21.「底知れぬ悪意」
人間の身体には収まりきらぬほどの濃密な悪意が、ラファリから漏れ出している。それに誰よりも早く、そしてただ一人だけ気付くことが出来た涼透は、反射的に行動を起こしていた。
「ローネッ!」
「ほわぇっ!?」
唐突に怒気迫る声で叫ばれ、何事かと思いローネは容器から口を離した。その一瞬の間を狙い、涼透は渾身の力で木刀を振りぬき、薄緑色の薬液が入った容器を粉砕する。
「えっ!? えっ!?」
「な、なにをっ!?」
いきなり砕け散ったガラス片を前に、ローネと裕はただ困惑するばかりだった。
あのミネですら、涼透の行動の真意を図りかねて目を丸くしている。
そして、入れ物を失った薄緑色の薬液が、空中で飛び散った。薬液の甘い香りが周囲に漂い、その薬液は太陽の光を浴びてキラキラと輝きを放ち――。
――突如として、どす黒く変貌を遂げた。
「なっ!?」
人前では声を出さぬようにしていたはずのミネが、驚愕で思わず声を漏らしてしまう。それほどまでに、目の前で繰り広げられている光景は、異様だった。
「いったいどういうつもりだ、これは」
「……」
木刀の切先をラファリへ向け、涼透は最大限の警戒と敵意を以てラファリを問いただす。対するラファリは、先ほどから不気味な沈黙を貫いていた。
そして……。
「……フフ、フフフフフフフフフフ」
聞く者全てを否応なく畏怖させる、狂気を孕んだ笑い声をあげた。
「いやあ驚きました。殺気の類は隠していたつもりでしたが、まさか見抜かれるとは」
ラファリは、涼透を称賛するかのように乾いた拍手をする。その姿には先ほどまでの人好きするような雰囲気はなく、どこまでも狂気と悪意だけが満ちていた。
「貴方が余計な手出しさえしなければ、そこのお嬢さんは身を焼かれるような苦しみに、三日三晩悶え苦しんでから死ねたでしょうに。まったく、無粋なことを」
「――っ!?」
直ぐそこまで死が差し迫っていたことに、ローネは言葉を失ってしまった。涼透が容器を破壊してくれていなければ、今頃は……。
そこまで考えが及んだところで、ローネは全身に悪寒が走った。どう考えても、それは人間の所業ではない。
「ですが……まあいいでしょう。どちらにしても、犠牲となる方が代わるだけですからね」
「……なに?」
「フフフ、せっかくの余興ですもの、誰一人として犠牲にならないなんてつまらないではありませんか。ですから、このように」
ラファリが指差した先には、容器から漏れ出た黒い液体があった。それは地面に染み入ることなく、まるで意思を持っているかのように妖しく蠢いている。
そしてその液体は、何かに弾かれたかのように宙に浮きあがり、涼透めがけて一直線に飛来した。
「ちっ!」
涼透は、咄嗟に黒い液体に向けて木刀を振りぬいた。
しかし、黒い液体はたちまち分裂して木刀の横を通り抜け、涼透の身体に纏わりついて来る。
引き剥がそうにも掴むことが出来ず、まるで体内に侵食しているかのように、液体に触れられた皮膚が黒く変色を起こしていた。。
「がっ、あぁッ……!」
「意思を持った呪い――とでも言うべきでしょうか。その液体は攻撃をしてきた者に大層恨みを持ち、その身体に纏わりついて取り殺してしまうのです。彼は今、地獄のような苦しみを味わっていることでしょう。フフ、恐ろしいですねえ」
「……ッ、爆ぜろ!」
理解の範疇を越えた光景に着いていけず、たた呆然自失と立ち尽くす裕とローネを尻目に、一足先に我に返ったミネはラファリに向けて爆炎を放った。しかし、ラファリの周囲は光の障壁のようなもので覆われており、絶大な威力を誇るその爆炎を難なく防いでいる。
「おっと、怖い怖い。お強い猫さん、残念ですがわたくしは貴方とやり合う気はございません。勝ち目もあまりなさそうですしね。余興はこれまでにして、退散させていただきますよ」
「このまま、おめおめと逃がすとでも?」
「フフフ、勇ましいですね。そんな姿も愛おしい……ですが、わたくしだけにかまけている余裕が果たしてあるでしょうか?」
「……どういう意味だ?」
「どうもこうも、そのままの意味ですよ。ほら、周りをご覧ください」
「……ッ!?」
ミネは、そのあまりに現実離れした光景に、思わず瞠目した。
まるで草原全体を覆い尽くすかのような魔物の軍勢が、いつの間にかミネ達を取り囲んでいる。その数は、百や二百では利かないだろう。
「……まさか、あの三体の魔物もお前が?」
「ええ、お察しの通り。貴方達の強さを拝見するため、わたくしが差し向けたモノですよ。……さあ、この軍勢を草原に残して、貴方はわたくしだけを狙いますか?」
