第一四話 親子という関係値
「えっとぉ…あたしから聞いておいて今更かもだけど、それってこっちが聞いても良い話かな…?」
「いいよいいよ。特段隠そうとしてたわけでも無いんだし、私もそんなに秘密にしようしてたことでもないから」
「そ、そう…」
佳澄は自身が自由に扱える金銭は親から受け取ったものだと明かしてきたが…よもや、彼女の方から自分の親について語ってくれるとは夢にも思っていなかった。
というのも、彼女とまともに接点を持ってからすぐの時期に少し耳に挟んだ話ではあったが佳澄は家が母子家庭だということを仄めかしていた。
さらに言うのであればその母親とは折り合いが良くないらしく、さらにさらに遡ってしまえばこの生活自体がそこに基づいて生まれたものだ。
母との関係が決して良いものであるとは言い難い佳澄は自分の家に帰ることに苦手意識を持っており、その対応策として日依はこの家で暇な時間を過ごしてよいと休息場所を提供していたのだから。
──ゆえにこそ、今の話を聞いて驚きと新たな疑問が同時に発生する。
もちろんこれは全て佳澄本人から聞かされただけの話であるため、どこまでが真実なのかは所詮部外者でしかない日依には判断出来ない。
ただそれでも、聞いた話から判別するに普段から関わりも薄いのではないかと勝手に思っていた佳澄と彼女の母の間でそんな繋がりがあったというのは寝耳に水だったからこそこうして驚かされもしたのだ。
また、そこから続けられた佳澄の言葉で次々と明らかになっていく彼女の家庭事情も日依を驚嘆させるには充分すぎるものだっただろう。
「うーんと…前に私の家が母子家庭だっていう話はしてたよね? 確か」
「そうだね。それは聞いたよ」
「おっけー。で、そこに関してなんだけど…ちょっと説明不足なところがあってね」
「…説明不足、とは?」
「これをどう説明したら良いのかはちょっと難しいし、どう言ったところで角が立ちそうだから悩みどころだけれども……えぇっとね。実は──私の家って結構裕福な方なんだ」
「うん…?」
彼女が迷いがちな挙動を見せながらも話してきた内容はそれだけで日依の今までの認識を覆しうるものであった。
何しろ、こう言ったら彼女に失礼に当たることは百も承知であるが佳澄の家庭環境がそういったものであると聞かされた時に日依は彼女の境遇もそこまで余裕があるわけでは無いのだろうと勝手に思い込んでいた。
母親一人、娘一人という状態で生活をしていくのはやはりどうしても苦労することも多いはずで…それが金銭面ともなると尚更。
だからこそ普段の佳澄が景気よく調達してくる品々を買うお金はどこから捻出していたのかと不思議に思った次第であり、直接聞いたわけでは無いので断定こそしていなかったが貧しい──とまではいかずとも、それに近い環境なのだと考えていた。
しかし、真相を聞いてみれば現実はそんな勝手な空想とは全くの真逆。
むしろ佳澄の家庭環境は裕福なものであると伝えられ、それまでの予想が全て引っくり返された気分にもなる。
「あっ、別にこれ自慢とかじゃないからね? ただ私の家を客観的に判断すると、どうしてもそうなるってだけであって…」
「……あぁ、大丈夫だよ。あたしもそこは特に気にしてないから。佳澄さんが今更そんな自慢してくる意味も無いって分かってるもん」
「ははは…なら良かったよ。じゃあ話を続けさせてもらうけど、その裕福っていうのもね…私のママについて話さなくちゃいけない、か」
「…っ、…それは、聞いても良いなら教えてもらってもいい?」
「……うん。平気だよ。どうせ今更なことだし」
──その瞬間、日依は本当に些細な変化ではあったが佳澄の表情に微かな影が差し込んだのを見落とさなかった。
この話題について聞こうと思った段階で薄々察してはいた上に、少し前から何となく踏み込んではいけないテーマなのだろうと思って避けていた…彼女の母のことを。
どことなく諦めているような、擦り切れたように諦観した目で遠くを見つめているようにも思える佳澄の面持ちを見てしまえば、これ以上は聞かない方が良いのではないかなんて思いも日依の中に生まれてしまいそうになる。
……だが、それでも。
ここで自分が干渉するべきではないと勝手に線を引いて、利口ぶって身を引いてしまえばきっと後悔すると日依は根拠もなくそう直感した。
…いや、本当のところはそうではないのかもしれない。
目の前の少女が、曲がりなりにも同じ部屋の下で過ごしてきたことで優しい性格をしているのだと知ることが出来た佳澄の悩みを理解できる機会などこれを逃してしまえばもう訪れることは無いと分かっていたから。
だからこれは…あくまでも、日依のエゴ。
具体的に何が出来るかなど分からないし、そもそも他人に過ぎない日依が手を出すべきことではない可能性だってある。
しかしたとえ何一つとして佳澄の力になれないと決まり切っているのだとしても…全てはそこにある事情を知らなければ始まらない。
ゆえにこそ、いつの間にか力を込めてしまっていた掌をギュッと握りしめながら彼女の言葉を日依は待ち続けていたのだ。
「うちのママはね…簡単に言っちゃうと、私が生まれるよりも前に自分で会社を立ち上げた人なんだよ。分かりやすく言うなら社長ってやつかな? それでありがたいことに我が家は結構余裕のある生活が出来てるんだ。私が使えるお金も、ママからお小遣いってことで多めの額を渡されたものなの」
「……そうだったんだ。でも、それなら良いことな感じに聞こえるんだけど…」
そうして語られてきた事情であるが…驚くべきことに、佳澄の母の正体は日依が思っていた予想を遥かに上回ってくるものだった。
