九ッ!
ドギュルゴゴォ──ゥッ!!
雷鳴のようにすさまじい轟音が響いた。
「なんなんっすかね、コレ──」
がっしりとした造りの超高級木製椅子の上で、龍角は熊のような巨体をぬいぐるみのように縮こまらせ、ジェン子から渡されたIDカードを手に取り、不思議そうに眺めながらくるくると引っくり返した。せわしない手を止めると、今度はぬいぐるみの熊のような丸い目をしゅぱしゅぱとまたたかせながら超高級テーブルに視線を落とす。
「こんなもんがタダで出てくるなんて──」
「全くのタダっちゅうわけじゃなかろう。そのカードはエレガント山が払った金に対するサービスじゃと銭十字ジェン子が言うとった。いわばコレはエレガント山の奢りじゃな」
「これが……奢り……」
龍角は冷や汗を流して呻いた。
無理もあるまい。
少し前──
あの映像に映っていた水槽の所在が気になるというエレガント山と別れた後、手持ち無沙汰の和厳親方が当面どうしたものかと思案した矢先、龍角が盛大に腹を鳴らした。超能侍が重傷を負ったとの報せに、食事も摂らずに駆け付けたことを思い出し、まずは院内レストランへ向かうこととなった。
「貴様ら暗黒デス力士でもなければ暗黒デスセレブでもないなドスコイ」
「下級国民がなぜここにいるドスコイ?」
黒く大きな扉。力士髑髏マークの下に、海賊旗のように交差するナイフとフォークが描かれ、暗黒デスレストランの入口であることを示している。その左右には、黒いマワシ、上半身は素肌の上に黒いフォーマルベストと黒い蝶ネクタイを着用した暗黒デスウェイター力士の二人組が仁王像のように立っており、三メートルほどの巨体から和厳親方と龍角を見下ろし、冷淡な声を浴びせた。
「はて、これで入れると聞いたんじゃがの」
ザシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャッッ!!!
ジェン子に投げつけられたカードを和厳親方が懐から取り出した途端、異様な音が響き、焦げたような異臭が漂った──!
「ゲェーッへッへッへッドスコイ!」
「それをお持ちでごぜーやしたかドスコイ!」
レストランの門番二人組が、腰をほぼ直角に曲げ、岩のようにゴツゴツと険しい顔面にニッタァーッと作り笑いを浮かべ、常人の目では捉えきれないほどの超高速で揉み手を始めたのだ!
銭十字病院の大幹部であるジェン子から渡されたIDカード──すなわち権力の象徴に媚びへつらっているのだ! 傲慢から卑屈へ、実に露骨な掌返し!
「ささささささどうぞどうぞどうぞドスコイ」
「へっへっへっ二名様ごあんな~いでドスコイ」
あまりの超高速揉み手に焼け焦げ煙を上げる掌で、両開きの扉を二人がかりで開ける門番たち。和厳親方は一礼し、中へと足を進めながら、彼らのヘコヘコニタニタとした態度に顔をしかめた。力なき者への傲慢と、力ある者への卑屈──それは、他者と自己、両方の尊厳を軽んじていることに他ならず、その精神的荒廃には、心ある者ならば嘆かずにはいられないのだ──ッ!
ともあれ──
水平方向にも垂直方向にも長い、広大なホール! 黄金色の壁、天井! きらびやかなシャンデリア! 赤い絨毯! ずらりと数を揃えた超高級テーブル!
和厳親方と龍角は、日頃馴染みのない贅沢な光景に圧倒されながら、中で待ち構えていたウェイター力士に案内されるがまま、円形の超高級テーブルに着き、力士向けコース料理「チャンコース」をとりあえず薦められるまま注文したのだった。
そして──
龍角は冷や汗を流して呻くことになったのだ。
なぜならば──
でかい──ッ!
ウェイター力士たちが、和厳親方と龍角の前に置いた純銀の皿が──でかい!
