十四ッ!
ザドッッ──
カシャラララ──
何かが爪先に当たって止まった。
だが、それが何なのか確かめる気にはなれなかった。
十メートルほど向こうの光景から、目が離せない──
背骨と眼が突如凍りついたような感覚だった。
「なん──なん──ジョシ──」
星降はかろうじて呻いた。
そうやって呻くことができたのは、ただ呆気に取られ放心状態に陥ることなく、何が起こったのかを一秒以内に理解できたからだ。
突発的な異常事態にはすぐさま対応しなければ生き残れないのが暗黒デス時代だからだ──
その、時代が強引に育んだ観察眼が、悪夢のごとき光景を捉えていた──
暗黒デス売人を倒し、少し離れた位置に立つ星降を振り返り、エレベーターの扉に背を向けた超能侍──
その胸から、
太い腕が生えていた。
いや──
黒くぬらぬらした悪魔のような、暗黒デス売人の腕が、超能侍の背後から手刀を突き刺し、胴を貫通したのだ──ッ!!?
「な──ぜ──ッ──」
「場所──がなァ──場所が良かった──んだよォ──」
生命力が抜けていく身を奮い立たせようとしているのか、だらりと力の抜けた腕を小刻みに震わせ、苦しげにかすれた声を絞り出す超能侍に、苦しげな声で売人が応えた。
「エレベーターってモンは──床との間にどうしても隙間ができるグボゲッゴフォッゴフォ──その──隙間にゴェェッ──足のっけて──液化した身体をこっそり流しこんで中身を逃がしてよォ──てめェは途中からヌケガラになってた元の身体を必死にぶっ叩いてたってわけだバーカバーカブヮッオブゥッ」
売人は時々嘔吐のような音を立てながら、超能侍を貫く腕の角度をゆっくりと上げた。超能侍の身体は宙に持ち上げられ、だらりと垂れた両足の下から、背後にある黒いものが、星降の位置からも見えた。
塊だ。
そうとしか言えない。
およそ生き物の形をしていない。
どろどろの、黒いぬらぬらの塊が、エレベーターの扉一面にへばりついている。
赤い目がふたつ、口がひとつ開いている。数だけは人間と同じだ。ただし、人型の生き物ではありえない、まばらででたらめな位置に開いている。
超能侍を貫いた腕だけが、先ほどまでの悪魔のような形を正確に保っていて、塊の上の方の、でたらめな位置から一本だけ生えていたのだった。
「ま──それまでのダメージがひどすぎてしばらくはこんなカッコにしかなれねェがなゴバォェァッ──テメェもたいしたもんだったぜクケケッケェーェブォ」
その液体のような黒い肉の塊が、ゾズズズと震え蠢き、三メートルほど這って前進し、超能侍の身体を高々と掲げた。それから鈍く大雑把な動作で振り下ろす。超能侍の身体がすっぽ抜け、黒い床にべちゃりと叩き付けられた。赤い染みが広がる。超能侍はもう、呻きも震えもできていない。
その一連の動作を、身じろぎもせず、ただ見ていた星降は──
足元に当たったものをようやくチラッと見て、素早く拾い上げると、ヒュッと息を吸い込み、売人たちの方へ向かって、猛然とダッシュした!
「はァ──?」
その行動の意図を一瞬掴みそこね、黒い塊のでたらめな位置に付いた赤い口が、ヌチャッと湿った声を上げた。
「はァァ──ッジョシッ!」
牛三頭くらい瞬時に殺害してしまえるであろう、危険な暗黒デス相撲力を持つ売人──
にもかかわらず星降は、その売人へ近付いてしまう方へ、あえて走ったのだ! 常人にとってはほぼ自殺に等しい行為のはずなのだ! しかし!
その瞳が見据える一点は──
超能侍が持ってきていた、塩の袋! まだ中身は残っている! 拾って、ぶちまけて浴びせる──そこにかすかな勝機が、あるッッ!
