第二八話 見逃せるはずもない
あわや佳澄にキスをされかけ……いや、実際にキスはされたのだが何とか唇にではなく額だったので今回もギリギリセーフ圏内だろう。
これで口にされていたら完全にアウトだったがそれは回避も出来たので問題無し。
…実際には回避が出来たというよりも、最後の最後まであちらに翻弄され続けただけであって日依自身はプルプルと身体を小さく縮こまらせていただけだったのだがそこは気にする必要もない。
ともあれここで重要なのは今日の分の『お礼』を何とか耐え凌ぐことが出来たこと。
そして、それをもって本日のデートは完全に一つの区切りを迎えたという事実への…微かに覚えてしまう寂寥感。
「はふぅ…何だか久しぶりに外に出た気がする」
「私も似たような感じかな…外の光を浴びてなかったわけじゃないけど、ほとんどずっと暗い空間で過ごしてたもんね」
「そうそう。お外の空気がより一層冷たく思える感じがするよぉ…」
それまでに過ごしてきた時間が充実したものであればあるほど、終わりを迎える瞬間はどうにも胸に穴が開いたような感覚が大きくなってしまう。
良い思い出を沢山作れたはずなのだから悪くはないはずなのに、良かったからこそ寂しくなるなんて一見矛盾したような感情が胸中では広がりそうになる。
表面上の言葉ではこの身を襲う冷気に話題を移しながらも、その実頭の中ではこんなことばかり考えているのだから大概日依も重症だろう。
まさか、まだ佳澄ともう少しだけ同じ時間を共有していたいなんて勝手すぎる我儘が湧き上がりつつあるだなんて…自分本位にも程がある。
「…ねっ、この後はどうしようか」
「そうだなぁ…もうすることも無いから予定だと後は家に帰るだけ、なんだけど…」
「……っ」
だからそんな身勝手な内心には一度蓋をして、今はもっと他に聞くべきことがあると己を律して問いかけ直すと今後の曖昧なスケジュールを知らされる。
返答の内容だけを切り取って考えればこの後の予定は特に組まれておらず、おそらくは元々の流れだとここで双方別れることになっていたのだろう。
ただ、そうなると佳澄は当たり前だが自分の家に帰ることになるわけで…日依も無遠慮に踏み込もうとはしていないが、多くの事情が絡み合っている彼女の家に佳澄を帰すのは少し引っ掛かりを覚えてしまった。
せっかく今日一日を楽しい思い出で満たすことができ、そして笑顔で過ごすことが出来たのだ。
だというのに、この別れの瀬戸際になって佳澄だけが微かな辛酸を味わう羽目になるのは…いかがなものだろうか。
彼女の母親。そこで複雑に入り組んでしまった事情と経緯から折り合いを悪くしており、今現在もこんがらがった関係のまま維持されてしまっていることは百も承知だ。
それを日依がどうにか出来ることなら何とかしたいと思ったこともあった。が、彼女一人の手で出来ることなどたかが知れている上に……これは、何の確証もない単なる予想でしかない。
ゆえに決定打となり得るようなキッカケでも起こらぬ限りは日依も勝手な行動はしないと決断し、今に至っている。
よってこの場で彼女に出来る僅かなこと──例えば、これから日依の家に佳澄を招くといった程度のことなら誘ってみても問題はないはずだ。
無論、あちらの事情や用事を無視してまで押し通したい意見ではないので強制はしないが。
提案を持ち掛けてみるくらいなら構わないだろう。
そう思い、佳澄に声を掛けようとして───。
「佳澄さん、もしよかったらなんだけどこの後………?」
「…うん? なんだろ、あれ…」
──その時。
不意に日依と佳澄の両者がどこかから聞こえてきた騒めきのような音。
微かに響いてきただけだったので気のせいかとも思ったが、しかしその人の声が集まって生み出された喧騒も気になってしまったのでそちらの方角に目を向けてみれば…そこには、幾人かの人だかりが集まっている光景があった。
別にだからと言って何か特別なことがあるわけでも無いらしいが。
少し遠く距離が離れているため断定こそ出来ないが、どうやらあの周辺で一台の車が停車してきたらしい。
