03.「異形との戦い」
「グルゥゥゥゥ……ッ!」
唸り声をあげ、血のように紅い双眸で日向汰を睨みつける、異形の存在。その外見的特徴から、人狼とでも呼ぶべきだろうか。
その人狼は体中から悍ましい敵意を放ち、じわりじわりと距離を詰めてくる。
強靭な体躯に、命を刈り取らんと鋭く伸びる凶悪な爪や牙。そのどれを取ってみても、普通の人間が太刀打ちできるような相手には到底見えない。
――しかし。
「ッらぁ!」
「ガッ!?」
目の前で繰り広げられている光景は、人狼の一方的な蹂躙ではなかった。
その喉笛を引き裂かんと振るわれる凶爪を、日向汰は左手を交差させるようにして払い落とし、続けざまにガードの下がった人狼の胸部へ向けて、右拳で強烈な殴打を叩き込む。
鋼のような人狼の強固な筋肉すら貫く、重く鋭い一撃。その衝撃を受けきれず、人狼は遥か後方へ吹き飛ばされていく。しかし人狼は空中で身を翻し、石壁に激突するのを直前で回避した。流石にあの一撃だけでは、致命傷には到底至らなかったらしい。
「おっと、まだまだ元気一杯だって面だな。そう来なきゃ、張り合いがねえってもんだぜ!」
「――グルゥゥゥ!」
だが、今の一撃で日向汰を強敵だと認めたのか、人狼は唸り声をあげ、憎々し気に日向汰を睨む。常人ならば竦み上がるようなその視線を受けてなお、日向汰は平然と立っていた。
一瞬でも気を抜けば致命傷は免れない、まさしく命のやり取り。そんな状況の中にいても、日向汰はいつもと変わらぬ調子のままだった。
人狼の紅い瞳と、日向汰の不敵な瞳が交錯する。どちらの瞳にも、猛々しく燃える戦意の炎が宿っていた。
「ガアアッッ!!」
全身を躍動させ、限りなく姿勢を低くし、人狼の体勢は一変して二足歩行から四足獣のそれへと変貌を遂げる。
その体勢は、どこか陸上のクラウチングスタートを彷彿とさせた。まるで弓の弦を極限まで引き絞るかのように、体勢をさらに深く沈みこませ、後ろ足に力を集中させる。
……極限まで弦を引き絞ったのなら、後は目標を見据え、一気に解き放つのみ。人狼が大地を蹴ったと裕が認識した時には、既にその姿はそこにはなかった。
「くっ!」
人狼の行動の軌跡を辛うじて捉えた日向汰は、咄嗟に腕を構え、胴体を庇う。その直後、一陣の風が通り抜けたかと思えば、その両腕に六条の赤い線が刻まれていた。
鋼のように鍛え抜かれた日向汰の四肢すら切り裂く、人狼の凶爪。その爪は、日向汰の返り血を浴びて赤く染め上げられていた。
防御から攻撃へと転じるが、こと瞬発力という点では人狼に分があり、日向汰の攻撃は人狼を掠めるばかりで、一向に有効打を与えられない。あと一歩のところで攻撃が届かないもどかしさに、その顔には苛立ちが見え隠れしていた。
「ちぃっ!」
また、人狼は二足と四足を使い分け、洞窟内をその脚力を以て縦横無尽に跳ね回っていた。変則的で、不規則な動きが日向汰を撹乱し、幾重にも翻弄されてしまう。
頬に、腕に、わき腹に、太腿に。洞窟内を跳ねる度に、日向汰の四肢を人狼は容赦なく削ぎ落していく。
先ほどまでとは一変し、劣勢を強いられる日向汰。予測を立てて反撃に出ても、やはり皮膚を掠めるだけで決定打には到底至らない。
だが、日向汰のそんな姿を見ても、涼透はやけに冷静だった。まるで心配事など何一つとしてないかのように、ただ静かに日向汰と人狼の戦いを見守っている。
彼は知っている。日向汰の、その強さを。誰よりも貪欲に強さを求め、何者にも打ち克ち、どんな逆境にだって抗ってきた、唯一無二の悪友の強さを。
――日向汰の眼には、未だギラギラとした戦意の炎が宿っている。
「グルアァァァァァァッッッ!!!!」
日向汰の完全な死角を突いた、超低姿勢から繰り出される人狼の猛爪。これまでの攻防から見ても、満身創痍である日向汰がこれに反応できるはずがない。
勝った、と人狼は本能のままにそう感じ取った。この爪を獲物の喉元に振りぬけば、それで終わりだと。
――しかし。
