第三四話 本当の想いは
──話は少し前に遡り、水族館を出た直後に菫と偶然の対面を果たしたところまで巻き戻る。
菫の一見心無いようにも思える返事を聞いた佳澄がやりきれない感情のままに走り去ってしまい、それを追いかけようとしたところで…日依は近くの彼女に呼び止められる。
そこにてまるで娘のことを案じる母親のような言葉を掛けられて──進めようとした足が止まるのと同時に、彼女の中で一つの違和感が浮かび上がる。
「──あのっ!! …少しだけお時間、もらってもいいですか」
「………何かしら?」
「…いきなり呼び止めてしまって、すみません。でもこれだけはあなたに…菫さんに直接聞かせて頂きたいんです」
「…あまり、時間もないのだけど。まぁいいわ。私に答えられる範囲の事なら旗倉さんにもお教えしましょう。…それで、聞きたいことって?」
「はい。あの、菫さんは──…」
──思えば、最初の頃から心のどこかに引っ掛かる点はあったはずだ。
佳澄経由で家庭環境にまつわる話を聞いた頃から、あるいは顔も名前も知らぬ時に菫と驚愕の対面を果たした時から。
いや、もしかすればそれ以前から……日依は自分の心にどうも納得のいかない部分があるように思えてならなかった。
これは、単純に彼女の考えすぎなのかもしれない。
しかしそう結論付けようとしても、思考を巡らせていけばいくほどに日依の中で疑念の割合は大きくなっていき…そして今。
偶然とはいえ、菫と再び相まみえる機会を得た上で投げかけられてきた発言。
向こうから『佳澄と仲良くしてあげてほしい』という旨のメッセージを送られてしまった日依の胸の内では、拭いきれなくなった違和感がどんどんと大きくなって。
もしかしたら、万が一の可能性があるなら。
その一心で気が付いた時には考えるよりも先に口を開いていた日依が問いかけた一つの疑惑とは………。
「──…菫さんは、佳澄さんのことを嫌っているんですか?」
「……はぁ?」
…菫は、本当は佳澄のことを嫌ってなどいないのではないかというものだった。
分かっている。いくら何でも考えが飛躍しすぎていることは。
荒唐無稽にも程がありすぎる内容で、これまでの話と佳澄の態度を合わせて考慮したらそんな可能性などあるはずも無いのに。
けれども、どうしても菫が佳澄に対して無関心でいるという状況が間違っているのではないかとの考えが浮かんでは消えてくれないのだ。
何の根拠もない。日依の勝手な推測に過ぎない。
それでも捨てきれなかった可能性を、最後の希望に賭けて問うてみれば…返ってくるのは『何を当たり前のことを聞いているのか』と言わんばかりの一言。
…やはり、単純に日依が深読みをし過ぎたのか。
いくら何でも予想のベクトルを変化させすぎていたと彼女も反省しかけて──次の瞬間。
今度は良い意味の方でこちらの期待を完全に裏切ってきた菫の返答に、日依も目を見開く結果となる。
「何を言っているのかしら? そんなの…大切に思ってるに決まっているでしょう?」
「──ッ!!」
その返答は、実にあっさりと。
そう答えることは至極当然のことで、他の選択肢などあり得ないと主張するかのように感情の揺らぎさえ微塵もなく発言してきた菫の言葉は…しかし、日依にとっても最良以上のものだった。
──予想通り、日依が感じていた違和感は間違っていなかった。
本当は菫も佳澄のことを無関心になど思ってはおらず、真意はどうあれ彼女のまた佳澄を娘として大切に思っていたのだ。
では何故、あんな佳澄に対して冷たい反応をしていたのかという話になって来るが…その疑問も後の質問で解消される。
「じゃ、じゃあどうしてあんな佳澄さんに冷たくするんですか? 佳澄さんは菫さんと仲良くしたいと言っていたのに、あれじゃずっとすれ違ったままに──…」
「……別に、詳しい意味はないわ。それに、これに限っては身内の事情よ。旗倉さんには話せることではないもの」
