十一ッ!
ゼニヴィィィ──ン! ゼニヴィィィ──ン!
空気までもが退廃的な金銭欲を多量に含む銭十字病院では、深夜に響く警報音も、やはり金銭欲にまみれた奇怪な音なのであった。心ある警備関係者ならば嘆かずにはいられまい。もしも、暗黒デス相撲協会が世界を支配する前の時代からタイムスリップしてきた心ある者がいたならば、この病院に一日滞在しただけで、時間あたりの嘆き回数の世界記録更新を狙えることだろう──
だが──
非常扉を潜り抜け夜空へ舞い上がった航空力士の顔には、そのような退廃的空気に対し、もはや嘆き、悲しみ、怒りといった感情は浮かばない。
強欲、虚飾、貧困、暴力、殺戮、八百長相撲、相撲観戦者民度低下──
暗黒デス相撲協会の支配が世界にもたらした悪徳と荒廃は、この時代にはありふれたものになりすぎていた。世界はもっとましだったと嘆くには、あまりにも時は過ぎてしまっていた。
数えきれない悪徳に、ひとつひとつ、律儀に嘆いていたのでは──嘆きすぎによって心が疲労し、死に至る。海外でも知られたカローシのように。だから──
暗黒デス時代において、心ある者たちの多くはそのうち嘆くのをやめ、世の悪徳・腐敗・荒廃に対し、感情を動かさなくなり、心あるのかどうかあやしい者へと変わり果てていったのだ。なんという悲劇であろうか! 心ある者ならば嘆かずにはいられまい! 心ある者各位は、健康のため嘆きすぎに注意しながら嘆いていただきたい! 嘆きは一日一時間まで──心ある嘆き名人の発した警告は、嘆き界においてよく知られている!
ともあれ、そのような時勢であるから──
おぞましい気配を本能的に察し、気配の出どころへ向かって飛行し、やがて空中で静止した航空力士は、銭十字病院へ向かって飛んできた“それら”を前にして、一切表情を動かさなかったのだ。
UFSO──未確認飛行相撲体。
航空力士が装着しているゴーグル型ディスプレイに投影された表示は、それらが既存のデータにない力士であることを示していた。
数百メートル離れた空中にホバリングしているそれらの姿が、ディスプレイ内に拡大表示される。
黒くぬらぬらと光る全身。蝙蝠のような翼。一対の鋭い角、赤く光る吊り上がった眼、大きく割けた口、白いマワシ、そして金色の髷を持つヒト型の飛行相撲物体。
伝説に出てくる悪魔のような姿──
悪魔型の力士生物だ──!
髪やマワシの色に個体差はあるが、同じような姿の奇怪な力士達が十数人ほど群れをなしている。空中ゆえに比較対象物がなく、肉眼ではサイズがわかりづらいが、ディスプレイの表示は「体長約5メートルでドスコイ」と分析している。
そして──
正体不明にもかかわらず、ディスプレイは悪魔型力士たちの所属を示した。彼らが暗黒デス相撲協会の会員証カードを所持している証拠だ。
「梅悪部屋──」
「いかにもバサ。我々は梅悪部屋の航空殺戮部隊“轟雲党”。暗黒デス相撲協会の正式な任務として参上つかまつったでバサ」
群れの先頭の悪魔型力士が、ヘッドセットマイクを通して語った身分に、ディスプレイ内の表示は相撲書体で「ほんものでゴワス」と太鼓判を押した。このような姿の力士など、暗黒デス相撲協会のデータベースに登録されていないにもかかわらずだ。だが、会員データベースに登録された声紋が、協会会員証と揃うことで、身分を保証しているのだ。普段は人間の姿で会員登録しておいて、戦闘時に悪魔型力士に変化するタイプの力士なのだろう。そうやって真の戦闘形態を隠しておく者は、暗黒デス相撲協会には少なくない。
「任務とは」
「殺戮バサ」
悪魔力士がマワシの中から取り出し広げた半紙の端が、風にバタバタとはためいた。半紙には筆文字で「殺戮許可」と書かれ、四角い枠内に「暗黒デス」と彫られたハンコが捺されていた。これは暗黒デス相撲協会幹部のみが所持を許される決裁印──すなわち暗黒デス相撲協会による正式な許可証なのだ!