「……っ、悪趣味な……!」
「フフ、誉め言葉として受け取っておきますよ。では、これにて失礼を……おや?」
口元に微笑を讃えたまま、ラファリは重力を無視して宙に浮きあがる。そしてそのまま飛び去ろうとしたところで、不意に静止した。
「待ち……やがれッ……!」
「……驚きました。呪いに侵食されている身で、なおも立ち上がって来るとは。凄まじい精神力をお持ちなのですね」
ラファリが見下ろす先には、涼透が立っていた。今にも崩れ落ちそうな身体を奮い立たせ、両の瞳で力強く、確かにラファリを射抜いている。
「しかし、立っているのもやっと、といったところですか。意識もあるのかないのか、もうハッキリとはしていないでしょうに。なぜ、そんな身体で立ち上がるのです?」
「……お前を、倒す、ためだ……!」
ラファリの煽るようなその口調に、しかし涼透は確固たる意志を以て応える。その姿勢が、その決意が、ラファリにはただ不愉快でしかなかった。
(あの瞳……気に入りませんね。小突けば今にも死にそうなほど弱っているのに、しかし決意だけは一人前ですか。……反吐が出ます)
涼透に止めを刺そうかとも思ったが、しかしラファリは被りを振る。どうせすぐに消し飛ぶその命、わざわざ止めを刺すほどでもない。
「では、最後に。お気づきかもしれませんが、一応名乗らせていただきますね。わたくしはクリーチャー・ラファリ、以降お見知りおきを」
そう言って、ラファリは魔物の軍勢を残し、今度こそどこかへ飛び去っていく。完全にしてやられたと、ミネはただ歯噛みするばかりだった。
*
身体が、血液全てが沸騰しているかのように熱い。
神経を伝って、身体が内側から破壊されていくかのような、言葉に出来ない激痛が走る。
今にも消えてしまいそうな、この意識。繋ぎ止めておくのもやっとの思いだ。
しかし、そんな状態だというのに、なぜか俺の身体は立ち上がる。心の奥底で、何かが叫びを上げている。
――あいつだけは、決して許してはならないと。
ローネが命の危機に晒されたせいだろうか。それとも、あるかもわからない正義感のせいだろうか。
どんな感情が俺の中で渦巻いているのか、それすら定かではない。それでも、俺は立ち上がらずにはいられなかった。
……視界から、あの女の姿が消える。それを見届けたその直後、俺の意識は闇の中に溶けて行った。
*
「涼透っ!」
意地だけで立ち上がった少年の身体が、電池が切れたように崩れ落ちる。泡を食って裕が駆けつけるが、いくら呼び掛けても涼透から反応が返ってくることはなかった。
(脈は……ある!)
だが、それは単純に意識を失っただけだと知り、裕はひとまず安堵の表情を浮かべる。しかし、現状は未だ予断を許さない。
ミネは、自身の不注意さを呪った。自他ともに認める大の人間嫌いであるはずなのに、なぜかあのラファリに対してだけは一切の警戒心すら抱かなかった。
それが何よりも口惜しく、ただただ後悔だけが尾を引いている。
(……でも、嘆いている場合じゃない)
状況は依然として最悪なままであり、このまま手をこまねいていれば、涼透は間違いなく死ぬ。これ以上ラファリの思い通りにさせないためにも、ミネは思考を切り替え、現状を打破することに心血を注いだ。
「ローネッ! 涼透を抱えてレーヌの町まで一直線に走れ! 道は僕が切り開く!」
「……でも、私の、せい、で……」
しかし、ローネは未だ動けずにいた。ラファリに対して何の警戒心も抱かず、あまつさえ自分の代わりに涼透が呪いを受けたという事実が、少女の心に重く深く圧し掛かる。
ローネは、今にも消え入りたいほど自らを恥じていた。どうしようもない後悔と虚無感が、彼女の足を止めさせてしまう。
――しかし。
「下らない後悔なんて後にしろ! あいつの思惑を見抜けなかったのは僕にも責任があるし、僕だって後悔はしている! けれど、今やるべきことは何だ!? そのままずっとそこで、ぼさっと突っ立っていていいのか!?」
白猫は、少女を一喝する。そして同時に、進むべき道を指し示した。
「……ッ!! そんなの、いいわけがないよ!」
ミネからの叱責に、ローネはハッと我に返る。そうだ、こんなところで足を止めるわけにはいかない。
後悔なら、後で死ぬほどすればいい。だって今動かなければ、きっと後悔する資格すら失ってしまうから。
「ならとっとと走れ! それと裕君もね! ――行くよッ!」
「「うん!」」
ミネの合図の元、涼透を背負ったローネは、裕と共にレーヌの町の方角へ向けて走り出した。それと同時に、魔物の軍勢も大音声の叫びを上げ、ミネ達に襲い掛かって来る。
――呪いの刻限は、あとわずか。