解放の火 前編⑨
来た。来た。本当に来た。
サトシは平静を装いながらニコリと微笑んだ。
“リチャード・ベドウィン”
ケイシー兄さんからその名を聞いて約一年。
やっと現れた。
ここから出られるかもしれない希望の光。
「君が噂のサトシだね?」
「名を知って頂いているなど光栄でございます」
サトシはいつものように、作り出した少し高い声で返事をする。
「リチャード様、外のお話を聞かせて下さい。実を言うと、私はこの島生まれで一度も外の世界を見た事が無いのです」
「この島で生まれた?」
「はい。母も同じ仕事を。とうの昔に死んでしまいましたがね」
「なんと気の毒な。だが、君の母親も美しかったのだろうな」
「うり二つだと母を知る者には言われます」
「ふむ、そうか……ここで生まれたか、」
「ええ、」
口髭を撫でるリチャードを見つめながらサトシは小さく頷いた。
ー多少は印象に残っただろうか。
身請けを決めるような貴族にありがちなのは憐れみや同情だ。
自分しか救えない、頼る者がいない、と思わせる事が出来れば勝機はある。
“外の世界を見た事が無い”というのはお偉い貴族サマからすれば、大層憐れで可哀想な事だろうー
今日は迎えの馬車が来る日だ。サトシは綺麗な服とほんの少しの持ち物を持って、約二年半過ごした店を出るところだった。
「兄さんお元気で。教えて下さった事、忘れません」
いつの間にかサトシよりも背の伸びたザックが目を潤ませて言う。
良く晴れた空。
太陽の輝くような時間に起きている事はほとんど無い。総出での見送りはまさに門出そのものだった。
策を巡らせて勝ち得た自由への一歩。
身請けされる人間はサトシの他にも二人いた。
逃げるなら今だろう。
馬車に乗って島を出て、リチャードの屋敷に着くまでの間。
島の外に出て貴族の屋敷に行ったからといって、“自由”になれるとは思っていない。
環境が変わるだけ。
島の西から東へ移動したのと同じだ。本質はきっと変わらない。それどころか酷くなりすらするだろう。
長い橋を渡る。
店の窓から川越しに遠くに見えていた大きな建物が段々と近づく。川に太陽がキラキラと反射する。
あと少しで橋が終わる頃だ。大切なのはタイミング。チャンスは一度きりだ。
昼間で見通しが良い。
考えて逃げなければ失敗に終わる。
ここまで来たのだ。絶対に間違えるワケにはいかない。
ガタンっ、
橋を渡り終えた馬車が大きく揺れる。
機会を図るために一層注意深く窓の外に意識を飛ばしたその時、
「脱走者だぁああ!」
後方の馬車から大きな声が上がった。
自分と同じ歳ぐらいの青年が重そうな服を引きずって走って行く。川沿いを駆ける青年は瞬く間に捕まってしまった。
乗っている馬車が段々と遠ざかって行き、曲がり角を曲がる。親指ほどの大きさになってしまった青年は地面に抑えつけられているところだった。
結局、何も出来なかった。
馬車を下ろされて屋敷の一室に着くまで手が勝手に震えるのを止められなかった。
怖かった。
一歩間違えていれば、ああなっていたのは自分だ。
彼はどうなったのだろうか。
島の建物とは違う石で造られた冷たい部屋でサトシは力が抜けたように床にへたり込む。敷かれた上等な絨毯がサトシが膝を強打するのを防いだ。
壁紙も天井も見た事が無いほど美しく、高い。
分かっていた筈だ。そう簡単にはいかないという事を。
それなのに、何をいまさら恐怖する事がある?何を絶望する事がある?
そうだ。分かってた。まだ終わりじゃ無いって事。スタートだ。ここまで来てやっと逃げるという選択肢が出来た。
まだそのラインに立ったところだ。
サトシは深く息を吸う。震える手を押さえて、ギリギリと歯を食い縛った。
「ふぅー……はっ、はーー、」
小刻みに息を吐き出すとゴクリと喉を鳴らす。
まず、何をするべきだ?