二人が向かい合って着席している円形テーブルは、直径三メートルはあり、過剰なまでの広さを感じさせるものだった。だが、二人の前に置かれた、半球形の蓋がかぶせられた皿は、直径約一メートルもあり、テーブルを突如狭くさせた!
ムッワァァァァ──
ウェイター力士が蓋を取り去ると、飛び出した熱気と香気が顔面を撫で、龍角の目と鼻の穴は反射的にクワッと広がった。
皿の上に乗せられたものは──
肉だ! でかい肉だ! 一メートルの皿の上にあってなお小さく感じさせない、座布団よりもでかい牛肉ステーキだ! 面積だけでなく、百科辞典を重ねたような厚みを持っており、垂直方向にもでかい!
「大魔境の奥地に生息する天然の巨大暴れ牛を暗黒デス力士が天然の張り手で粉砕した天然高級肉。力士による力士のための力士サイズ。力士ステーキでドスコいます」
ウェイター力士がなめらかな口調で説明し、一礼して離れた。
ドギュルゴゴォ──ゥッ!!
焼きたての高級牛肉の匂い、添えられた香草サラダの優雅な香りが熱気と混じり合い、暴力的なまでのハーモニーとなって鼻を爽やかに殴り抜ける! 龍角は盛大に腹を鳴らし、気分を落ち着かせるかのようにIDカードをくるくるといじったのだった!
「ま、かなり高そうな肉とはいえ、金の心配はせんでええ。銀の皿に乗っとるのは、銀の色を変えるようなあやしいクスリは入っとらんっちゅう意味じゃな。それから、こんな肉がいきなり前座で出てくるようなめちゃくちゃな時代に厳密なテーブルマナーも要らんかろ。なんも気にせんと食うてしまえ」
「うっす……いただきまっす」
和厳親方は現役力士だった旧時代、タニマチに高級な食事を奢られたことは幾度もあり、テーブルに置かれているナイフとフォークを取る手の動作に迷いがなかった。龍角はそれをたどたどしく真似て、ナイフを肉に下ろそうとしたところで、ピタリと手が止まった。
目の前にあるのは──肉だ。
死んだものの──肉片。
先ほど見たばかりの、水槽の中をゆっくり回る得体の知れないものの死骸の、薄気味悪い映像が脳裏に蘇り、ステーキと重なってしまったのだ──
だが──
「ンごヌッヒョぉぉ──ぉィッ!?!?!?」
手頃なサイズに切り取った、もわもわと湯気を上げるステーキを口に運び、しばらくモヌモヌと顎を動かしていた和厳親方が、肉を飲み込んだ途端、天を仰いで奇声を発したのだ!
「なッなんとォォ──なんという柔らかさじゃあ──ッッッ!! かなりの厚みにもかかわらず、ナイフがさしたる抵抗もなくスクリと通り抜ける感覚ッ! 雲か霞を斬っておるようッ!! まるで妖術じゃァァッ!! そしてッ! 口の中で案の定、雪解けのごとくホロリと溶ける! それでいて歯ごたえ舌触りはぼんやりすることなく、くっきりと爪痕を残すッッ!! この厚みでも外を焼きすぎず内をおろそかにもせぬ火加減の妙よッッ!! 次いで、最低限の塩気を加えるシンプルなソースッ! 芯は一本通っていながらも慎ましやかな香草の香りッ! それらがアツアツトロトロの肉汁と絡み合い、猛々しいまでの旨味の波となって舌を蹂躙ッッ!! ソースと香味が最大限に肉自体の旨味を引き立て、また肉の旨味がソースと香味を最大限に引き立てる相補性のうねりが舌の上を暴れまわるッッッ!!! そこに小賢しさは一切ない! 優れた戦士が優れた武器を持つに似た、素材同士の最適解ッ! この圧倒的な味の力強さ、神話に伝え聞く半牛半人の闘士ミノタウロスのごとしッ!! 霞の妖術によって味の迷宮に誘い込まれたと思いきや、最後の決着は味の真っ向勝負ッッ!! 競うは純然たる力ッ! 力は肉ッ!! 肉は力ッッ!!! しなやかに柔らかくも力強い味の戦士に挑まれた、ワシらは食の冒険者ッ!!! 果たしてこの戦いを生き延びることはできるのかァァァ──ァァ──ァァ──ッッッ!!!!!!」
頭部に牛の角を生やし、豊満な身体に武骨な甲冑をまとい、巨大な斧を構えて不敵に微笑む、美しくもたくましい女闘士の幻影が、興奮して一気にまくしたてる和厳親方の背後に浮かび、龍角は丸い目をぱちぱちしばたたいて呆気に取られた。
これは──美食高揚幻影 現象!!