星降はただ、事態を呆然と眺めていたのではなかった──
エレベーターを離れた今、売人が逃げ込むための隙間はない──
売人は今ダメージから回復しておらず、移動速度はかなり遅くなっている──
位置関係から見て、動作の鈍くなった売人が、袋か星降を腕で吹き飛ばそうとするより、星降が袋を拾って塩をぶちまける方がわずかに早いだろう──
そういったことを的確に観察していたのだ──ッ!
だが──ッ!
「ゴペッッ!」
「んなッジョシッ!?」
この暗黒デス時代、突発的な事態へ必死に対処できなければ死あるのみなのは、星降のような弱者の側だけではなかったのだ──
強者側である売人もまた、突然走り出した星降をすかさず観察! そして理解!
口からひとかたまりの粘液──身体の一部を吐き出し、塩の袋に覆いかぶせ、星降の意図をくじいたのだ──ッ!
黒く、厚く、重たげな、泥のような肉の塊──星降の力で取り除けるかどうか──その時間を売人が与えてくれるものか──いや、そもそも素手で触ってもよいものかどうか──
無・理──!!
そう判断せざるを得ない! 袋──いや、肉の塊の手前でくるっと大きく外へ逸れ、星降はひとまず売人から数十メートル離れた──!
「攻撃は──ダメかジョシ──」
ならば──
星降は右手の拳を開いて、さっき拾って握りしめていたものを見た。
黒地に赤い力士髑髏──
超能侍が持っていた、エレベーターのカードキーだ。背後から刺された時に衝撃でポケットから飛び出し、星降の足元まで床を滑ってきていたのだ。
超能侍は──もう星降にはどうしようもないだろう──
しかし、これを使って星降だけでも逃げることは、まだ可能だろう──
売人の移動速度が鈍っているとはいえ、さっき乗ってきたエレベーターで逃げ切れるとも思えないが、もし他のエレベーターがあるならば、早く見つけることができれば──
「あっジョシ」
その考えが崩れ去った。
カードキーは売人の攻撃による衝撃を受けていた──
それを星降が思いきり握りしめたことで──
手の中でバラバラにちぎれてしまっていたのだ──ッ!!
いくつかの欠片となってこぼれ落ちるカードキーと、向こうからゆっくりとにじり寄ってくる売人を交互に見て、星降は一目散に、闇雲に、謎の地下空間をあてもなく走り出した。
ヒィィィン── ヒィィィン──
ヒィィィン── ヒィィィン──
鈍い色の大小無数の建造物が建ち並び、トンネル内部のような薄暗いオレンジ色の光に満ちた広大な空間に、機械音とも生物の鳴き声ともつかない甲高い音が轟いている──
悪夢の中でしか見ないような風景の中を、逃げ惑う。逃げ道がどこにあるのか、いや、本当にあるのかすらもわからないまま──
まただ。
同じだ。
あの時と──
生まれ育った北区赤羽が、暗黒デス力士の侵攻を受け、破壊と殺戮の中を泣き叫びながら逃げ惑った、あの時と──
全く同じ、恐ろしさと──悲しさと──心細さだ──
正しい道もわからないまま、走って、走って、走って、走って、次第に息が上がるにつれて、最初のうちこそ生き延びたい必死さにこわばっていた星降の表情は、虚ろに失われていった。
「たす──けて──ジョシ──」
星降の口から、自然と、震える声が洩れた。
だが、助けてくれるはずの超能侍は、
倒れて血溜まりの中なのだ──
最後に見たあの姿が、
赤い
うごかない
しっているひとだったもの
──
幼い日に見たものと重なった。
「もう──やだ──よぉ──」
星降の声はよりいっそう震え──
「たすけてヨウジョ──!!」
泣き叫ぶ声へと変わった。
異様な光景の中で気力体力を消耗したことにより意識が混濁し、恐怖に怯えた幼児時代へと精神が退行したことを、語尾が示していた。
声で位置を気付かれてはならない──
そんな配慮もできないくらい、もう何もかも──なぜ、何から自分が逃げているのかすらも──わからなくなって、星降は引きつった泣き顔で、ワァ──ワァ──と喚きながら走っていた。
よろよろ──
ぺたん──
そのうち走ることにも泣くことにも疲れ、星降は建造物の壁に寄りかかり、ずるずると倒れるように座り込んだ。時々すすり上げながら、力の消えた表情で、意志の消えた眼に映ったものを、何も考えずに眺めていた。
この建造物は、長い長い通路の突き当たりにあるようだった。何百メートルもありそうな直線の道が、ずっと先まで見える。
その向こうから、黒い塊が、ずりずりと少しずつ近付いてくる。
星降はそれを、もはや何も考えることもなく、ただ座ってぼんやりと眺めているのだ──
が──
コイ──
「?──ヨウ──ジョ?」
コイ──
「だれ──ヨウジョ?」
コイ──! コイ──!
