緑の小瓶。
アメリが声をかけられたのは、砦内の通路を、部屋に戻っている途中のことだった。
朝の清々しい空気、白っぽい陽の光が、石造りの通路に流れ込む。
それでも夜の間の温まった空気と、まだ朝日で洗い流せていないような濃い影が通路の片隅に残っていた。
薄暗いその通路に、光差すような朗らかな声が、アメリを呼び止める。
「騎士団長夫人! 良かった!」
「……はい?」
声の主は大股で歩み寄ってくると、アメリの両手を取ってぎゅうと握る。
突然詰め寄ってきた相手は見知った顔だった。
先日の御前試合が終わった後に、声をかけられ、おまけに盛大な賛辞を送られた。
我が陛下よりも喜んでいた様子だったのを、アメリは思い出す。
「……スタンゲイブ王子?」
「そうだ! いやぁ、助かった!」
「どうしたのですか? なぜこの砦に?」
「うん、いや、内部に見学に来たのはいいが、夢中になっているうちに、共とはぐれてしまって」
「……そうですか」
「こちらの水路は我が国と仕様が違う……こういう機会でもないと、なかなかじっくり見られないからな……」
「……はぁ……はい」
海の国には王子がふたり。
ひとりは国王の右腕として、宰相の地位に。
弟王子の方は国土の整備や、特に灌漑に熱心だという話は何となく聞いていた気がした。
お忍びであろうが、王子が来訪するという話は聞かなかったのを不思議に思う。
しかもこんな朝の早い時間に、とも思わなくも無かったが、王子はこの後に御前試合の観戦に向かうはずだ。
だとすると施設を巡るなら今しかないのかと納得した。
詰まっている予定の合間をやり繰りして、あちこち見て回るというのは、アメリにも身に覚えがある。
特に関心がある事柄なら、少しでも多く見たいという気持ちが余計に働くのも分かる。
「騎士団長夫人、良ければ案内をお願いしたいのだが」
「……ええ、私もあまり詳しくは無いですけど……出口くらいは分かります」
「はは! 出口はまだ後でいい。ここの水源は井戸からだと聞いたが、そこはご存知か?」
「はい……洗濯するのに何度か行ったので」
「洗濯?! 夫人自らされるのか?」
「夫と自分の着るものぐらいですけど」
砦内にも洗濯を専業にしている使用人はいるが、この期間中は騎士たちが大勢宿泊している。少しでも砦で働く者の負担を減らすのは当然。
そもそも騎士たちは自分でできることぐらいは自分でしてしまう性質の者が多い。
逆に自分の世話もできない者は、仲間内から笑われてしまう。
高位であろうが、そこは関係がない。
「なるほど、ではその井戸まで案内をしていただこうか」
「はい……でも、いいんですか? ……その、お付きの方が心配されているのでは?」
「ああ。構わなくていい。目を離した隙に私が居なくなるのはいつものことだ。心配なぞとうの昔からしてはない!」
「最初の、共とはぐれたという話は?」
「うん? あれは方便というやつだ」
屈託なく大きな笑い声を上げると、スタン王子はさあとアメリに腕を差し出した。
随伴しようと礼儀正しくアメリを扱う。
「……失礼いたします」
「うん、では案内を頼む」
そっと乗せられたアメリの手に頷くと、ふたりは通路を歩き出す。
川から直接水を引かず、砦で使用する水は全て、地下水を井戸から汲み上げている。
そのことはアメリも聞いて知っていた。
雨水を集めている貯水池も砦内部にある。
川から水を引くというのは、有事の際には何かと不利に働くこともある。
砦内の水路も人目に晒されるような場所には無く、壁の間や、床の下を通っているとクロノに教えてもらっていた。
砦の中心に近い場所、半地下にあたる場所に井戸がある。一旦、最上部まで必要な分だけを汲み上げて、高低差を利用して砦内の至るところに水を回している。
一度ぐるりと砦中を回ってきた水を、洗濯や掃除に使う。その水は外に出ていき、そのうち大きな川に流れ込む。
アメリが聞いた話をしなくとも、スタンゲイブ王子は井戸場を見ただけで、ふうんと理解したように息を吐いた。
朝の忙しさがひと時 落ち着いていたのか、井戸場には誰もおらず、周囲に人の気配もない。
水路を流れるちょろちょろという音と、管の中を汲み上げられているこここと低い水の音ばかりが聞こえている。
高い位置にある明かり取りからは光が差し込み、四角く窓の形に白い筋を引いていた。
「……いいな」
「……はい?」
井戸場にひとり足を踏み入れていたスタン王子は、出入り口に立っていたアメリを振り返る。
「騎士団長夫人」
「……なんでしょう?」
ひやりとした笑顔の王子に、今までと違った空気を感じ取ったアメリは、思わず腰の後ろに手を回す。
同時に長剣は部屋に置いてきたんだったと、そんな必要はない、何を馬鹿なことを考えるのかと、ごまかすように顔に笑みを貼り付けて返す。
「私に攫われてはもらえないか」
「……はい?」
「貴女に惚れてしまってな、私のものにしたい」
「……えっと……人に惚れているようには見えませんが」