あまりに旨い食事が人間の脳を刺激することで、平常時にはありえない過剰な興奮状態が発生し、食事の旨さを饒舌に語りたくなる欲求に支配され、性的興奮にも似た恍惚状態に陥るとともに、味覚刺激から共感覚的に連想された視覚イメージが生み出され、また普段は引き出すことのできないESP能力の一部が一時的に覚醒し、一種のテレパシーによって視覚イメージを幻影として周囲の人間にも共有させることは、美食の世界ではよく知られた常識である。
美食に興奮するあまり叫んだり幻影を発生させることは美食界では決して無作法ではなく、このレストランでも他のテーブルの暗黒デスセレブ達から「のへャー」「ぴょヌヒげェー」「ちゃぺゥー」などといった叫び声は時折上がっていた。
とはいえ、そこまでの現象を起こすことのできる美食など、滅多にあるものではない。まして、貧富の格差が拡大しまくってしまった暗黒デス時代のこと──
庶民ゆえに美食高揚幻影現象を知らない龍角にとって、顔を紅潮させ荒く息をつく和厳親方の背後に浮かぶ女闘士の幻影は、怪奇現象に他ならなかった。
ただ──
ギュルルゴワ──ォゥ──
和厳親方を異常な興奮状態にさせるほどの異常な肉の旨味──その威力を本能的に理解した身体は肉を求め、盛大に腹を鳴らせた。
手を止めていた龍角は、震えながらナイフをあわただしく操って、肉の端を奥から手前に細長く切り取った。脳裏に浮かんでいた、水槽の中を回る不気味な肉片は、きらきら光るパステルピンクの空間にくるくると浮かんで踊る、おいしそうな肉のイメージに上書きされていた。
肉を刺したフォークを高々と掲げ、テロンと垂れ下がった端に噛みつき、モッモッ、とせき立てられるように咀嚼し飲み込んでいく。
「うぅ──んめェェェ──ェェ──ェェ──ッッッ!!!」
最後の一口を飲み下して、龍角は旨味の興奮に叫んだ。
「肉うめー!! 旨味がなんかこう、すごすぎてすごいっス!! あれっス、とにかく旨味がうまい! ヤバい! うまいヤバいうまい! すごい肉っス!! 肉すごいっス!!」
まくしたてる龍角の背後に、シンプルな絵柄の牛がにっこり笑っている、イラストのような幻影が浮かんだ。味を語る言葉や、浮かび上がる幻影の表現内容には、人格的な要因によって個人差が出るのだ。
その幻影を気に留めず、和厳親方は夢中で肉を切っては口へ運び続け、龍角も肉をもりもりとむさぼり続けた。
「んぶッ──元力士といえど、この歳にしてこの量はちときついのう──」
肉を夢中で食い終わってしまった和厳親方が苦しげな息を吐いた。
テーブルの向かいで、空になった皿を前に、龍角も浮かない表情をしていた。
「どうした? 現役なら力士サイズは苦でもあるまいに」
「確かにすごい量っスね……味もすごいっス。こんなすごいものを、みんなは普段食えねぇんスね、って思っちまったんス」
「ぬぅん……」
和厳親方は唸った。このように美味な超高級肉は、現役力士だった旧時代、世の中の景気が良かった頃にも滅多に食べられるものではなかった。
