白金の指輪。
その日、剣術の予選会場にハルが駆け込んできたのは、正午を過ぎた頃だった。
クロノは次の試合開始が近かったために、競技場の裏手で剣を振るっていた。
ハルは出場者ではないので、そちらには立ち入りができない。
折りよく観客席側にいたローハンを見付けて、事情を説明した。その内容に眉の間をくっと寄せて頷き、すぐにクロノを呼ぶ為に、その場を走り去った。
その日ハルたちは最初の試合に間に合うように、観客席が解放される時間に合わせて出かける予定だった。
寝泊まりしていたのは我が国側の砦。
そこにいるのはほとんどが騎士。
自分の出番のない者や、もう試合の終わった者が砦の中に相当数いた。
その中にあって、誰に見咎められることもなく、アメリは姿を消した。
「どこにも居ないんだ」
「……探したのか」
「探したよ! ……そりゃ、鍋のふたまでめくっては見てないけど……今も砦に残ってる奴等が探してる」
「今後の試合は棄権する……ローハン」
「ちょ、ちょっと待って、決断が早すぎるよ」
「……試合どころの話ではない」
「う……ん、まぁ、そりゃそうだけどさ……もしかしたら、すぐに見つかるかもしれないし」
「探したんだろう」
「探したよ…………あぁぁああ! もう、そうだよ、どこにいるか見当もついてない」
「ローハン」
「……はい。辞退すると伝えます」
「頼む……一度 砦に戻る」
「……分かった……帰りながら話を……」
前夜から翌朝にかけてまでは、もちろんクロノはアメリと共にしていた。
食堂になっている広間で、大勢に混ざって、一緒に朝食を取った。
その後すぐに出かけるクロノと試合の出場者を、アメリは城壁の外まで見送った。自分の出発までを部屋で過ごし、そこで迎えのハルを待っている予定だった。
足早に、走るような速度で砦に戻りながら確認を取りつつハルは予定を話す。
「僕が迎えに行くまでは半刻も無いはずだよ」
「……そうだな」
「ていうか、予定より少し早目に部屋に迎えに行ったし」
「……そうか」
出迎えるはずのアメリの返事はなく、ふたりの滞在している部屋には誰もいなかった。
最初は散歩にでも出たのかと思い、ハルはしばらく部屋の前で待っていたが、戻ってくる様子もない。
部屋内を探そうにも、簡素な造りなので、隠れてハルを脅かそうにも、人の入り込めるような隙は無い。
それでも一応は部屋の中を探し回って、すぐに範囲を砦内全体に広げた。
目に付いた騎士にも声をかける。
砦の一番高い場所は五階部分で、上から順に全部を見て回った。
「中には居なかった。今ごろみんなは外を探してるよ……僕は後を任せてこっちに来たけど」
「……急ぐ」
「……そうして」
足を早めるクロノの後を、ハルは黙ってひたすらに付いて走った。
間もなく砦に到着し、まだ見つからないという報告にただ頷いて、クロノは滞在している部屋に戻った。
部屋の中は出かける前と何ら変わりないように見える。
何ら変わりない。
今朝 見た状態のまま、大きく動いたものがない。
窓辺の小さな卓の上に、きらと光るものを見つけてクロノは歩み寄った。
細い革紐の付いたそれを持ち上げる。
「……それは? 指輪?」
「エイドリクから贈られたものだ。常に身に付けていた」
太くがっしりした白金の指輪は、弓を射る際に矢羽が擦れて痛めないように親指に嵌めるもの。
先日まで行われたアメリの試合で使われ、気合いを入れるためだとずっと首に下がっていた。
「ああ……ウチの弓使いが着けてるやつか……けど、それ、アメリのなの?」
「……そうだ」
自分の親指には小さい指輪を、クロノは手の中で転がす。
「……そこ……紐が切れてるよね」
革紐は結ばれている位置から少しずれたところで切れていた。
摩耗で自然に切れた感じでもなければ、刃物で断った感じでもない。
両端は少し細く伸びて、引きちぎれたように見える。