「いつまでも、調子に乗ってんじゃねえ!」
日向汰はその一撃に合わせ、身体ごと捻じるようにして渾身の拳を振り放った。いいようにやられていた時とは違い、その視線は人狼の姿を捉えて離さない。
人狼の猛爪と、日向汰の拳が交錯する。衝突の際に洞窟全体を揺るがすかのような衝撃が走り、地面に亀裂が走った。
そして、今まで四肢を散々切り裂いてきたその忌まわしい爪を、日向汰の拳は容赦なく叩き潰していた。力負けした人狼は、その爪ごと右腕をへし折られてしまう。
「ギャッ!?」
日向汰からの思わぬ反撃に、人狼は使い物にならなくなった右腕を庇いながら飛び退いた。息は荒くなり、その紅い双眸には戸惑いの色が浮かんでいる。
「行くぜぇっ!」
突然のことに狼狽える人狼とは反対に、日向汰は体中の痛みも気にせずに果敢に攻め込んだ。追撃を受けるのは不味いと、人狼は先ほど同じように縦横無尽に洞窟内を跳ね飛び、残る左腕で攻撃を仕掛けるが、悉く対処され、反撃を受けてしまう。
……間違いなく、先ほどまでとは動きが違う。ずっと翻弄され続けてきたはずの人狼の不規則な行動に、しかし今の日向汰は間違いなく反応し、上回ってすらいた。
土壇場における、急激な成長。相手が強敵であればあるほど、日向汰はそれに呼応するかのように成長し、戦いの度に己の限界を打ち破る。それこそが新上日向汰の持つ、強さの本質。
やがて体力が底を尽きたのか、全身から力が抜け落ちるように人狼はその場に倒れ込んだ。もう起き上がる気配はなく、ブクブクと泡を吹いている。
「お疲れさん。お前にしては結構苦戦したな」
「うるせえよ。もし次同じような奴と遭遇したら、今度は無傷でぶっ倒してやる」
ぐっと拳を掲げ、意気揚々と決意を固める日向汰。それを嘆息しながら眺める涼透。
先ほどまでとは違い、周囲には弛緩した空気が流れる。二人ともが、戦いが終わったと思っている。
……だからこそ、気付かない。泡を吹いて倒れていた人狼の位置が、僅かにずれていたことに。
「ガアァッ!!」
「なっ!?」
人狼は突如として飛び起き、一番近くにいた涼透に飛び掛かった。完全に不意を突かれ、涼透は人狼に押し倒されてしまう。
その紅い眼は完全に我を失っており、一人だけでも道連れにしてやろうという悪意しか感じられない。涼透はその両腕を引き剥がそうともがくが、組み伏せられた形となっている今では上手く力が入らず、圧し負けてしまう。
涼透の喉笛を噛み千切らんと、人狼の牙が眼前まで迫りくる。
この距離では、日向汰が攻撃するよりも、人狼の鋭利な牙が涼透の首筋に食い込む方が早い。人狼に組み伏せられたまま、この状況をどうにかするべく涼透は思考を巡らせる。
(ええい、ままよ!)
このまま、成す術もなく首を噛み千切られるわけにはいかない。思うように身体を動かせない今、涼透は一か八かの賭けに出た。
「こん、のっ!」
彼がとった行動は、破れかぶれの頭突き。他に選択肢がなかった以上、涼透はこの一撃に掛けるしかなかった。
いかに修羅場は経験しているとはいえ、涼透の身体能力はただの一般人のそれと大差はない。ダメージを狙ったというよりも、相手の意表を突くための一撃だった。
「グウゥッ!?」
(効いた……?)
だが、予想に反しその頭突きは確かなダメージとして人狼をのけぞらせた。それと同時に押さえつける力が一瞬緩まる。この一瞬しかないと、涼透は強引に身体を捻じり、注げる全ての力を込めて人狼の下顎を蹴り上げた。
その蹴りによって完全に人狼の体が浮き上がり、ようやく涼透は身体の自由を取り戻す。そしてすぐ様に転がるようにしてその場から離れ、辛うじて人狼の手から逃れることに成功した。
「この狼野郎が!! くたばりやがれぇッ!!」
更に追い打ちをかけるように、日向汰が人狼の頬めがけて渾身の拳を振り抜いた。その巨体は成す術なく宙を舞い、盛大に血反吐を撒き散らしながら岩壁に叩きつけられ、地面に倒れ伏せる。
――異形の存在との戦いは、遂に決着を迎えた。