27.「不気味な場所」
まるで水中にいるかのような、それでいてどこか安らぐような、奇妙な感覚を覚えた。重力に縛られることなく、どこに足を置けばいいのかわからない、漠然とした浮遊感。
意識はある。しかし、まるで微睡んでいる時のように、周囲が虹色にぼやけて見える。
(……なんだか、やけに眠いな……)
ゆっくりと瞼を閉じてしまえば、そのまま眠りに就いてしまえそうなほどの眠気。しかしこのまま眠ってしまえば、何かかが終わってしまうような気がする。
(……でも、何が終わるんだっけ?)
朧げな意識の中、記憶の糸を手繰るようにその何かについて思い出す。しかし、まるで霞がかったように記憶は薄らいでおり、思い出そうにも何も掴むことが出来ない。
それでも何かを、この眠気に意識が全て塗り替えられる前に何かを掴もうとし――。
――瞼の裏に、二人と一匹の姿が見えた気がした。
(そうだ、眠ってる場合じゃねえ……っ!)
ハッと目を覚まし、眠気を吹き飛ばすように自分の頬を叩く。痛みが頬を伝って脳へと到達し、次第に意識が鮮明になっていく感覚を覚えた。それと同時に虹色の空間は崩壊していき、代わりに真っ黒い空間が顔を覗かせている。
俺の身体は次第に浮遊感を失っていき、奈落へ落下していく。
身構える間もなく、俺の意識は再び暗闇の底に消えた。
*
「……ん……ぅ……」
肌に伝わって来るひんやりとした感触に、俺の意識は半ば強引に引きずり起される。気がつけば、冷ややかな地面の上にうつ伏せで倒れていた。これ以上ないくらいに寝心地の悪いベッドである。
固い地面で眠っていたせいか、やたと身体が軋む。立ち上がった拍子に、またまた全身の骨と言う骨が大合唱を起こしていた。ここまでくると、最早心地良さすら感じてしまう。
(で、だ)
はてさて、なぜ俺はここにいるのだろうか。
小首を傾げてみても、どうにも思い出せない。こんな鬱屈とした場所なんて、縁もゆかりも……。
そこまで考えたところで、意識を失うまでの経緯を思い出し、手をポンと置いた。納得を示すあれである。
見ればここは、壁が淡い光を放つ薄暗い洞窟の中。そして、つい先ほどまで自分は暖かなベッドの中で、ぬくぬくと惰眠を貪っていたはず。
そこから導き出される答えは、ただ一つ!
――ここがあの世か!
はっはっはと乾いた笑いを浮かべる。だがもちろんのこと、その瞳は笑っていなかった。
「って死んでんじゃねえかっ!?」
見事なまでのノリツッコミ、もとい一人漫才である。周囲から特に何の反応も返ってこなかったことに、若干の寂しさとむなしさを感じた。
しかし、冗談抜きでここが本当にあの世だというなら、俺はあえなくぽっくり逝ってしまったことになる。
「おいおい洒落にならねえぞ……」
あいつらが力を尽くしてくれたにも関わらず、結局死んでしまったのでは何の意味もない。しかしそれなら、今ここにいる自分はいったい何者なのか。
それを確かめるべく、俺は自分の頬をつねる。生者であればちゃんと痛みを感じるはずだからと、少しばかり力を込めて。
――だが、それが仇となった。
「いででででっ!?」
まだ少し頭がぼんやりしていたのか、自分の身体能力が上がっていることなどすっかり忘れていた。そのため力加減を間違えてしまい、頬にとんでもない痛みが走る。
そのせいで涙目になってしまったが、まだおそらく死んではいないということをこれ以上なく実感できただけマシだと思うことにした。しかし、だからといってここがやばそうな場所であることに変わりはない。
洞窟の壁や床、天井から青色の淡い光が漏れ出ているため、視界はそれほど悪くない。
一応用心のために、胸ポケットにしまっていた手の平ほどの小さな木刀を取り出し、元の大きさに戻しておく。
