目の前でゴキブリが溺れ死んだ件
いやはや、突然だった。
もうお風呂から出ようという時、湯船の蓋の上に奴はいた。
裸で佇んでいた私の姿は、外から見れば滑稽に違いなかった。
最初私はただの汚れだと思った。
なにせ私は目が悪いのだ。
しかし目を細めて近づいてみればその汚れはさっと蓋の溝に沿って湯船と蓋の間に逃げてしまった。
私はそこで察した。
少し小さい例の奴だ、と。
奴にとって不幸だったのは私が風呂場から出ずに、蓋をとってもっと観察しようとしたことだろう。
生物が好きなもののサガである。
私が風呂場から出て殺虫剤を持ってくるようなことをすれば、奴は逃げられたかもしれない。
わざわざ裸のまま観察しようとするものは少数派だろう。
今となっては無駄な考察である。
私が見ようと湯船の蓋を取ると、奴は光から逃げようとし風呂の淵で足を滑らせた。
あっという間の出来事だった。
湯の中に落ちてしまったのだ。
必死にもがいて湯の中から出ようとすらものの、その行動は全く無意味であった。
私は初めてゴキブリが水に浮かないことを知った。
いかにも水に浮きそうなのに、浮かないのだ。
意外だなぁ、そう思った。
ゴキブリはもがいていた。
そして、数秒後にピタッと動きを止めてしまった。
その前に必死にもがいていた姿が嘘のように。
その命の火は湯によって簡単に、数秒のうちに消されてしまったのだ。
私はその瞬間感動に包まれた。
生物の儚さというものに魅せられた。
奴は必死に死から逃げようとしたのに、その全ては無駄だった。
どうもがこうと湯船に落ちた時点で奴の運命は決まっていたのだ。
上に上にという意思はあるけども、現実は下に落ちるだけだった。
今自分の目の前で、テレビの中の世界だった「自然の厳しさ」というものを奴はまざまざと見せつけてきた。
ゴキブリは死ににくいイメージであるのに、こんな簡単に自滅とも言える死に方をする。
受信料とかでめんどくさい話が多いN放送局で良くやってる1時間ぐらいの自然のドキュメンタリーをその数十秒で私は見た気分だった。
とにかく感動したのだ。
ゴキブリが死んだことで感動する。
そう言うと多くの人は、ゴキブリが嫌いだったのだろう、そう想像するに違いない。
違う、私はきっと目の前で猫が車に引かれても同じ反応をするに違いない。
可愛そうという感情と、自然の厳しさに感動する自分がきっとそこにはあるだろう。
どうしても気になって奴の死骸を手に持って間近で見ることにした。
何故かと言われると何も言えないが、ただただ気になったのだ。
今に動き出しそうなほどに死骸は綺麗であった。
その死骸には羽はなく、成虫ではないことをはっきりと示していた。
彼は大人になる前に、死んでしまったのだ。
不思議なものである。
長い人生の中で私もこの死骸のようにどこかで倒れてしまっていたかもしれない。
だが、私は生きながらえて、ゴキブリはあっさりと死んでしまった。
あのなかなか死なないイメージのあるゴキブリが、である。
現実は厳しいのだ。
それを改めて実感した。
その後、私はその死骸を外に捨てた。
きっと、今頃色んな生き物があの死骸で生きながらえているのだろう。
そう思うと、諸行無常という言葉をきちんと理解できた気がした。