凪の海。
地名と宿の名が書かれただけの封書の中には、アメリの耳飾りの片方だけが入っていた。
太く長い両腕を伸ばしたような半島。
その左腕の指先、その辺りの地名だった。
クロノはハルと共にその地に向けて馬を駆る。気持ちばかりが先走っているクロノを、宥めて抑えて、それでも持てる力を使い最速で足を進めた。
半島の先端の町、大きな魚の名が付いた宿。
その場所に辿り着くと、宿の主人は海の方を指差す。港の方で海を見ているはずだと言った。
石が組まれて護岸された港に、船を留め置けるように桟橋が何本も伸びている。
その端、一艘の舟も繋がれていない、他に比べると半分程の幅しかない、少し頼りなげな桟橋の先にアメリは座っていた。
膝を抱えて海を見ている背中。
光をきらきらとはね返す水の中に、今にも消えてしまいそうな気がする。
思い切り走って、全力で引き止めたい気持ちをぐっと堪える。ゆっくりと息を吸って静かに吐き出した。
護岸から桟橋に足を踏み出すのと同時に、クロノは久し振りに、名を呼んだ。
「……アメリ」
驚いたようにびくりと肩が揺れて、背筋が伸びる。
振り向いた顔は困ったようで、それでも笑っていた。
「思ったより早くて、びっくりした!」
立ち上がると走って、体当たりの勢いでクロノに抱きついていく。
受け止めてアメリを力一杯抱きしめた。
「……心配した」
「ごめんなさい」
「アメリッサ……」
「ごめんなさい」
「顔を見せて」
体を離して、頬を撫でる。
背に回した手の感覚も、身体の柔らかさも、特に変わった感じはなかった。
心配していたように痩せていないことに、安堵の息を吐き出す。
耳飾りの無い耳たぶを摘んで、そのまま額をつるりと撫でる。
「前髪を切ったのか」
「……みんな私が十五、六に見えるって」
「……切られたのか」
「……自分で切った」
「……そうか」
「クロノ……」
「なんだ?」
「……来てくれて嬉しい」
「……当たり前だ」
もう一度ぎゅうと抱きしめると、腕の中でアメリはもう一度ごめんなさいと言った。
苦しいと言うまで抱きしめて、もういいと言うまで口付けを繰り返した。
アメリはクロノの手を取って桟橋の先に歩きだす。
「連れて来てもらう約束だったのに」
アメリを見下ろすと、また困ったような顔で笑っていた。
演習が全て終わった後に、海を見に行こうと話をしていた。
海を見たことがないアメリは、それをとても楽しみにしていた。
「自分で先に来ちゃった」
「……それは……それでアメリらしいな」
「そう……かな。そうかも」
「けがは無いか? 具合の悪いところは?」
「……ないよ、全然ない」
「本当か?」
「ほんとだってば」
「嘘はすぐにばれるぞ?」
腕の中に囲ってむぎゅむぎゅに抱きしめながら、あちこち撫でると、アメリはくすぐったいと身体を捩って笑った。
「えぇ? 信用無いな……まぁ、無くなるか」
「信用有る無しの問題ではない……裸にすればすぐに分かるぞという話だ」
「あはは! ここで裸は嫌なんですけど!」
「本当になんとも無いんだな?」
「それは服着ててもわかるでしょ?」
ゆっくりとしゃがみ込んだアメリに手を引かれる。
桟橋の先端。
ここより先には海しかない。
遠く見える小さな船の影と、海鳥が一羽、風をつかまえようと羽ばたいているのが見える。
凪いだ海は時々ちいさな白波をたてた。
絶えずちらちらと太陽の光を跳ね返して、足元ではちゃぷりちゃぷりと水の音が続く。
ここに来てやっとクロノは潮の香りを感じた。
しばらく海沿いを馬で駆けながら、ずっと横目に見ていたのに、海まで来たのだと、やっと気付いた。
アメリがいれば、視界が鮮明になった気がする。世界を広く遠く見渡せる。
石造りの、薄暗く狭い部屋で、静かに大暴れしていたのが、悪い夢だったのではないかと思えた。
後ろ側に座り込んで、アメリの腰に腕を回して抱える。
「……海だな」
「……そうみたい」
首筋に口付けて、肩に額を擦り付ける。
「……アメリだ」
