第一八話 急変させた理由が
「ただいまー……って、まだ帰ってきてないのか…」
──先ほどまで滞在していた日依の家から離れ、自分の家へと帰ってきた私こと小野寺佳澄。
玄関の扉を開け、やたらと広く人が住むには充分すぎる大きさを有しているこの家ではあるが…私の正直な気持ちとしては、あまりこの家に長く居座りたくはないというのが本音なところ。
いや、家自体に罪があるわけじゃない。
どちらかというとこの場所よりももっと身近な点…ここで共に住み暮らしている相手への苦手意識に原因はあるけれど、そんなのはもう今更だ。
それにどういうわけか、今日は帰っても家に他の人の気配は無いようだった。
「……まっ、それならそれで気楽だしいっか。ママも仕事が忙しいんでしょ」
しかしそれはそれで好都合。
私がこの家に居たくない、最も大きな理由……それは一言で言ってしまえば単純に親との仲がとても良好なものだとは言えないから。
日頃の私生活に至っても私とママは一般的な家族とは異なり、互いに互いを避けているような節がある。
…あるいは、私が逃げているだけ……かな。
もちろん悪いことばかりじゃない。
私は自慢じゃないけど今まで暮らしていた環境や場所に関しては非常に裕福なもので、お金に困ったことは一度として経験したことがない。
それは全てママの仕事のおかげであって、あまり詳しく聞いたことは無いけど会社の中でも代表的な立場にあるらしいあの人の働きがあるからこそ私は何一つ不自由なく育ってこれた。
そこは本当に感謝してる。間違いなく。
ただ、それなら……もう少しだけ、こっちに興味を持ってくれても良いのにと無駄なことを考えてしまいそうにもなる。
「…日依の家に上がらせてもらえてなかったら、とっくに限界だったかもね。本当に感謝しておかないと…」
だからこそ尚更、最近になって偶然にも関わりを持つようになり色々と面倒を掛けてしまっている相手──日依には心の底から感謝しかない。
あの子にはほとんどメリットなんて無いはずなのに、私の詳しい家庭環境も知らない内から大体の事情を察して自分の家を使ってくれていいなどと言ってくれた日依は本当に良い子だと思う。
そんな彼女だから、私も多くの面で信用が出来て素の自分を見せられるし………。
…あとは、まぁ。最近だと私から仕掛ける『お礼』の一つ一つに過剰だとしか思えないほど初心なリアクションを見せてくれる日依の挙動が可愛いから少し癖になってきたという理由も無くはない。
こればっかりは仕方がない。あんな弱々しい、形だけの抵抗をするだけで私を拒む気配は全く見せないんだからあんなのは暗に攻め込んでくれと宣言しているのと同じだ。
「ふぅ…ママが帰ってくる前に片付けでもしておこう。どうせ暇だし──…ッ!!」
…と、その時。
普段から使うこともほとんどない上に、時々家にはお手伝いさんを招いて家事や掃除を担当してもらうこともある私の家はかなり綺麗な状態だけど暇を持て余していることも事実なので適当に掃除でもしようかと考えた。
しかしながら、そう思った次の瞬間に響いてきた扉の開閉音のような鈍い音。
同時に私もよく知る人物が帰宅してきたことを知らせる合図が耳に届いてきたことで思わず身構えてしまった。
ただしそんな動揺に構うことなくあちらは一定の間隔で響かせてくる足音のままにこちらへと近寄ってきて……リビングへと繋がる扉を開け、私の母親が姿を現した。
「…あら、佳澄。今日は早く帰っていたのね」
「…っ、うん。さっき帰ったばかりだけど」
「そう」
ドアを開いて部屋に入ってきたのは、私の唯一の家族でもあるママ──小野寺菫その人だった。
元々それは分かり切っていたことだし、この時間にこの家に入ってくる人間なんて他に居ないのだから当たり前の事。
だけど…分かっていても、この瞬間はどうしても表情を曇らせてしまうことを避けられない。
その原因は、一言にまとめてしまえば私とママの微妙な距離感にある。
何か言い合いをしているわけでは無い。特別喧嘩をするほど険悪な関係でもない。
ただ、今の短いやり取りだけでも分かったように…向こうは私に対して、ほとんど興味を持っていない。
ひたすらに無関心とも捉えられる感じだ。
一応容姿だけなら全身から漂わせているクールな雰囲気に、それを助長している長く艶やかな黒髪はいかにも仕事の出来る女といった印象を対峙した相手に与えることだろう。
けれどもそこに浮かべられた表情は…娘の私を前にしても一切変化することがない。
慈しみも、愛憎も、侮蔑も、温かみのある優しさも。
良くも悪くも思えるそれら全ての感情はこの人から全く感じ取れず、今何を考えてるのかすら定かじゃない。
…もしかしたら内心では感情らしきものが動いているのかもしれないけど、少なくとも私の目ではそんな類のものを感じ取れない。
だから、この人はきっと私に興味など無く…ただ自分の娘という肩書きだけがある存在として認識しているのだろうと思っていた。
一体いつからこんな状態になってしまったのか、私自身もはっきりとは覚えていない。
もちろん親子なんだからしっかり話し合えば関係はもっと縮められるはずだ、なんてことを意見してくる人だっているだろう。
私だって昔はそう思っていた。たとえどれだけ関係が冷え切っていようともきちんと対話を重ねればいつかは普通の家族みたいに接することが出来る、と。
…だけど、そうするためには私とママには対話の機会が少なすぎた。
これも一般的な家族の姿とはまたズレたことなのかもしれないけど、私の家は母子家庭というものであって父親と呼べる存在は既にいない。
あまり聞いてはいけないことかと思って深掘りをしたことは無かったものの、昔にうちで家事のお手伝いをしてくれている人たちの会話を小耳に挟んだ際に聞いた内容によると私が生まれて間もなくの頃に亡くなってしまったらしい。
だけれども、それを聞いて私は冷たいと思われるかもしれないがそれほど悲しくは思わなかったし、幼心に我が家はお父さんがいないんだという事実だけを知った感じだった。
……それに、私にとってはこっちの事実の方が重要。
そこからさらに聞き出せた話題として、家の昔話に関連したことだったが…ママが私への興味を失い、仕事に意識を集中させるようになったのはお父さんが亡くなってすぐの頃だったようだ。
より詳しく聞いていくと、それまでは他の家族と変わらぬ愛情を私に注ぐ光景を見せていた──なんて、話まで。
……その時は、私にもよく分からない話として深くは考えていなかった。
だけど今なら理解できる。
昔はこの冷たい母が私にも仲睦まじく接する光景を見せてくれていたのに、父の死という時期を境目に態度を急変させたのはどうしてか。
きっと、それは──父親の形見とも言い換えられる私を見るのが嫌になったからなんだと思う。
私も知らないことだけど、ママはお父さんとも非常に仲を良好にしていたそうだ。
だからおそらく、そんな愛するパートナーでもあった父が亡くなって…少なからずこの人もショックを受けて。
…その父が残した欠片と言っても差し支えない私を見てしまえば、思い出したくない記憶を呼び起こしてしまうから遠ざけた。
これは私の勝手な妄想だ。そんな事実は存在しない可能性だって確かに残されている。
でもこの状況と過去の話を照らし合わせてしまうと、それ以外の線などあり得ないと頭の中で主張してくる自分の声が消えてくれない。
現に今のこの状況。
目の前にある現状は…他でもないママと、碌に会話すら交わせないままに時間だけが経過してしまった私だけなのだから。




