陽の光。☆おまけつき
前日の足取りは翌朝には知ることができた。
ハルは砦を囲む城壁に寄りかかっていた。
報告に帰ってきたローハンと、午前の白い陽の光が作った濃い影の中に入る。
さわさわと揺れる草や、ちちと聞こえる鳥の声。
少し遠くに感じるむさ苦しい騎士たちの気配もいつもと変わりない。
いつもと同じ。
天気も良い。
そんな長閑さが、余計に不穏に感じる。
勝手なもんだとハルは苦笑いしながら、腕を組んで、城壁に預けた背中に体重を乗せる。
住人がスタンゲイブ王子の姿を確認していた。食料を買い込んでいるのを、砦の町の者が目撃している。
そのことからいくつかの推測が立つ。
前もって準備していなかったのは、今回の件は突発的な事だったのだろう。
それは攫われた人物が『先日の御前試合で目立っていたアメリ』だったことからも窺い知れる。
スタン王子はふたり組でそのまま町を出て、東の方へ向かったとみられる。
そこから先の目撃はないので、街道は使わず、人目に触れないような草はらや森の中を進んでいると思われた。
馬や馬車を使っている様子はない。どこかにそれらを隠していた痕跡も残されてはいない。
これも計画性がないことの裏付けになった。
「……にしても足が早過ぎます」
「……あぁぁぁ。てことはやっぱり、王子ともうひとりのもうひとりって」
「奥方様でしょうね」
「……協力しているのか、させられてるのかはまぁ置いといて。アメリが自分の足で動いてるってことは……」
「追うにも時間がかかりそうです」
「だよねぇ……」
アメリ以外の女性ならなかなかこうはいかない。王族や貴族の女性ならば尚更に。幾日かあれば国境を超えそうな速度での移動は難しい。
王子の目的や要求はまだ分からないが、ひと所に潜伏せずに、アメリを連れて移動をしている。
居場所を特定するのは、ローハンと少人数だけではかなり困難に思える。
「もう少し連れて行く?」
「……いえ。追っ手があるとあからさまにするのは避けたいので」
「だよねぇ」
「それに」
「なに?」
「あちらも王子を探してますね……それっぽいのを見かけました」
「あらら。やっぱり? まぁ、そうなるよね……上手くやってくれると良いんだけど」
「……スタン王子は意図して痕跡を消しているようです。追われることは想定していると思いますよ」
「じゃあ、あの手紙は足止めとは思ってないってこと?」
「それはなんとも……いくらか緩まれば良いと思っているのか……」
「何にせよ少しずつアメリを返されちゃったら、総長なにしでかすか……考えるだけで怖いんだけど」
「……はい。なので今のままで追跡は続けます」
「うん。お願いね、ありがと」
では、と人の良い顔で笑ってローハンは城壁を離れて日向に飛び出して行った。
陽の元に晒される一瞬、ローハンの後ろ姿が白い光に消されたように見えなくなる。
そんな日常にありがちな光景でさえ、アメリを重ねて胸が締められるような思いがした。
ハルは唸りながら顔を顰める。
今の話を総長にしない。という選択肢はあっても、ハルはそれをしたくない。
けれどしてしまえば総長は静かに部屋で大暴れだ。
「見る度にびっしょびしょなんだよなぁ……」
仕合う前よりも気が漲り、仕合中よりも鬼気迫る総長の雰囲気は、見る度にこちらの背中に痺れが走る。
「やだなぁ……むさ苦しいったら、ほんと」
ハルはふへへと力なく笑う。
なかなか剥がれようとしてくれなかったが、べりべりという幻聴を聞きながら背中で城壁を押した。
総長のいる部屋に向かうため、ローハンとは反対方向に歩きだす。
そうか、と短い返事を聞いた後、ハルはすぐに部屋を出て行った。
クロノは壁に掛けられていたアメリの細身の長剣を手に取る。
見た目の割にずしりと感じる剣を握り、額に押し頂くようにする。
押し殺した息を全部吐き出した。
アメリが自らの意思でスタン王子と共にしていようが、この部屋まで自分を守る自分の剣を取りに戻ることが出来なかったのには変わりない。
衣装や身の回りのものもそのままある。
身に付けていた指輪を部屋に残したのは、王子か、その言い付けを実行した誰かだろう。
しかしこの砦内で、指輪を置くよう指示されたという話は聞かない。
それなら王子がわざわざここに来て、見せ付ける為に置いていったと考えるのが妥当だった。
従わざるを得ない理由は想像が付かないが、そうせねばならぬ程のことなのだと、クロノは自身に言い聞かせた。
身を守れる力量はある。
ひとり逃れるのも、アメリなら難しくはないはずだ。
国同士の関係も考慮しているだろう。
相手が隣国の王子だから、下手なことは出来ないと考えたに違いない。
もし自分がアメリの立場なら、理由はどうあれ同じようにするだろう。
それでも自分とは違うだけに、不安は膨らみ続けて、それは止まらない。
少しでもアメリに男の手が触れるのかと思うと、辺り構わず焼き払いたくなる。