自分で引っ張って千切る理由を思い付かない。丈夫な革紐を千切るにも、相応に力が必要だ。
胸の奥が握られたように痛むのを、クロノは硬く目を閉じてやり過ごす。
革紐を取って纏めてから懐に仕舞った。
アメリの指輪を自分の指に通して、その手をぐっと握り込む。
まだ分からないことの方が多い。
心を落ち着けて、冷静に対処しなければと自分に言い聞かせた。
「ねえ……他に、何か変わってるものはない? 何か、無くなってるとか」
「ああ……」
捜索の際の基本中の基本をハルから質問されて、いつの間にか落ちていた視線を持ち上げた。
荷の入った鞄をひっくり返し、あちこちの物入れを引っ張り出しても、特に無くなったものも、逆に増えたものも無いように見えた。
壁にはアメリの外套がぶら下がっている。
その下に立てかけられた長剣も、大弓もそのまま。
昨夜、とりとめもない話をして笑い合いながら、そこに外套を掛けていた姿を苦もなく思い出す。
試合を観戦した、その時の感想を楽しげに話すアメリ、そのシャツの襟元に指輪があったのも覚えている。
眠る時でさえ身に付けたままだった。
「いつもと変わった様子は無かった?」
「特に……いつもと一緒だった。これ以外には何も……」
人差し指に着けたアメリの指輪を、親指でくるりと回す。
「……そう……服装も、いつも通りだね?」
「……そうだ」
朝食を一緒にしていなかったので、ハルは今朝のアメリがどうだったかを知らない。
「……ん。分かった……総長はここに居て。ちょっと様子を聞いてくるよ……いい? 勝手に動かないで」
「……ああ」
ハルが部屋を出た後、改めてもう一度、なにか変わっていないかと見回した。
焦りが過ぎている自覚がある。
仔細を見落としていないか、自信がない。
落ち着けと心中で繰り返しながら、それでも悪い想像は止まらない。
自分の知らぬところで何が起こっているのか、アメリの身に危険が迫ってはいないか。
そう考えただけで己の身が引き千切られる思いがする。
ただの考え過ぎならいい。
ハルの早とちりならいい。
にやにやしながら、びっくりした? と笑って部屋に入ってくる姿を想像する。
そうであったならどんなに安心できるか。
自分の手が届く範囲に居ない時は、ハルやローハンがいた。
屋敷の中なら侍女たちが常に共に居る。
そうして欲しいと考えていたし、約束をせずとも、アメリはそれを受け止めて、果たそうとしてくれていた。
ひとり勝手に行動するのは、いつも大きな問題に巻き込まれた時だけ。
これまでの行動を考えると、不安が募るばかりだった。
アメリのものが散らばった寝台に腰掛けて、手近にあったシャツを持ち上げた。
その中に顔を埋める。
思い切り息を吸い込んで、香りが自分の中に溶け込むまで吐き出すまいと、限界まで息を止めた。
思い過ごしだと何度も繰り返し自分に言い聞かせて、引っ張り出した鞄の中身を丁寧に畳んで元に戻す。
アメリがこの場に居ない。
それ以外に、まだ何も分かったことはない。
それだけでも充分に気を違えそうだったが、本当にそうなってしまえばアメリに笑われてしまう。
悲観と楽観を目まぐるしく行き来しながら、それでも何とか取り乱さずに踏みとどまるよう、努力をした。
ハルたちには心配されたが、それより下の部下たちの前では、何とか総長としての体裁は保った。
その日の太陽が沈んでも、杳としてアメリの消息は掴めない。
砦内を部屋のある方向に向かって、ひとりで歩いていた姿を最後に、そこから先は誰もアメリを見た者は居ない。
些細な話をかき集めて、それだけが新しく知れたことだった。
アメリは煙のように掻き消える。
この話は砦の中だけ、今はまだ騎士たちの間の内で止まっていた。
眠れぬ夜を過ごし、明けて翌日には、急展開を見せる。
ことは王と隣国とが絡む事態にまで発展した。