「………………」
呼ぶ声が聞こえた──ような気がした。
しかし、老若男女いずれの声なのかわからない。老婆か、少年か、はたまた合成音声か、どんな声色なのかは変にぼんやりとしてよく聞き取れないわりに、「来い」という意図だけは不思議と鮮明に伝わってくる。そして、声がどこから聞こえたのかもわからない。近くか、遠くか、どの方角からか、位置関係が一切掴めない。にもかかわらず、「どこへ来てほしいのか」は、なんとなくわかる気がする──
星降はゆっくりと顔を左右に振った。周囲には鈍い色の建造物が立ち並ぶだけで、人物は見当たらない。
が──
穴──近くに穴がある。
長い通路の突き当たりの、真正面中央にあたる位置──そこに、建造物内部へ続く五メートル四方ほどの穴が開いている。星降は心身の疲労のあまりその存在を意識できなかったが、その少し横に座り込んでいたのだった。
来いと言われているのは──そこのような気がする。
よろよろと立ち上がった星降は、ふらふらと穴の中へ入っていった。
────
暗い。
照明が赤い。
穴の向こうには十メートル立方くらいの空間が広がっており、正面の壁には、左右の巨大な金属板が中央で合わさるスライド扉が埋め込まれている。扉に書かれた“Monosugoi-Yabai”という白い文字が、赤い照明の中に浮かんでいる。堅く閉ざされた扉を一瞥して、星降は右手の壁に向かって歩いた。そちらには人間が通るサイズの扉が付いている。
そこが正解のような気がした。
実際に、扉は星降が近付くとシュパッ、と開き、通り抜けるとシュパッ、と閉まった。
その先は迷路だった。常人二人がすれ違うのも難しく、力士であれば一人でもスムーズに通行するのは難しそうな幅の通路が、左右に分かれ、上下に分かれ、途中の壁や突き当たりに、いくつもの扉が設置されている。
星降はその中から、「呼ばれている」と直感的に思い浮かんだものを通っていった。
それは実際に正解だった。
やがて星降は十立方メートルほどの部屋に出た。
「ヨウ──ジョ──」
意味のある言葉が出てこず、星降はただ立ち尽くした。
赤く薄暗い照明の下、用途のわからない機械が並び、壁と床のそこかしこをパイプがのたくる部屋の中央に、巨大な円筒型の水槽が設置されている。
そこに満たされた液体の中で、黒い、ばらばらの、悪魔のようなものの残骸が、ゆっくりと回っているのだ。
ここは──
常人が来ていい場所ではないのだ──
「キタカ」
女性の声であろうか──
今度ははっきりと聞こえた。
「ひっヨウジョ」
星降はガクガクと震えた。
水槽の中、無数の黒い肉片と一緒に浮かぶ怪物の生首が、星降を見下ろし、顔をニタァーリと歪ませたのだ。
「オマエガ──チカヅケバ──チカラガ──モドル──」
頭の中からはっきりと聞こえる──テレパシーだ!