アメリがそれを許さないと分かっていても。簡単に自分の身を投げ打てる。そんなアメリの一面もあると、知っているだけに、嫌な想像は尽きない。
ことは我が国だけに留まらず、隣国の王族や貴族に知れ渡った。
本人や周囲は気にしなくとも、憶測が憶測を呼んで、良く思わない者たちにどんな言われようをするのか手に取るように分かる。
そんなことからすらもアメリを守れないのかと思うと、今度は自分を焼き払いたくなる。
良くないことばかりを考える自分が嫌で堪らず、クロノは細身の長剣を鞘から抜き出した。
気持ちを鎮めて、喧しい想いを断ち切るように剣をひと振りする。
自分のものより風を切る音が高く速く、耳の横を通り過ぎていった。
握り直して構える。
遊び半分で教えてもらった剣さばきを、その時のアメリの姿と一緒に思い出した。
まだ大丈夫。
髪以外にどこも欠けることはなく、アメリは自分の足で歩いている。
それだけを支えにして、クロノも真っ直ぐに立っていた。
御前試合は惨憺たる有り様だ。
試合自体はこの件もあってか、勇猛で気合いの入った素晴らしい展開を見せている。
惨状を呈しているのは、王族や貴族の詰め込まれたこの観覧席の中だった。
あちこちで噂話が飛び交っている。
最前列に誰が並んで座っているのか。
それを知らぬ者もいないだろうに。
この空間に仕切りなど存在しない。
にも関わらず、己より前に声は聞こえないと思っているのか、それともわざわざ聞かせようとしているのか、判別が難しい程の嫌味加減だ。
所構わずだなと声を上げてやろうかと思うたびに、背後からムスタファの手がびしゃりと肩に乗ってくる。
横目に見ると、隣国王はぷるぷると震えている。その怒りを抑えようと、王妃がすぐ横で手を握り、別の種類の怒りを自分の夫に向けていた。
噂や醜聞ごときで収まるなら、それに越したことはない。
徒おろそかに隣国との関係を悪くさせても、なんの得も旨味もない。
それなら背後が憶測を頼りに結論付けた『第二王子と騎士団長夫人、愛の逃避行』でもう良いかと白目を剥いた。
押し殺した低い声が隣から、すまない、と聞こえてくる。
今夜も飲むぞと、唸り声と一緒に返事をした。
「あのクソ馬鹿たれ! 見つけたら捕まえて串刺しにしてやる!」
割れてしまわないのが不思議な勢いで、怒りと一緒に空のグラスを卓に置いた。
後ろに控えているブラッドレッド第一王子は、酒の入った新しいグラスと取り替えながら、父王にさらりと声をかけた。
「頭を落として城門に飾りましょう、陛下」
ブラッド王子は見た目は優しそうな風体をしている。王妃に似た容姿だが、中身もまた王妃に似て厳しい一面をもっていた。
落ち着いて状況を把握して、冷静な態度が取れる。ブラッド王子は父王の右腕として、宰相の地位にいた。
「はは! 怖ろしい親子だな……大丈夫かこの国は」
「……ご心配いただきありがとうございます。ただ、よそ様の奥方を誘拐した第二王子の頭の中味ほど平和ではないですけどね」
「……その後、そちらは何か掴んだだろうか」
「いえ……まったく、何がしたいんだか」
空になったグラスを持ち上げると、後ろから新たに酒の入ったグラスと差し替えられる。
宰相ムスタファが冷え冷えとした声を出す。
「失礼を承知で言いますが、スタン王子に何か大きな企てがあるとも思えない」
「……でしょうね。深く物事を考えて、慎重に行動できるほど頭は良くないですから」
「……いや、そこまでとは」
「……残念ながら本当の話です」
「おいおい……一体 誰に似たんだ?」
「俺にだよ!! 悪いか! 悪いな!! ごめんなさい!!」
「はは! おかげで退屈はせんな……構わん。飲め飲め」
卓を挟んで向かいにいる隣国王に、ただ、と付け加える。
「……うちのかわいいわんちゃんだから、無事に返してもらいたいな」
「もちろんだ!! ひとつの傷も無く。それは保証する! 馬鹿だが女性を傷付けるようには育ってない!」
「なら構わん……俺はな。だが本人やその夫はどうか知らんぞ?」
「串刺しだろうが、斬首だろうが、八つ裂きだろうが、気の済むようにやってくれ」
「なんだ……選べるのが極刑しかないぞ。どうなってるんだ、この国は……付き合い方考えようかな」
「う……ぐ……それも致し方ない」
「え……冗談だってば。真面目か!」
陛下はふざけ過ぎですと、両国の宰相から冷ややかに言われると、何故か照れくさくなって、えへへと口から漏れてくる。
また同時にため息を吐かれて、今度はおかしくて声を上げて笑った。
合同で行われる演習の全日程は終了する。
両国の国王も、その他の国の王族も貴族も、砦の町を離れて、自国や自領に帰った。
クロノとその周辺の一部だけがそのまま砦に居残って、ふたりを捜し続けていたが、未だに何の進展もない。
スタンゲイブ王子からは次なる要求がないまま、半月が過ぎようとしていた。