「今から我々は銭十字病院のヤツらを殺しに殺して殺して殺す、つまりブッ殺してベッ殺してボッ殺すということバサ。この通り協会公認の殺戮許可証もあるバサ──まー、もっともウチの親分が自分で発行したんだがバサな──ケッケッケッバサ」
暗黒デス相撲協会の有力者たちは、それぞれが強力な権限を持たされ、その行使において大抵のことでは外部団体の許可や監査を必要としない。暗黒デス相撲協会の協力団体である銭十字病院を虐殺で壊滅させる程度のことなら、梅悪部屋の親方が独断で行ってしまって構わないのだ。なんという自由! 悪い意味で自由! 悪心の自由! 殺人の自由! 悪人やりたい放題! 心ある者ならばびっくりするほどディストピア! 通称「ヒャッハーシステム」と呼ばれる暗黒デス統治形態である!
「まー、そんなワケだからよ──」
悪魔力士がディスプレイのスピーカーを通じて語りかけてきた。
ドヒャオ、と大気が唸り──
「警備員は退避した方がいいぜぇバサ」
二言目は、ねろりとした口調で、耳元から直接語りかけられた。
悪魔力士が数百メートルの距離を一瞬で飛び、航空力士の背後に回ったのだ──!
「お前、理事会から派遣された力士だろバサ? あの病院の雇われ者じゃなくて」
「──ああ」
暗黒デス相撲協会の幹部たちによって構成される暗黒デス理事会は、腕利きの力士を雇用して様々な場所へ派遣することがある。この航空力士もそうして銭十字病院の警備と監視を命じられた派遣力士の一人であった。
「クククやっぱりな──我ら航空力士は天空の覇者バサ。通常力士とは格が違うバサからな」
航空三倍段、という言葉が相撲界ではよく知られている。通常の力士が航空力士に勝つには相手の三倍の力量が必要である──という意味だ。通常の力士が地上を前後左右、二次元的にしか動けないところを、航空力士は空中から襲うことができるためである。体格で圧倒的に勝る人間ですら、空中を飛び回るちっぽけなスズメを叩き落とすことは至難なのだ。まして力士が空を自由に飛び回り襲いかかってくるならば──あまりに恐ろしすぎる状況である。常人ならばおしっこちびるしかあるまい。
そのようなことであるから、航空力士とは暗黒デス相撲界でも稀有な戦力であり、ゆえに暗黒デス相撲協会の中でもかなり上位の者たちによって雇われることが多いのだ。
「だったらお前が協会の決定を邪魔するいわれはねぇよな──それに、わかるだろバサ? お前も航空力士といっても、我ら相手には多勢に無勢バサ。万一にも変な気でも起こせば死ぞバサ」
言葉の上では明確な脅迫だが、悪魔力士の口調には、特に敵意や殺気などこもってはいなかった。この暗黒デス時代に、他人のために生命を懸けて殺戮を食い止めようとする者などいないと確信しているのだ。
「────」
「ケッケッケッバサ、おりこうさんバサ。長生きしろよバサ」
航空力士の無言を、悪魔力士は黙認と受け取り、くるりと振り向き、瞬時に姿を消した。
銭十字病院へ向かって、超スピードで飛んだのだ。
黙って前を向く航空力士の視界から、残りの十数人の悪魔力士たちの姿が瞬時に消滅し、衝撃波が航空力士の身体を打った。残りメンバーもリーダー力士に続いて病院へ飛んだのだ。
航空力士は振り向きもせず、しばし空中に留まった。
これから始まるであろう殺戮に背を向けたまま。
殺戮──
瓦礫 悲鳴 炎
赤い 破片 動かない顔
──
力
巨大な
こわい
──
航空力士の脳裏に、いくつかの断片的な記憶がよみがえった。
航空力士は、表情を変えることなく、呼び起こされた感情に蓋をした。
この暗黒デス時代において、そういったものを、今さら嘆く者はほとんどいなかったのだ。
ほとんど。