水槽の中の怪物が、星降をテレパシーで呼び寄せていたのだ!
「いやぁーヨウジョ──」
気付いて逃げ出そうとした時にはもう遅かった。
怪物の肉片が突然、水槽の中を魚のように高速で泳ぎ回り、マシンガンのように続けざま内側から水槽を殴りつけた。それなりの強度計算はしてあるのであろう水槽は、しかしあっけなく砕け、あふれ出た液体の中から肉片がワジャワジャと飛び上がり、背中を向けた星降に殺到し、ぐちゃぐちゃとのしかかり、押し倒し、包み込んでしまったのだ──!
「う──うぅ──」
星降は暗闇の中に浮かんでいた。
いや、浮かんでいるのかも定かではない。
上下左右の感覚がわからない。落下しているのか、それとも上昇しているのか、ひょっとしたら回転しているのかもわからない。位置に関する感覚が一切働かなくなっている状態だった。
「ここは──ヨウジョ」
「お前の幻覚の中だよ」
「ひやぁぁぁぁヨウジョ」
星降は恐怖に叫んだ。
暗闇の中に、水槽の中にいた怪物の巨大な生首が浮かんでいた。
並の巨大さではない。星降の主観で、惑星ほどのサイズに感じた。それを宇宙飛行士のように、ちっぽけな自分が見下ろしている、あるいは見上げている感覚だった。
そのような恐ろしいものが、女性の声で──
地獄に轟く悪の女神を思わせる、邪悪な声で、語りかけてくる──
「我は汝──汝は我──すなわち我らはふたりでひとり──邪神の細胞が人間と融合することで生まれた──強くおぞましい邪神人間でジャシン!」
「ジャシンマンヨウジョ!?」
星降は魂の底から震え上がった──
この存在は──破壊と死を撒き散らすもの! その禍々しい性根が、「邪神」あるいは「邪心」を示す語尾となって表れているのだ──!
「クククそうだ──邪神のかけらである我は、お前の神経細胞をガッツリ侵食し、分離不可能なまでに融合──お前の体内に邪神脳細胞を作り上げたジャシン。それがお前の中に潜み、いわば受信器となったことで、こうして我が肉体がお前をここまでテレパシーで誘導できたというわけジャシン。もう逃げられないジャシン」
「じゃしん──ヨウジョ──」
「そうジャシン! お前は我に意識を明け渡し、我が邪神ボディーと融合! 完全な邪神人間となるのでジャシン! ブヘッヘッヘッ心配することはない──お前の精神は我の一部となり、何も考えないまま、破壊したり殺したり暴力的な本能を満たした時のスッキリ感だけを味わい続けるジャシン! どうだ素晴らしいであろうジャシン! 素晴らしいであろうジャシン! ファーッファッファッジャシン! ファーッファッファッジャシン!」
「……………………やだヨウジョ」
高らかに笑う超巨大な怪物の生首に対し、ちっぽけな星降は、頼れるものなど見えない暗黒空間の中で、弱々しく、しかし、確かに、首を横に振った。
「何を言っている? 邪神の力はすばらしいぞ! 暴力はいいぞ! それが何も考えずに楽しめるのだぞジャシン!」
「うん──あの時、そんな力があればよかったヨウジョ──すごい暴力をすごい暴力ですごくどうにかできたかもヨウジョ──」
「そうであろうジャシン、そうであろうジャシン」
「でもね──」
「何を殴って、何をぐちゃぐちゃにするかは──自分で選びたいヨウジョ──シ──」
「なァーにィー? お前のくせになまいきジャシン」
「お前が生意気ジョシ!」
星降の精神が、巨大な顔面の圧に対して必死に抵抗した!