「…っ」
菫が佳澄を大切に思っているのは、少なくとも言葉では聞くことができた。
だがそれを追及しようとしたところで返ってくるのは遠回しな拒絶を意味する発言で、暗に日依が部外者だから伝えられないと言われてしまった。
…しかしおそらく、その事情とやらは彼女の夫──つまりは佳澄の父親に関係してくるのだと日依は同時に推測した。
これまでの事情と今の口ぶりから、多くのことは語ってくれていた菫がわざわざ『言えない』だなんて明言してくる事柄があるとするならそのくらいしか思い当たることはない。
それならば詳しいことを言い渋るのも理解はできる。
ただし、あえてここで言ってしまうのなら……日依は、そのことについて既に知ってしまっているということだ。
以前に佳澄からそれとなくではあるものの、彼女の父が昔に亡くなってしまっているとの事情は耳にしていた。
佳澄自身、彼女が幼い頃の話ということもあって具体的な思い出が残っているわけでは無いしそれゆえに特別父親がいないことを悲しいと思ったことはない。
……けれども、それは佳澄一人に限ればとの注釈がついてのこと。
確かに佳澄は父にまつわる事柄について何かを思ったことはないかもしれない。そこは事実なのだろう。
では……彼女以外の、菫であればどうなる?
母親という立場にある彼女なら佳澄よりも詳しい経緯は当然知っているだろうし、もちろんそれ以上の…何かしらの入り組んだ事情があったとしても、把握していて不思議ではない。
正直なところ、その点を突くことはあまりしたくない。
日依の意識としても好むやり方にしても、ずけずけと他人の家のプライバシーに踏み込んでいくのは必ずしも正しいとは思っていないがゆえに。
…しかし、今はそんなことばかりも言っていられない。
もうこの機を逃してしまえば佳澄と菫の間にある隔たりを壊すチャンスはやってこないかもしれないし、そもそも現状が続いてしまえばさらに彼女らの距離は離れてしまう。
だからこそ、日依も取りたくない手段ではあったが申し訳なく思いつつ、こう告げた。
「…菫さん、あたしは……その、佳澄さんのお父さんに関することなら知っています」
「──…ッ」
「……他所のお家の事情に勝手に踏み込んでしまったのは、ごめんなさい。だけど、それならあたしにも…聞かせてもらう権利はありませんか?」
「……そう、あなたも知っていたのね。佳澄が喋ったのかしら…」
「…………」
質問に対して返ってきた質問に答えることは出来なかったが、この場での沈黙は肯定に等しい。
佳澄から聞いてしまった他人のプライバシーを闇雲に吹聴するつもりは毛頭ないが…それでも人には誰しも、触れてほしくない領域がある。
きっと菫にとってはこれがそうなのだから、無遠慮に踏み込んでしまった事はしっかりと謝らなくてはいけない。
そしてその上で、日依が望む返事を向こうが与えてくれるのなら何とかなる……そう思いながら頭を下げていた。
……しばしの間、数秒ほどこの場を沈黙が支配する。
その数秒の間、菫にも考えることは多々あったはずだ。
答えなど出るわけもない思考を巡らせていただろう彼女に頭を下げ続け、しかし諦めるつもりも微塵も無かった日依と対峙していた菫が出した答えは………。
「……大して、面白くもないことよ。それでも構わないなら──お話するわ」
「…! …はい! ありがとうございます…!」
おそらく完全に納得をしてくれたわけでは無いだろうが、しかしそうだとしても日依の態度に折れてくれたらしい。
ここまでの流れを辿っていけば綱渡りも良いところだし、決して最善を選び続けてこれたわけでは無い。
だとしても首の皮一枚繋がったことにも変わりはなく、どうにかこうにかして今のこの瞬間までこぎつけた。
そして静かに口を開いた菫より日依が聞いたのは……佳澄と、その母が抱えていた想い。
あるいはその勘違いの一部始終であった。