やれる事からやらなくては。
自分では思ってもいなかったが完全に浮かれていた。そうじゃ無かったらあんな白昼堂々と逃げるなんてコト考えなかった筈だ。
ここは未知の世界。
島の中より慎重に動く必要がある。
まずは、そうだまずは、屋敷の間取りだ。そして使用人の出入り。主人リチャードの出入り。何もかも調べ尽くそう。ここまで来たのだ。絶対に失敗出来ない。
ここまで来たのだ。
何がなんでも自由になってやる。
石造りの建物に雨が伝う。目の前にカーテンでも引いたみたいに強い雨が視界を遮っていた。
そんな夜の町をずぶ濡れになって走るのは女のような格好をした人物だった。
およそこの辺りで見る事が無いようなはだけた衣装は、昼間の人が多い時間帯だったならばさぞかし人目を引く事だろう。
だが幸いにも今は夜で雨も降っていた。
こんな時に外を出歩く物好きなど一人もいない。その人物は水を吸って重くなった服を脱ぎ捨てると屋敷で盗んだ服に早変わりする。
雨で顔に張り付いて来る漆黒のような髪を払った。
その時、手が目元に触れて化粧が不恰好に引き伸ばされる。滲んだ赤がまるで血の涙を流しているようだった。
立て続けに流れて来る雨のせいで顔はぐちゃぐちゃで視界も良くない。
ラピスに照らされていない暗い道を選んで夢中になって走った。
青年だ。
右も左も分からない。ここがどこなのかも、どこへ行こうとしているのかも全く分からない。
だが今しか無かった。
時刻、人の出入り、見回り、天気。
そのどれをとっても今以外に最適な時は無かった。
青年は走り続けた。
止まれば、もう二度とチャンスは訪れない。
死に物狂いで走った。
バシャバシャと跳ね返る水が足を濡らして、たちまち汚れる。心臓が早鐘を打ち、殴られてもいないのに口の中に鉄の味が広がった。
酸欠で視界が歪んでも、ぬかるみに足を取られても、それでも青年は走る。
死ぬ気で走った。
屋敷の他の子たちを置いて自分だけがのうのうと逃げているという事実に追いつかれてしまえば本当に死んでしまうと思った。
その方が、追っ手に追いつかれるよりもよっぽど怖かった。
連れ帰されても、どんな顔をして会えばいい?
見捨てて置いて行った相手と何を話せばいい?
青年はラピスに煌々と照らされた大きな橋を渡る。
この橋の向こうが中流、下流階級の住むツリータウンだ。向こうへ行けさえすれば、行けさえすれば、きっと自由がある。
貴族の屋敷とは随分違う、縦に細長い木のような建物の間を行く。どこかも分からないがとにかく入り組んだ路地へと身を隠した。
もう限界だ。
体全体がもはや自分のものとは思えないぐらい言う事を聞かない。足に力は入らず、雨のせいでは無い理由で前が見えない。
こんなに走ったのは生まれて初めてだった。
石造りの細長い建物に背を預けて倒れ込む。
まだ逃げなくてはと思う頭とは裏腹に遠くなって行く意識を掴まえる事が出来なかった。遠のく意識の中で見えたのは、夕霧の中で儚く佇むいつかの女の姿。それはきっと幻覚なのだろう。
泣き叫ぶように叩きつける雨が青年の気配も匂いも行方も全て包み込んでしまった。
豪雨が紫煙に取って変わり、大粒の雨が石畳を叩く音はラミアの怒声へと変わる。サトシは煩わしそうに首を振ると、好奇心を抑えられないという表情でこちらを見下ろして来るエリックを見た。
「俺の生い立ちが知りたい?」
「うん」
エリックはコクリと頷く。サトシは考えるように唇を舐めた。
「言うかよバーカ」
そう言ってエリックの顔目掛けてふーっと息を吹き掛ける。
「うわわっ、」
エリックは紫煙から逃れようと咄嗟に目を瞑って手で煙を煽いだ。