まして今は暗黒デス時代──質の良いものは暗黒デス社会を牛耳る暗黒デスセレブによって買い占められ価格高騰し、一般の下級国民達は過酷な労働と引き換えに与えられたわずかな賃金で、何の肉だかわからない謎の不味い肉や、何が原料だかわからないような謎の合成蛋白といった安っぽいものをぼったくり価格で買わされるのが常であった。
過去に超高級肉を味わったことのない、暗黒デス時代の庶民である龍角にとって、この生活格差を思い知らされた悔しさは、過去に味わったことのある和厳親方の比ではないのであろう──
空になった皿を運び去る暗黒デスウェイターの背中を見送りながら、和厳親方の表情が引き締まった。
「ちょっとじーちゃん、そこいいジョシ?」
「んあ?」
そこへ突然、少女の呑気な声が飛んできて、せっかく引き締まった表情は怪訝に崩れた。
声の方向を見ると、金色の患者服を着たツインテールの少女が、椅子を抱えた暗黒デスウェイター力士を従えて立っていた。
見覚えのある少女だった。
「こちらのお客様が相席を御希望でドスコいます」
「? まあ構わんが」
「ありがとうドスコいます」
「あざーっすジョシ」
向かい合う和厳親方と龍角から等距離のあたりにうやうやしく椅子が置かれ、いかにも庶民らしい動作で少女がドカッと座り、ズズッと椅子を引きずって位置を調整した。
つい先ほどまでモニター越しに弱々しい姿を見せていたとは思えない生気が、動作に溢れていた。
「お嬢ちゃん、女子ヶ崎星降といったか──もう歩いてよいのか?」
「うん、もう平気、ってかむしろ普段より調子いい感じジョシ──えっ待っていきなりあたしのこと知ってるジョシ?」
「お主を病院へ担ぎ込んだ力士、エレガント山の連れじゃからな。ワシは和厳、そっちが龍角じゃ」
「えっそうなんだ、あざーっすジョシ」
「ワシらは何もしとらん。礼はエレガント山に伝えよう。機会があれば本人に言ってやれ」
和厳親方は星降の頭頂部にちらりと目をやった。ひと束の髪が雑草のようにピョコッと飛び出している。盛大に寝癖が付いてしまったのだろうか──まあ今時の流行りかもしれんな、と、すぐに視線を星降の目に合わせた。
「了ジョシ。あー、それでか」
髷を結った、いかにも力士らしい外見の龍角を見て、星降はにまっと笑った。龍角が「へ!?」とうろたえた。
「なんかあんたら見ると安心するってか嬉しい気がしたジョシ。たぶん力士に助けられたからジョシね。そん時のことはよく覚えてないけど。暗黒デスタピオカキメたせいジョシ」
「暗黒デスタピオカをなぁ──」
「ん、吸い込んだところから先の記憶がなくなってるジョシ。あれはやべーやつジョシ」
「ま、そんなもんはやめるのが正解じゃな」
和厳親方は、星降が得体の知れない怪物に変化していたことには、今ここでは触れないことにした。
「んでもさー、あたしラリって倒れたんだろうけど、暗黒デスタピオカ抜くくらいでこんなセレブ病院連れて来られても不気味ジョシ。金の心配はしなくていいからレストランにでも行っとけって医者には言われたけど、こんなんどう見ても北区生まれ足立育ちのあたしが来るような場所じゃないし、一人で座ってるのメンタル的にムリだったジョシ。周りの暗黒デスセレブがあたしをチラチラ見て貧乏人がどうとかヒソヒソ言ってんの露骨に聞こえるし。だいたい語尾に『セレブ』って付けてるのがダメジョシ。あんな異常な語尾の奴らなんて絶対ひねくれた厄介な性癖とか持ってそうジョシ」