もちろん、それだけなら大して注目をすることでもあるまい。
ここが水族館という比較的大きめな一つのレジャー施設である以上、自動車なんてそこら中に溢れかえっているし珍しい物でもないのだから。
…ただ、あえて言うことがあるとすれば。
そんなありふれた景色の中にやってきた一台の車が、どう見ても高級車だと分かるフォルムと外観をしていたことくらいか。
他の道端に並んでいる車とは明らかに纏う雰囲気が異なる、洗練された見た目は嫌でも周囲の視線を集めていく。
また何より、その様相には……日依も、見覚えがあるもので。
「──え、あの車って…」
「………ねぇ、日依。ちょっとだけ、いいかな」
「あ、うん…い、行ってみる?」
「……だね」
おそらく佳澄のその正体にはとっくに思い至っていたのだろう。
当たり前だ。関係者ではない日依でさえ、一度目にしただけの外観を記憶していたのだから身内の彼女なら覚えていて当然。
だからそこに乗っている相手に関しても、察しはついているはず。
…ゆえに、それまでは柔らかく緩ませていた表情は一転して固いものとなり、ここから先の展開についても分かり切った想定を膨らませながら…しかし、無視はできないと判断したのだろう。
無理をする必要など無いはずなのに、されど…軽く息を吐いて覚悟を固めたような表情となった佳澄の顔を見てしまえばそんなことは言えない。
日依もその意思を垣間見たからこそ、余計なことはあえて言わずに少しの確認だけすると向こうの意向に沿って彼女らはあの車に近づいていく。
──そして一歩、また一歩と少しずつ近寄っていき。
いよいよ車の細部までもが目視出来そうな至近距離まで歩みを進めた時。
このタイミングを見計らったかのように脈絡もなく運転席の扉が開け放たれ、そこから一人の人物……全身からクールな雰囲気を漂わせた彼女が姿を露わにした。
もちろんその女性の正体は、残念ながらこちらの予想を外すことも無く。
一切の穢れが存在しない、潔癖とも言い換えられるような清廉なオーラを振りまきながら美しい顔立ちに揺らめく黒髪を辺りに見せつけ。
これ以上なく似合っているとしか言えないスーツを身にまとった佳澄の母──小野寺菫は優雅な佇まいを披露しながら外の空気を味わっているようだった。
「…佳澄さん、どうする?」
「…………うん、大丈夫。多分あっちも仕事か何かで来ただけだろうし、こっちに興味なんて無いだろうからさ。スルーしても平気だよ」
「…分かった」
だが、その邂逅がもたらすものが必ずしも良いものであるとは限らない。
事実としてこんな場所で巡り合うとは夢にも思っていなかった佳澄と日依は想定外の鉢合わせに呆然としてしまい、特に佳澄の方は内心の動揺が見て取れるほど。
けれどもそれを悟らせまいとする姿勢も同様に感じ取れてしまい、そこを突いてしまうのは…流石に無神経が過ぎることのはずだから。
よって日依もここは何てこともない振る舞いを心がけて、彼女の意思を最優先にしようと決めて行動することにした。
そこからの動きは早い。
一度こうすると定めてしまえば迷いも少なく、あちらにこちらの存在を悟られてしまう前にこの場を離れる。
やることは単純そのもので、少し動きさえしてしまえば容易に達成できる程度のことでしかない。
実際に日依たちが移動しようとしてもそれを諫める者などおらず、二人は簡単にこの場所を離れることが出来る……はずだった。
…そこで、彼女らに声を掛けてくる者がいなければ。
「──佳澄? こんなところで、一体何をしているの?」
「…っ、……ママ」
ここから離れるという判断を下すには遅すぎたのかもしれない。
あるいは、わざわざ距離を詰めるなんて行動を取ってしまったことが間違っていたのかもしれない。
しかし、どちらにせよ。
親という生き物が子供のしていることなど簡単に見破れるように…たとえそれが、我が子への興味関心を失っていようとも。
進む方向を変えて立ち去ろうとした日依の隣にいた佳澄のことを、実にあっさりと見つけ出して呼びかけてきた菫の声によって…この親子の対面は、図らずも叶ってしまった。