その隙を突くようにしてサトシは知りたがりの貴族の横を擦り抜けるとラミアに睨まれながら庭へと出て行ってしまった。
一人残されたエリックは不満げに頬を膨らませる。お湯を沸かし終えたレイだけが、不自然な光を反射する窓の外を長いこと見つめていた。
吹き付ける風が耳元で轟音を立てる。冷たい風がアレクサンドルの浅黒い肌をチクチクと刺し、粟立たせていた。
大男は木々の隙間に身を潜め単眼鏡を覗く。
エリックの療養所の窓は大きいが遠く離れたここからは療養所の中は一部しか見えなかった。
風がパカパカと響く蹄鉄の音を運んで来る。
ー馬車だ。という事は…ー
そう考えを巡らせた少し後、いつか見た男が単眼鏡越しに見えた。
療養所内を歩くのは背の高い貴族の男、エリックだ。
アレクサンドルは息を詰めると集中するように片目を固く瞑る。
ーやはり療養所でエリック様のお世話をする人間とは思えないなー
主人であるエリックが来ても立ち上がらないでいる療養所の人間を見ながらそんな事を思う。
「っ!」
ー金髪の男がエリック様を指差した!ー
アレクサンドルは息を飲む。
ーまさか、本当に?本当にエリック様はー
単眼鏡を握る力が強くなる。
アレクサンドルは部屋の奥の方へ歩いて行くエリックを目で追った。強風が吹き飛ばした雲の隙間からわずかに陽光が差し込む。
単眼鏡のレンズが陽光に反射してキラリと光った。反射した光がチカチカと窓を打つ。
ー煙草の煙を吹き掛けた⁉︎ー
アレクサンドルは単眼鏡越しに広がる光景に目を疑う。
ーこれは、いよいよ本当にっ…ー
アレクサンドルは大袈裟なまでに飛び跳ねる心臓をなんとか落ち着けるとゆっくりと立ち上がった。
ーもうほとんどエリック様がクロというのは確定だ。だが、万が一、億が一にも間違いが有ってはならない。証拠を見つけないとー
アレクサンドルはコソコソと来た道を戻る。急く足をなんとか抑えながら慎重に獣道を下った。
ー今日は十一月二十日、星骸の犯行予告は明日の二十一日、予告日なら全員療養所を出払う筈だ。必ず証拠を見つける、明日、療養所を探索しようー
アレクサンドルは山を駆け降りて行った。
冷たい風が吹き荒ぶ冬のネルティブ王国、中位五家であるピーストップ家が治めるイチア地区は言いようのないざわめきで満ちていた。
そのざわめきは市民たちの落ち着かない声だったかもしれないし、ヤマを張って取材に走る記者たちの足音だったかもしれないし、慌てて傭兵を雇った貴族たちの焦りの声だったかもしれない。
それとも単に、身を切るような寒さを運ぶ風の音だったのだろうか。
地区を支配するのは何かが目覚める気配への期待か、恐怖か。
大昔の預言者が残した世界滅亡の日付けに怯えるかのごとく、切望するかのごとく、何も起こらないと馬鹿にするかのごとく、それぞれの想いが町を包んでいた。
分厚い雲の隙間からうっすらと漏れる月の光が真っ直ぐに療養所に降り注ぐ。
広いリビングに置かれた楕円テーブルを八人の男女がぐるりと囲む。
誰も話さない部屋でレイが満を持して口を開いた。
「始めようか」
静かに響いた声は未来を予感させるようなそんな音をしていた。
読んで下さりありがとうございます!
6章前編終了です!
アレクサンドルがいよいよ近づいて来ていますね、どうなる事やら。
サトシはエリックに自分の過去を語りませんでした。いつか誰かに語るんでしょうか?
今の自分には分かりません。きっとサトシにも分からないと思います。
分からないというより、「話す訳が無い」の方が正確かも。どちらが良いかは分かりませんが、話す事で楽になる事もあると思うんですよね。
いつかサトシが安心して眠れますように。
6章後編も土曜日21:00に投稿していきます。またお会いできますように!