「なん──だと──ジャシン──」
「勝手に人の脳に引っ越ししておいて挨拶もなしとは態度が悪いジョシ! もっと申し訳なさそうにみやげ持ってくるべきジョシ!」
「みやげだと──何が望みジャシン!」
「チョコミントアイスジョシ!」
「そうかそうか、それを食う感覚を楽しませることを条件に身体を明け渡すと──」
「チョコミントアイスはもらう。邪神の力ももらう。そしてお前は消え失せろ──ということでジョシ!」
「ククク──欲深いことジャシン。いいぞいいぞジャシン、気に入ったジャシン」
「気に入ったらはよ消えろジョシ」
「お前の脳が全部ほしいということでジャシン!!! 侵食範囲を広げ完全に乗っ取るジャシン!!!」
「ぐわぁぁぁ──ジョシ──ッ!!!」
星降の脳内で急激に邪神細胞が増加! 星降は神経の中枢を侵食されたことにより、肉体が、精神が、ズタズタに切り裂かれるかのような苦痛に襲われる!
が──
「なぜだ──ジャシン──」
巨大な怪物の幻覚が驚愕に歪んだ。
「なぜ侵食が進まんジャシン!? なぜ邪神細胞の増殖が途中で止まり消滅するジャシン──!?」
「まだ気付かぬのですか愚か者──」
もうひとつの声が──清らかで、厳かな、女性の声が幻覚の暗黒空間に響いた。
「何者でジャシン!?」
「よろしい──姿をお見せしましょう──」
女神を思わせる声が再度響きわたり、暗黒空間の中にまばゆく輝く何かが表れた──
「ゲェェ──ッジャシン!?」
「ウワァァァ──ジョシ!?」
その姿とは──ッ!!!
「私は──チョコミントアイス──!」
そう──まさに──チョコミントアイス!
星降が日頃よく食べている、安物のカップアイス!
それが幻覚の中で惑星サイズの巨体となって、神々しく光り輝きながら、怪物の隣に浮かんでいるのだ!
なんという──なんと人智を越えた奇跡的な光景であろうか──!!
「チョコミントアイス──だと──ジャシン──!?」
「こんな大量に──たまらんジョシ──!!」
「星降ちゃんは──チョコミントアイスを大量に食べるのが習慣でチョコ」
他のふたりの反応をよそに、チョコミントアイスは厳かに語った。
「しかし暗黒デス時代のこと──本物のチョコミントアイスは貴重となり、市販のチョコミントアイスには歯磨き粉が混ぜられていた──星降ちゃんはそれを大量に食べてしまったのですミント」
「なんだとチョコミントアイスディスってんのかこのチョコミントアイスジョシ──ッ!!!」
「ディスってはおりませんアイス──ともあれ、星降ちゃんの身体は大量の歯磨き粉成分を摂取したのですチョコ──」
「それがどうしたジャシン!?」
「まだわからぬのですか愚か者──歯磨き粉とは口を洗い流すためのもの──つまり、塩と似たような清めの力が宿っていたのですミント!!!」
「な──なんだってジャシン──!?!?」
「えっそうなんジョシ?」
「そうなのですアイス──チョコミントアイスの過剰摂取で星降ちゃんの身体に溜まった歯磨き粉の清めパワーは脳細胞の一部にも宿り──こうして独立した人格を持つに至ったというわけですチョコ。いわば星降ちゃんはチョコミントアイスの食べすぎで脳までチョコミントアイスになった、頭チョコミントアイス人間なのですミント」
「なんだとチョコミントアイスディスってんのかこのチョコミントアイスジョシ──ッ!!!」
「ディスってはおりませんアイス──ともあれ、体内に潜む清めの力が邪神細胞の侵食を抑制する作用をもたらし、星降ちゃんは人格を破壊されずに済むということなのですチョコ」
「バカな──そんな話は信じられんジャシン──」
「信じるジョシ」
星降は目を閉じて両手を組み、祈りを捧げる姿勢を取った。