「……そうみたい……うん? 泣いてる? クロノ」
「…………泣いてない」
ぺしぺしと叩かれた腕にぎゅうと力を込める。
離れた場所でふたりを見守っていたハルは、小さく息を吐き出すと来た道を戻って宿に向かった。
宿の主人から話を聞こうと頃合いを見計らっていたが、なかなか忙しい様子だった。
宿だけではなく食堂も兼ねているから、昼時という時間を考えるとそれも仕様がないと気長に待つことにした。
手伝いの娘に声をかけて、食事を頼む。
運ばれたついでに、一撃必殺の笑顔で向かいの席を勧めて見事にそこへ座らせた。
世間話をしながら、合間に口説き、その合間にアメリの話を持ち出す。
聞いた話に心の中だけで唸り声を上げていると、見計らったようにクロノとアメリが姿を現した。
「アメリ!」
「ハル!」
ハルは席を立って腕を広げる。
そこに飛び込もうとするアメリ、背後から腰に腕を回してそれをクロノが止める。
何で邪魔するのと同時にふたりから言われて、クロノの眉間にしわがよる。
「元気そうで良かった」
「……ごめんなさい」
「許さないからね、ほんとに……」
指先で頬を撫でて口付けをしようと身を屈ませると、地の底を這うような声でそれを止められた。
構わずにやりと笑うと、見せつけるようにアメリの頬に唇を当てる。
「まったくもう! 心配させて! ……こうしてやる!」
クロノの腕からむしり取るようにして、地面から足が浮くほど抱きしめてアメリを振り回した。
きゃあきゃあ声を上げて笑っているアメリの嬉しそうな顔を見ると、引き剥がしにかかろうとしているクロノの手が止まる。
ちょっと長くないかと言葉をかける直前に、ハルはアメリを解放した。
お互いににこにことよく似た顔をしている。
「ふふ……似合うよ、その格好。町のお嬢さんみたい」
さらさらとした薄手の布地には、端の方に細かな刺繍がしてあった。我が国で見るものとはまた違った絵様で、とても可愛らしい。
アメリは珍しくシャツとスカートといった、町でよく見かける女の子のような格好をしていた。
「着替えが無くて困ってたら、ロキシーが貸してくれて」
ハルの背後に顔を向ける。
宿屋の看板娘はにっと笑って、商売人らしくはきはきと話をする。
「こんな若くてかわいい子が、着の身着のままなんてかわいそうじゃない!」
上等な服じゃなくて悪いけど、とロキシーは笑う。
「アメリは何を着てもかわいいね。ねぇ? 総長?」
珍しく同意を求められて、クロノは言葉を喉の奥で詰まらせた。
「ダメだねぇ。このお兄さんくらいするっと褒め言葉が出ないようじゃぁ、すぐに愛想尽かされるよ!」
あははと笑いながら、ロキシーは新しく入ってきたお客に、いらっしゃいと声をかけて店先に向かった。
「よく……似合っている……と、思っていた」
「え?……いいよ、別に」
「取って付けたみたいに後から言われてもねぇ? 嬉しくないと思うけどなぁー」
「もう!ハル!総長いじめちゃ駄目!」
横からがばりとクロノに抱き着いて庇うと、むっとした顔でハルを睨む。
あまりのあんまりさが有り余り、久々過ぎてクロノは自分が真っ直ぐ立っている自信がなくなってくる。
「……ぶはっ! 総長 顔真っ赤っかだよ……面白過ぎる……」
「黙れ」
「ねぇ、なんで赤くなるの? 私 何かした?」
「……いいから」
ハルはにやにや笑いながらアメリのために椅子を引いた。
ごく自然に手を引いてそこに座らせる。
「それじゃあ、食事をしながら話を聞こうかな……まだでしょ? アメリ」
「……うん」
「総長も座る?」
ついでにどうぞといった感じで隣の席を手で示した。
店の奥に向かって食事を頼む。
「食べながらで構わないから……」
ハルは向かい側に回って自分も席に着くと、今までの表情とは違った顔になる。
「きちんと最初から話してくれるかな? 何があって、ここまで来たのか。今までアメリがどうしてたのか」
薄っすらと笑っていても、それは事を問いただそうとしている騎士の表情だった。