「そうか? だが貴女を連れ去りたい」
「どうして?」
「……やはりこれでは駄目か……そこらの女のように抱きしめて囁くべきだったか?」
「そうやって見下している時点で、王子の話を聞く気もおきない」
「そうか? 貴女の夫は違うのか? 必要もないのに妻に洗濯をさせるような甲斐性無しじゃないか」
「……汚れた服を夫に着させないのが、妻の甲斐性」
「なるほど、見た目とは違って献身的なんだな……ますます気に入った」
「……そうは見えない」
「うーん。どうやら私は嫌われたようだな」
「好かれようとする態度では無いのに」
「まあな!」
「何が目的?」
「言ったろう、貴女を攫わせてくれ」
「だから何故?」
「攫われてくれたら教えてやろう」
「断ったら?」
「……先日の仕合で見たままだな。肝が座っている、しかも献身的。自分の身よりも、他人の身の方が心配、だろう?」
こういう脅され方はもうお腹いっぱい。
アメリは遠慮なく思い切り、心の底から溜息を吐き出した。
「……嫌だと言ったら?」
きっと従うことになるんだろうと思いながら、それでも理由も聞かずに、というのは余計に腹立たしい。
「この砦に居る者、皆が命を落とす……いや、もっと大勢になるか?」
「なに……を?」
スタンゲイブ王子は懐に手を差し入れると、濃い緑色をした玻璃の小瓶を取り出した。
美しい装飾の、優美な形をした、ご婦人が使う香水入れに見える。
陽に透かすように少し持ち上げて振ると、中に液体が入っているのが、少し離れたアメリからも確認できた。
「一滴で百人は殺せる」
「……毒薬?」
「そうだ……海辺にいくらでもいる貝から採れる猛毒だ。体内に入れば内臓が爛れて働かなくなる。王の加護があろうが修復は追いつかん。時を止めている者は長く苦しんで死に、そうで無い者は即死だ」
「……嘘……」
「なら試しに使ってみるか?」
「自分に使うといい」
「はは! こんな時にも冗談が出るとは、さすが、余裕があるな」
「本物だという証拠は?」
「……使わないのが、本物の証だ」
今さらながら井戸まで案内させられた自分に腹が立つ。
気持ち良く思惑に乗ってしまったことに、苛立って、大きく悪態を垂れた。
「おっと、騎士団長夫人……高貴が剥がれて落ちたぞ」
「……余計なお世話だ」
「蓋を開けてこの小瓶を井戸に放り込むのを見るのか、大人しく攫われるのか……さあ、騎士団長夫人?」
スタン王子は勝手知ったるといった具合に、砦の中をアメリを連れて移動した。
人に会わずに済むように、時には遠回りをしてアメリたちが寝泊まりしていた部屋までやって来る。
長年に渡って友好関係があるというのも、伊達ではなかったらしい。
初めてここに来たアメリよりも、スタンゲイブ王子の方が砦を詳しく知っていた。
少し考えれば分かりそうなものを。
ここでもまたアメリは自分の浅慮に腹が立つ。
「うーん。何か置いていかないと攫ったと気付かれ難いな」
「……手紙を書かせて」
「……それは不味い、追っ手が早くかかる……お、それがいいな」
アメリの首元に光っている指輪を手に取る。
「いつも身に付けているのか?」
返事が無いのを肯定と受け取って、王子は指輪を力任せに引いた。
革紐が切れて擦れる痛みに、アメリの顔が歪む。
「今のところはこのくらいでいいだろう……貴女の夫はこれを見て動転してくれるかな?」
王子は窓辺の一番目立ちやすいところに指輪を置くと、振り返って口の端を片方だけ持ち上げる。
「ここにあるものは持ち出さないでくれ。必要なものは私が用意する。もちろん武器も置いていけよ」
「……自分の身も守れないのか」
「それは私に任せておけ」
「王子から身を守りたいんだけど?」
「おお! それもそうだな! ……だがまあ、お互い穏便にいこう。それで解決だ」
「どうだか」
「はは! ひと時の欲に負けて目的を忘れたりせんから、そこら辺は安心しろ」
今となってはもう無駄な紳士らしさをちらつかせながら、さあ、と王子は上品に笑った。
「ここからは鬼ごっこだ。ウチの軍人や、ここの騎士に見つかって捕まれば、私たちの負けだ。そうなれば私はどうやってでもあの井戸に小瓶を放り込む……分かったか?」
「……勝てたらその瓶を私に」
「……いいだろう。……では参ろうか、アメリッサ様」
「馴れ馴れしく呼ぶな」
「いやあ……楽しい遊びの始まりだな!」
誰に見咎められることもなく砦を出た。
草が腰までの高さに蔓延った、誰にも使われていない城壁の小さな扉を抜ける。
城壁を抜け出る直前に、アメリは振り返って石造りの頑強な砦を見上げる。
裏手にあたるその場所を、アメリは初めて見た。何だか知らない建物のように感じる。
ぎゅっと目を閉じて、これから起こるであろう騒ぎに、皆に対して申し訳なさがこみ上げてくる。
伝わりも届きもしないのに、クロノに本当にごめんなさいと、心の中だけで何度も何度も繰り返す。
ちょうどその頃、この時はまだ何も知らないハルが、部屋の扉を叩いていた。