「やはりチョコミントアイスは神──神に感謝──チョコミントアイスを崇めよ──チョコミントアイスを否定する邪教の異常者どもには死を──ジョシ──」
「いやそこまでいくとちょっとどうかと思うミント──しかし──」
チョコミントアイスが怪物の生首に、ズズゥ──と圧迫するように接近した。
「チョコミントアイスの力で邪悪なものに制裁を──それはまごうことなく正しいことでアイス──」
「えっ、ちょ、なに、やめてジャシン」
オーラの輝きを増しながらゆっくりと迫りくるチョコミントアイスに、怪物の生首が恐怖と焦りで表情を歪ませた。しかしこの空間は星降の脳内に視覚として感知させている幻覚にすぎないので、物理的な逃げ場などなく──
「愚かなる邪悪な者よ、汝こそ我が支配に下れチョコ」
「い、いや、やめて、やめジャシン──あぁぁ──ッ!!! あぁぁぁぁぁぁ──ッッ!!!!!」
生首はなすすべもなく、チョコミントアイスにのしかかられ、押し倒され、絶望の悲鳴を上げた──
「これは──」
眼前の光景に星降が呟いた。
「よく考えたら──いったい何を見せられてるんでジョシ──???」
そこで目が覚めた。
水槽の破片が散乱し、中身の液体がこぼれた中で、星降は横たわっていた。液体の妙な生臭さに「うぇぇジョシ」と慌てて飛び起き、全身がその液体で濡れていることに気付いて顔をしかめ、見回して怪訝な顔をした。
一緒に散乱しているはずの、怪物の肉片が、
どこにも──ない──
不審に思いながらも、濡れてしまった髪を手でしごいて水分を落とそうと、長いツインテールを手に取った星降は、あることに気付いた──
いつの間にか薄い青緑色になっていた星降の髪には、ところどころ焦げ茶色の斑点模様ができていた。
まるでチョコミントアイスのように。
その、チョコミントアイス色の髪の中に──
漆黒の斑点が増えている。
星降はしばらく考えて──
ある結論に達した。
「だったら──」
不安に満ちていた星降の目に、光が灯った。
「やれるジョシ」
星降は壁の一辺に目をとめた。五メートル四方程度のスライド扉、横には開閉装置がある。数字のキーボードが付いており、パスワードを入力しなければ開かないものと見える。
パスワードは知らないが──
やれる──
と確信した。
────
黒い肉の塊は、星降が入った建物にいよいよ近付いていた。
五メートル四方の穴の奥、もうひとつ五メートル四方の扉がはっきりと見える位置まで来ると、ズニョズニョ這っていた肉はいったん前進を止めた。そこでズプルン、と大きく震えると、塊の前側下段のあたりからジャポッ、と二本の脚が飛び出した。足の裏で床をしっかり踏みしめ、塊全体を持ち上げるように立ち上がる。塊から腕がもう一本ジャポッと生え、全身がグリョグリョと震えながら、次第に人間型へ形を整えていく。でたらめな位置に付いていた腕、目、口が本来あるべき位置へズリズリ移動し、元の悪魔型力士へと復元した。
ダメージが──回復したのだ!
「クケッケェェ──あのガキどうやら逃げてるうちにアタマの様子がおかしくなってるみてぇだったな──せっかくの神人類だが戦力にはならんかもだぜ──さてどういう形で利用したもんかねクックッケッケ──」
ニタつきながら思案する売人の前方で、奥の扉がンギャゴズズガゴゴギギギィ──と左右にスライドした。
正常に開いたとは思えない、機械仕掛けが無理に破壊されたような音だった。
「なるほどー、遠回りさせておいて実はすぐここにつながってたジョシ──」
常人が一人通れるくらいの隙間が開いたところで扉が止まり、中からヒョコッと無造作に出てきたのは、例の小娘──女子ヶ崎星降!