「そ、そうか──」
旧時代育ちの和厳親方にとっては暗黒デスセレブ弁も暗黒デス女子高生弁も同じようなものとしか思えないが、触れないことにした。
「ま、そんなわけでね、今だけ一緒にいてもらうジョシ。じーちゃん達、周りの奴らとはなんかオーラちげーって感じするし」
「ふむ、場違いな者同士、なるべく固まっといた方がよかろうな。ワシらにとってもここは敵地じゃ」
「ねー、こんな病院にいたら何されるかわかったもんじゃないジョシ。目ぇ覚めたらいきなり髪の毛勝手に染められてるし」
「え、それ自分でやったんじゃないんスか」
「うん、こんなん流行ってないジョシ」
「流行っとらんのか──」
星降の髪は明るい青緑色で、ところどころ茶色の水玉模様が浮いている。そういう奇抜なファッションが流行ることもあろう、と和厳親方は気にも留めなかったのだが。
「なら薬品の副作用か何かかのう」
「え、健康面が不安になってきたジョシ」
「お主を担当した医者は、人を救うことに関しては誠実そうな者じゃったから、命を危険にさらすものではないと思うがの」
「そう? そうかも──なんか馴染み深いっていうか、よく見たら悪い感じはしない色の気はするしジョシ」
「確かに何か見覚えある色っスね──」
「お待たせドスコいました」
そこへ暗黒デスウェイター力士が来て、大きな皿を星降の前に置いた。
「うぉっ──!?」
半球形の蓋が取られて出てきたものに、和厳親方は目を見開いた。
でかい!
「超高級天然素材チョコミントアイス。力士サイズでございます」
でかい! 直径一メートルの銀の皿の上、チョコミントアイスがでかい! バケツ何個分あろうかというアイスの山! 見るからに糖分の超暴力! 明らかに常人が食べるものではない!
しかし──!
「むっひょぉーぅッ! 大好物だジョシ──ッッ!!!」
ウェイターが下がるまでのわずかな間も待ちきれず、星降は添えられたスプーンを高々と掲げ、目を輝かせ、頬を紅潮させ、鼻息を荒くし、ぎらついた笑みを浮かべ、機械仕掛けの何かの装置のようなとてつもない勢いで、巨大なアイスにスプーンをザスザス刺しては、バクバクと口に次々と運んだ! そこに躊躇は一切ない!
「り、力士サイズを!? 常人の娘が──ッ!?」
和厳親方は、ドドドドド、と驚愕に汗を流した。
そして、
「ハッッ!?!?!?」
気付いた!
「髷──ッ! この髪は──髷ッ!?」
そう! 暴走する戦車の勢いで力士サイズチョコミントアイスをかき込む星降の、頭頂部からぴょこんと飛び出した髪の束──よくよく見れば、くるくると円筒状に巻いている! その形はまるで──
力士の、髷──!
(常人が食うのは不可能な量──じゃが、力士ならば可能──いやしかし、ついさっき見た時はこんな形ではなかった──常人の肉体がこんな短時間で力士化するなどありえるのか──?)
「髪──あーっ、そうかッ!」
龍角もすっとんきょうな声を上げた。
「この髪の色! チョコミントアイスと同じ色っス──!」
既に半分ほど食い消されたチョコミントアイス! 見比べてみると確かに、それは星降の奇抜な髪とそっくりな色をしているのだった!