そして警戒を緩めぬまま、俺は洞窟の中を進んでいった。
*
しばらく洞窟の中を歩くことで、一つだけ分かったことがある。というのも、この洞窟は静かすぎだった。
他の人影がないどころか、虫の鳴き声一つすら聞こえてこない。洞窟内に響くのは、カツカツという俺の足音と、息遣いの音だけ。
今ここには、自分以外の生物はいないのではないかと、少しばかり冷や汗が流れてしまう。しかし、足を止めるわけにはいかない。
恐ろしいことだけを考えて、足を止めてしまうのは愚か者のすることだ。まあ愚か者は言い過ぎだとしても、それが足を止める免罪符にはならない。
別に、俺だって恐怖を感じないわけではない、というか、ぶっちゃけ今も内心ビビっている。だが、今は歩かなければ。
ここから無事に生還するためにも、足を止めている暇はないのだから。
「……ん?」
そうして歩き続けていると、少し遠くに人影が見えることに気が付いた。ここに来てからやっと見つけた人影に、思わずテンションが上がってしまう。
しかし、あの人影が俺の味方をしてくれるとも限らない。ここはきっと呪いと関係があるはずだからな。
慎重にその人影に近づき、その容姿を検める。
ふむふむ、長い銀色の長髪に、フリルのあしらわれた漆黒のドレス。後ろ姿しか見えないため憶測でしか判断は出来ないが、おそらく俺と同じくらいの少女だった。
こうして後ろから眺めている限りでは、とんでもなさそうな奴には見えない。その身からはミネのようなプレッシャーや、あの女のような邪悪さは感じられないが……。
(ええい、迷ってばかりじゃ埒が明かねえっ!)
ここはいっそのこと、思い切ってみることにした。
コミュニケーションの基本は挨拶である。なるべくスマートに、それでいて軽快な調子で、俺はその少女と思しき人影に声を掛けた。
「こんにちはっ!」
「ひょうあっっ!?」
……おおっと、可愛らしい悲鳴。
不意に背後から声を掛けられた少女は、慌ててその場から飛び退いた。そして、猫のように警戒心を強めながら、不審なものを見る目で俺を見てくる。
「……誰? 何の用かしら?」
その少女は、警戒を緩めぬままそう問いかけてきた。まあ確かに、俺がこの少女を知らないように、この少女もまた俺を知らないわけだ。警戒されるのも無理はない。
見る者すべてを惹きつける様な美しい銀の長髪。フリルのあしらわれた漆黒のドレスに、血を思わせるかのような深紅の瞳。
年は、やはり俺と変わらないくらいのように見える。大人びた雰囲気を纏っており、その視線は氷のように冷ややかだった。
「いや、何の用と言われても。姿を見かけたら、なんとなく?」
「……そう、あなたも結局、その手の人間って訳ね」
「へ?」
その呟きの意味を図りかね、俺が聞き返そうとすると――。
「――うぉっ!?」
いきなり眼前に、空を切り裂くような蹴りが迫っていた。
なんとか上体を逸らし、その蹴りをやり過ごす。あの速度と圧迫感、そして肌に感じたひやりとした感触は、あの時のクリーチャーを彷彿とさせた。
「い、いきなりなにしやがる!?」
「へえ、今のを躱すなんてやるわね。でも、これならどう!?」
こちらの抗議の声に答えることなく、少女は先ほどと同じ威力の蹴りを連続で放ってくる。しかも闇雲の蹴りではなく、俺が躱した先を正確に狙ってくるため、凌ぐのも難しい。
蹴りが主体の戦闘スタイル。俺や日向汰、そしてローネとも違うその戦い方は、見慣れない分やりにくさを感じる。
「ちぃっ!」
というかなんで俺攻撃されてるんだ? この少女はその手の人間とか言っていたが、まったくもって何がなんやらさっぱりである。
「くそ、俺の初対面はいつもろくなもんじゃねえな! なあゴスロリさん、話だけでも聞いてくれないか!?」
「……は?」