうことをするのは…!」
「そーう? だけど私、結構旗倉さんのことは好きだよ?」
「…はい?」
同じシチュエーションを体験した者だというのに、日依は掻き乱される感情を露わにして佳澄はいつも通りの落ち着いた雰囲気でそこに居座っている。
攻める者と攻められる者。
まるでその構図が完成したかのような錯覚を覚えそうになる状況を前に…しかし。
新たに出されてきた情報の洪水を眼前にしてまたもや日依は思考停止状態に陥りかける。
「ま、そんなわけだから明日はまた別の『お礼』をさせてもらうよ。…楽しみにしててくれていいからね?」
「…っ! ちゃ、ちゃんと事前に内容を教えてくれたら良かったのに…」
「それじゃあ面白くないじゃん。じゃっ、私は今日の所はこれでお暇させてもらって──あ、そうそう」
「うん…?」
つい数分前まではどちらかと言えば日依が場の雰囲気を牛耳っていたはずだというのに、今や空気感は完全にあちらのペースだ。
そうこうしている間にもいそいそと帰宅の準備を始めた彼女は…ふと何かを思い出したかのようなリアクションを見せた。
されどそこで投げかけれてきた発言は、これまた予想の斜め上。
「いや大したことでも無いんだけどさ。せっかくこうして話すようになったんだからお互い名字で呼ぶのは仰々しいじゃん? だからこれからは日依って呼ばせてもらうね。そっちも名前で呼んでくれたらいいから」
「え……なら、か、佳澄さん?」
「さんは取ってくれてもいいのに…まぁそれが日依の良いところでもあるか。オッケー。じゃあ明日からはそんな感じで。今日はありがとうねー」
実にあっさりとした態度のまま、お互いの呼び方を変えると宣言してきた佳澄は言葉通りに日依を下の名前で呼んできた。
そしてそれに続くように日依も佳澄のことをさん付けではあれど、名前呼びすることにほとんど流れで決定し…佳澄はこちらが呆気に取られている隙に帰ってしまった。
……この場の空気を散々掻き乱すだけ掻き乱したまま。
「………もしかして、あたし…サラッととんでもない子と約束しちゃった?」
最初は、単なるお節介だったはずだ。
道端に倒れていた佳澄を見て見ぬふりすることが出来ず、それでいて見捨てることも出来なかったものだから彼女を自宅に招いた。
そこから何の気なしに自宅を時間を潰すために使っても良いと進言し、それを受け入れた彼女は義理堅い性格を見せてこちらにしっかりとお礼もすると断言してくれた。
…が、そこで唯一彼女のしてしまったミスがあるとすれば。
これから始まる共同生活の中。
幾度となく繰り返されることになるだろう『お礼』と称して仕掛けられてくるスキンシップの、距離感がやたらと近い佳澄の誘惑紛いな行動を先んじて見抜けなかったこと…だったのかもしれない。