その時──
「……………………」
スプーンをアイスに刺したまま、星降の手が、唐突にピタリと止まった。表情も訝しげだ。
「あ──ひょっとして、うるさかったっスかね──」
「食事中の絶叫は高級レストランにはよくあることとはいえ、慣れない者には不愉快じゃったか──」
そうではなかった。神妙そうな顔になった二人を、星降は一瞥もせず、皿の上のアイスにじっと怪訝な視線を向けていた。
「これ──まともなチョコミントじゃないジョシ」
「どういう──ことじゃ?」
「確かに不味くはないジョシ。でも、このアイスには──何か、いつものチョコミントアイスに必要な何かが、欠けているような──そんな気がするジョシ」
「そうっスか? 天然高級素材って言ってたっスけど」
「──! ぬぅ──」
和厳親方は、ある事実に気付いた。少し迷ったが──
残酷な事実を、伝えることにした──
「お嬢ちゃん──その、チョコミントアイスに必要な何か、じゃがの──それはおそらく──歯磨き粉、じゃ」
「は? ──は? 歯磨き──粉──」
星降が、ゆらり、と、静かに立ち上がった。
「歯磨き粉──と、言ったジョシ?」
歯磨き粉──
「チョコミントを──嘲笑ったジョシ?」
それは、チョコミントへの侮辱としてよく言われるものであった。チョコミントアンチが、チョコミントの味を貶める罵倒──
「許されざるチョコミント蔑視発言──生命が惜しくはないのかジョシ? 返答如何によっては棺桶丸水産ッッ!!!」
「ひっ」
龍角の背筋に冷たいものが走った。
ざわ…… ざわ……
星降の、あどけなくも美しい顔立ちに、ぎらついた殺気が満ちた。一見笑みを浮かべたかのような口元は、牙を剥く狼のごとき攻撃衝動に歪んでいる。ぱっちりした瞳は原始の野獣めいた、捕食者の眼光をたたえている。
それだけではない──
逆立っている。
星降のツインテールが、物理法則に逆らって、天に向かって逆立っている。
怒髪天を衝く──という言葉があるが、あまりの怒りのため、怒ツインテールが天を衝いているのだ! この世のものとも思えない超常ツインテール現象だ!
ザッ、ガタタッ──
フロアのそこかしこでウェイター力士達が足を止め、強者たる力士ならではの本能的な危機察知力で、星降がいる場所──突如として荒々しい精神エネルギーが噴出した方角を警戒した。
「蔑視ではない。嘲笑もしておらん。事実として、お主が普段食うておるチョコミントアイスには、歯磨き粉が含まれておるのじゃ」
「黙れッ!! よくもそのようなミントヘイトスピーチをッッ!!!」
「黙って聞けいッッッ!!!」
和厳親方もズンと立ち上がって一喝した。
野獣のごとき殺気が、元横綱の気迫に押し返され、星降は緊張に固まった。
「暗黒デス相撲協会が支配する今の時代──暗黒デス企業が息を吸って吐くがごとく不正を行っていることは知っておろう──その不正のひとつに、チョコミントアイスへの歯磨き粉混入があるのじゃ!」
「嘘だッッ!!」
「嘘ではない! お主とて普段、何の肉だかわからん謎の肉だの、安っぽい合成蛋白だのを食わされておろう? 今の世の中、まともな食材は暗黒デスセレブどもに買い占められておる──そこで暗黒デス企業は、高騰した食材の代わりに、色々とわけのわからんもんを下級国民向け食糧に混入したのじゃ。そうして作られたのが歯磨き粉チョコミントアイス! 普段からその味に慣らされていたお主は、本来のまともな素材のチョコミントの方をこそ邪道と感じる、いわゆる下級国民舌にされてしもうたのじゃ」
「なん──だと──ジョシ──」
「それが悪いとも、愚かとも言わん。ワシはお主を見下しはせん。真に悪く、愚かで、蔑まれるべきは、不正と貧しさを蔓延させておる暗黒デス相撲協会なのじゃ」
「くっ──ジョシ──」
和厳親方の語ったことは全て、暗黒デス相撲協会と戦う準備として集めた信頼性の高い情報、それに偽りなき本心であった。星降を騙す気も、愚弄する気も一切ありはしなかった。その真実をまっすぐに込めた視線から、星降は目を逸らした。
「チョコミントが──歯磨き粉──」
嘘ではない──本能的に確信させられ、殺気は溶け落ちてしまい、呆然と哀しげにうつむく少女の姿が残った。天を衝くツインテールも、ファサリ、と力なく垂れた。
「ああ──そのようなものを、この本物のアイスと同じ感覚で食うておっては、身体にどんな影響が出るかわかったものではない──」
残酷だとは思っても、和厳親方はそう告げざるを得なかったのだ──
いたいけな少女を騙していた暗黒デス企業、元凶である暗黒デス相撲協会に対して、和厳親方は怒りを新たにした──
その怒りを嘲笑うかのように!