星降は正面に立っていた売人にすぐ気付くと、「あっ」と小さく声を上げ──
そのまま無造作にひたひた歩き、売人との距離を詰める!
「あ???」
さっきまで幼児のような情けない声を上げて逃げ回っていた小娘とは思えない──これは開き直り──いや、いよいよ発狂か──
売人は一瞬、星降の意図を掴みそこねた。
星降にとって、その一瞬で十分であった──
ドギャラバギ
ガッ ダン ザシャシャシャシャ──
事態が掴めない一瞬の間に、売人の身体は激しい衝撃を受け、後ろへ吹っ飛び二度バウンドし、数十メートル転がっていった──ッ!!
「なん──だこ──れは──」
息を荒くしながら跳ね起きて戦闘態勢に入る売人に、星降はさらに無造作な歩みで近付いてくる──
その姿が──
常人のものではない──!!
そして──
「うん──思った通りけっこう通用するジャコミンジョンシトね──ダメなら逃亡一択でジャコミンジョンシトけど」
語尾も──常人のものではない──!
「なんだァてめぇェェ!?!?!?」
売人はたまらず声を荒らげた。
なぜならば──
黒っぽい水玉模様の入ったチョコミント色のツインテール──
それがまばゆい青緑に光り輝き──
重力に逆らい天を向き──
途中から不自然に体積を増し、大木のように太くたくましいチョコミント色の巨腕となって──
ボディビルダーのようなポーズを決めて力瘤を作っているのだ──!!!
なんという異様な髪形であろうか!! いくら若者が斬新奇抜を好むとて、このようなヘアスタイルがトレンドのトップに躍り出たことはファッション史上に一度もあるまい──!!
「なんだてめぇ──と聞いたでジャコミンジョンシト? わかった教えてやるジャコミンジョンシト。今のアタシは──」
星降は歩みを止め、仁王立ちで高らかに宣言した──!!
「邪神チョコミント女子高生ッ!! でジャコミンジョンシト!!」
「邪神──チョコミント──女子高生──だと──」
「そうジャコミンジョンシト──偶然にも神の力が宿っていたアタシは、邪神細胞に取り込まれそうになったところを逆に取り込むことができた──つまり! 邪神の力をチョコミントの力でコントロールする邪神チョコミント女子高生になったのでジャコミンジョンシトッ!!」
「──なるほどだいたいわかったぜ」
邪神×チョコミント×女子高生──三つの心の融合と調和! その三位一体の完成と安定を、この語尾は示しているのだ──! 売人には星降の言葉の意味はわからずとも、とにかく邪神細胞に飲み込まれることなくおそるべき力を身に付けたのだろうということだけは、その語尾によって直感的に理解できた──ッ!
「なら話は早いジャコミンジョンシト」
星降は仁王立ちのまま、頭上の巨大ツインテールにシャドーボクシングをさせた。ジャブ、フック、アッパー、ストレート──巨大な金属扉を無理矢理こじ開けるパワーから繰り出されるそれらは、牛五頭くらい難なく葬る威力があるだろう──!
「クケケケそうだな──」
売人の顔がニタァーリと歪んだ。
「じゃあよォ──相撲しようやァ──!!」
姿勢を低くした売人の身体から、紫色の暗黒デスオーラが噴き上がる──!
常人ならばかすかに触れただけでもおしっこちびって気絶するであろう禍々しい殺気である──!!
おそらくは横綱級力士でさえ、わずかな緩みも許される相手ではないのだと、相撲素人の星降にも本能的に理解できる──!
初戦の相手にしては強すぎる──
だが、
それでも、
星降は顔を緊張にこわばらせながら──
フゥゥ──と、息を吐き出し、腕型の巨大ツインテールを張り手の形に構えた!!
その張り手は──
まばゆいチョコミント色に輝いているのだ──!!