裕福な家庭であるということを聞かされてその可能性もあると理解し、一方でそういうことなら色々と納得も出来てくる。
佳澄の母は何と一つの会社の代表的な立場にある人で、それゆえに相応の対価を得ているということ。
考えもしていなかった事実が次々と明らかになっていく現状にさしもの日依も目を回しそうになるも、しかし──それならばそれで、新しい疑問点も湧き上がってくる。
彼女曰く、今まで日依が見てきた佳澄が使用していた金銭は全てその母から貰っていたものだということになる。
金額についてもそれなりの物を渡されているようで、気ままにジャンクフードのテイクアウトを出来ていたのもそういった理由があったからなのだろう。
…ただそうなると、佳澄が母のことをまるで遠ざけるかのような行動をしている意味が分からなくなってくる。
表面的な事情を聞いた限りだと日依の脳内では彼女の母親は自分の子供を無理に縛り付けることも無く、しっかりと遊べるくらいには小遣いも渡している良い親なんて印象が浮かんできてしまう。
だが現実としてはこれまで佳澄が楽しそうに親のことを語った瞬間は一度として存在せず、顔にありありと浮かんだ曇り模様は陰を増していくだけ。
一体それはどういうことなのかと問いかけようとしたところで……その疑問も向こうの想定内であったのか、一歩早く答えは教えられる。
「うん、私もそう思うよ。…それだけ、ならね」
「えっ…?」
「……先に言っておくけど、今から言う事はあまり真剣に捉えなくていいからね。私自身もう慣れちゃったことだから、重く考えられるとそっちの方がキツイからさ」
「わ、分かった」
「…まぁ、それなら結論から言っちゃうとね。うちのママは私に興味なんて無いんだよ」
「………っ!?」
──その時の心境を、日依はどんな言葉で表せばよかったのか。
ぽつりぽつりと語られてきた佳澄を取り巻く環境はその一つ一つが到底信じられない様な事柄ではあったが、しかし今発された言葉は…これまでの中でも屈指の驚愕をこちらに叩き込んできた。
母が子供に興味など無いだなんて、信じ難き事実を簡単に晒してきた佳澄の態度もその驚きを増幅させていた一因ではあったかもしれないが。
「昔っからずっと…ママは仕事一筋の人でね。学校のイベントとかには忙しくなければ来てくれたりしたこともあったけど、それも本当に時々のことで。普段はまともに会話することも無ければ、あっちから話しかけてくることも無いんだ」
「……それ、って」
「今じゃ月に一回、私専用の口座に定期的にお金を入れてくれるだけでさ。…もちろんそれは感謝してる。だけど、向こうからの認識としては私なんて…ただお金を渡すだけの存在なんだよね」
少しずつ、少しずつ。
全容が露わになってきた彼女の家庭事情は……想像よりも恵まれたもので。
そして、想像していたよりもずっと壮絶な様相を呈していた。
「一応、親としての義務感なのか毎日家には帰ってくるんだ。それでもたまに『最近は何をしてるのか』……なんて、事務的な質問されるだけで息が詰まりそうになるの」
「………それで、あたしの家に」
「そうだね。日依の家に居座らせてもらってるのもそこを離れたいってのが理由。…ちょっと、さっき言ったでしょ? そんな日依が深刻そうな顔しなくていいんだってば。別に私は気にしてないんだから」
「佳澄さんは…お母さんの事、どう思ってるの?」
「…ママのこと、ねぇ」
今までは知ろうともしていなかった事情を知ってしまい、どう反応したら良いかなんて単なる高校生に過ぎない日依には分かるはずもない。
唯一分かることとしては、きっと佳澄が言葉では慣れているだなんて口にしていてもそれがただの強がりでしかないという事実だけだった。
「自分でもよく分からないけどさ…まぁ、仲良く話せるならそれに越したことはないと思ってるよ。これでも家族だからね。……とはいっても、あっちにそんな気が無いから叶うわけもないってのが悲しいところなんだけど」
「………」
「…あ~! ごめんごめん! 私も日依にそんな顔させたくてこの話したわけじゃないから…ほらほら、深刻に捉えなくてもいいから! …とりあえず、これである程度は分かってもらえた?」
「…だね。大体分かった気がする」
「そんなら話した甲斐もあったよ。…さて! じゃあこの話はこれでおしまいにしよっ。なんか空気が重くなっちゃったしまたデリバリーでも頼まない?」
「え、佳澄さんさっきもずっと食べてたよね? まだ食べられるの?」
「とーぜん。こちとらこういう時のための食欲は無限に湧き出てくるんだから」
「謎の理屈だ…」
日依からの問いに対し、佳澄が微かに漏らした一言。
折り合いが良くないとはいえ、家族なのだから仲良く話せるのならそれに越したことはないという言葉は…おそらく彼女の嘘偽りない本心。
しかし現実は会話の少ない母を相手にそれが実現するはずもないと、長年の経験から痛感してしまった事実を目の当たりにして諦めの境地に佳澄は達していた。
……彼女を取り巻いている、ちぐはぐでいて…複雑に入り乱れてしまっている環境。
母は自分に対する興味を失っていて、ただただ毎月適当に遊ぶだけの小遣いを渡されるだけの関係値。
──本当に、そうだろうか?
佳澄の話を聞いていた当初から、心に渦巻く驚愕と困惑の片隅で……そんな一つの疑問を抱え続けていた日依はしかし。
今の状態では明確な答えなど出せようもないため、この場は重い空気で満たされてしまった現在を払拭しようといつもの調子に戻った佳澄との会話に意識を傾けていった。