「ククク──貴様ら、拘束するでドスコーイ」
迷彩服に迷彩マワシ姿の警備力士達が、食堂に大勢乱入し、三人の周りを取り囲んだ!
「拘束──じゃと? なぜじゃ?」
言いながら、和厳親方はジェン子から渡されたIDカードを懐から取り出してみせた。この病院の最高クラス権威の象徴! 誰の差し金の難癖であれ、病院内においてはこれで突っぱねることができる、絶対的なカードと期待してのことだった。
だが!
「そのカードが問題なのでドスコーイ」
警備力士のリーダーが、携帯式カードリーダーの読を和厳親方のカードにかざすと、エラー音がけたたましく鳴り響いた。
「期限切れ、もしくは偽物だということでドスコーイ」
「なん──じゃと──!?」
「こやつもでドスコーイ」
おろおろと落ち着きなくうろたえている龍角もカードを取り上げられ、エラー音がもうひとつ重なって調子外れなリズムとなった。
「違法カードを利用した無銭飲食の疑いで連行するでドスコーイ」
「そんな馬鹿な! 銭十字ジェン子から直々に受け取ったカードじゃぞ!」
「あいつら愚かにも暗黒デス相撲協会に逆らう奴らでセレブ」
「なるほど、暗黒デス相撲協会とズブズブゆえに協会メンバーを金目当てで負傷させるわけにもいかない銭十字病院にとって、闇討ちさせるのに都合がいい連中でセレブ」
「それを察した協会幹部の誰かが更に大金を積んでジェン子を買収、一度は手駒にするつもりだったあいつらを切り捨てさせたというところであろうセレブ」
「つまり、必ず最後に銭は勝つということでセレブ」
「やはり世の中は銭セレブ! 下級国民は愚かな養分セレブ!」
食堂内の暗黒デスセレブ達が、ひそひそと和厳親方たちを嘲笑した。
「くっ──あの医者、ワシらを裏切ったというのか!」
和厳親方は活路を求めて周囲を見渡したが、警備力士達の包囲は完璧で、円形のテーブルは360度全ての方角から、暗黒デス力士たちの猛牛をも殺す張り手の構えに包まれていた。龍角と星降を無事に逃がす方法は思い浮かばなかった。
「──頼むぞ、エレガント山──」
和厳親方と龍角は、今は理不尽な命令に従うほかなかった。
「この娘はよいのでドスコーイ?」
「放っておけと言われているでドスコーイ」
星降をスルーして、警備力士達は和厳親方と龍角を取り囲んで食堂を出ていった。
「暗黒デス相撲協会──か──」
彼らの背中を見送った後も、星降はしばらく立ち尽くしていた。
本物のチョコミントアイスは騒ぎの間に少し溶け、刺さったままだったスプーンが皿へ滑り落ち、カロン、と音を立てた。
「北区生まれ足立育ちが、来るような場所じゃない、か──」
星降は見下すような視線だけをアイスに向けた。チョコミント色のツインテールが、重力に逆らうように、一瞬ふわっと波打った。口元がかすかに笑ったような形になり、
牙を剥く狼のような攻撃衝動を、かすかに洩らしていた。