六ッ!
異様な──空間であった。
おそらく──広いのだろう。
だが、どれだけ広いのか──わからない。
生物の皮膚のような質感を持つ黒い床には、やはり赤・青・紫に光る臓物めいた管が這っている──それらが、百メートルほど続いた先で、霞んで見えなくなっている。
黒い、薄靄のようなものが、辺りの空気にじっとりと漂っているのだ。天井もかなり高いのだろうが、やはり百メートルより上が見通せない。
そして──暗がりの向こうからは、姿の見えないいくつもの気配が、射抜くような鋭さを放っている。
ウゥゥゥゥ──オォォォォ── ウゥゥゥゥ──オォォォォ──
遠くで獣の唸るような得体の知れない音が、絶え間なく、ゆっくりと、どこからともなく轟いている。
入口に立つ五里衛門は、悪そのものが気体となって吹き付けてくるかのような重圧感にたじろいだ。不気味! 常人ならば、五秒ともたずにおしっこちびるに違いあるまい──!
だが、何よりも異様なのは──
入口の数十メートル先の床に、スポットライトが浴びせられたかのように、紫色に一際強く光る一帯があった。
その光の中に、一人の男が佇んでいる!
この暗黒の不気味空間の中でなお、こともなげに、平穏に佇み、にこやかに笑う美青年が!
なぜ──人間が、このような場所で平然としていられるのか──!?
ゆったりと歩み寄ってくる美青年の姿に、五里衛門は総毛立ち、次第にはっきりとしてきた容貌に呻き声を漏らした!
「支配ヶ丘──貴一郎──ッ!」
「はい、そうです。私、支配ヶ丘貴一郎です。はじめまして」
こともなげに、にこやかに、美青年が名乗った、その名は──
縄文時代よりもはるか超古代より、日本を陰から支配してきた、歴史の闇に潜む超古代豪族・支配ヶ丘家の現当主! 彼らのまばたきひとつで政府や大企業の首はすげ替わり、寝言ひとつで世界のパワーバランスが変動すると言われる絶大な権力と莫大な財産を持ちながら、その存在は世界のトップシークレットとして巧妙に隠蔽され、権力者や富裕層のごく一部にしか知られていない! 闇の権力者としてのし上がった五里衛門も、その姿と名前のみを知ることしかできなかった、生きた伝説! その超権力者が、暗黒デス相撲協会幹部として、今、目の前に歩いてきているのだ! 五里衛門はカラカラに乾いた喉へ、かろうじて唾を送り込んだ!
「音織部五里衛門さん、あなたのような裏社会の有名人に覚えていただいて光栄に存じます」
嫌味だ──
貧困層に生まれた五里衛門は、世間に名を残せもせず平凡な群衆として死んでいくことを激しく嫌悪し、様々な悪事に手を染め、汚れた財を築き、裏社会に悪名を轟かせた。だが、闇の権力者として君臨した時、姿を見せぬ超権力者・支配ヶ丘家──その存在を初めて知り、五里衛門はやるせなさに襲われた。
なぜ、影の超権力者は、ただひたすらに影の中に居続け、明るみに出ぬことをよしとしてきたのか──
持っているからだ。最初から、何もかも、持っているからだ。
生まれついての超豪族は、最初から、財産に恵まれている。そこらの平凡な生まれの者のように、貧しい給与、貧しい生涯で手に入れられるものの少なさに気付き、絶望し、怒り、妬み、財力と権力と名誉に餓えた経験が一切無いのだ。五里衛門のように、のし上がろうとする欲望を持つこと自体が、支配階級との生まれつきの格差を表しているのだ。
その恵まれた超支配者が、社交辞令とはいえ、五里衛門相手にへりくだるという嫌味! 名を馳せる必要すらなかった者が、何も持たざるがゆえ必死に高めた悪名を讃えるという嫌味!
そう歪んだ解釈をした五里衛門の中にどす黒い熱が湧き、この異様な空間への恐怖を脇へ押し退けた。立ちすくんでいた足をようやく動かし、向こうへのしのしと歩いていく。
そのような感情に突き動かされる五里衛門は、周囲の黒い靄のような空気が、ぬるり、となめずるように蠢く感触には気付かなかった。
「ンなこと褒めんな。素性を広く知られてしまうのが悪党にとってむしろ三流の証拠なのは、アンタを見ればわかる」
足を止め、数メートルの距離で貴一郎と対峙した五里衛門は、腕を組んでふんぞり返り、いかにも横柄な表情を作ってみせた。体格に恵まれた五里衛門は、高身長美男である貴一郎よりもさらに少し高く、日頃鍛えた筋肉で膨らんだ横幅も広く、それこそ力士並みと自負している。細身の貴一郎にまず貫禄で負けてはいないはずだ、と自ら鼓舞する。
「ははは、これは手厳しい。しかし、そう言える胆力が頼もしくもあります」
「だろ? まぁ、これからアンタらのお役に立ってみせるさ。頼ってくれや」
言葉とは裏腹に、五里衛門はどす黒い視線を貴一郎へ向けた。
一応鍛えた雰囲気があるとはいえ、貴一郎は細身だ。体格は五里衛門の圧倒的有利。やろうと思えば、できるのではないか──?
この、鼻持ちならない、生まれつき超支配者野郎を──
殺す──
奪う──
この場で──!
ムクリと湧いた野望の視線に気付いていないのか、貴一郎はにこにこと穏やかに微笑みながら、白い超高級スーツの懐に右手を滑り込ませた。
「えぇ、是非ともよろしくお願いいたします。では、これからのご活躍に期待させていただき、ささやかではありますが──これを」
貴一郎は四角いものを差し出した。
大銀杏を結った髑髏が描かれた紙の、束──札束だ! 暗黒デスドル札の、札束だ! 一万暗黒デスドル──旧時代の貨幣で百万円相当の、札束だ!
だが! ズカズカと距離を詰めた五里衛門は、差し出された札束を、左手で勢いよく打ち、払い落とした!
「わぁ」と穏やかな顔のまま呑気な困惑の声を上げた貴一郎を、五里衛門は冷ややかに睨み付けた。
「金額がお気に召しませんでしたか。しかしこれ以外にもおわ──」
「金額じゃねぇーよ」
五里衛門は嘲笑に顔を歪ませた。
「今時現金なんてバカにしてんのか、ってゆーかお前バカか? 現金なんざ使ってんのはもう逝きかけのクソジジクソババくらいのもんだろうがよ。ンなモンプレゼントする神経と感性を疑うぜ、引きこもりのウスラボッチャンよぉ」
五里衛門は完全に貴一郎を見下した。
旧時代、かつてキャッシュレス決済が普及し始めた頃、経営者や投資家ら意識の高いスノッブ富裕層の間で、現金を使う者を進歩に取り残された愚かな賎民と嘲笑う選民思想が流行したのだ。彼らにとって、電子マネーの便利さを知らずコンビニで不便な小銭をやり取りする現金使用者とは、愚鈍と無能の象徴、侮蔑と憎悪の対象であり、口を極めて罵る言説がネット等に飛び交った。五里衛門もその精神性に染まった一人だったのだ。
「ハッ、こォんな現金使用者のウスラバカ原人が牛耳ってやがったなんてよォ……暗黒デス相撲協会もチョロいんじゃあーねーのか? あ?」
五里衛門の目がギラギラと見開かれた。今までうっすらとした劣等感を抱いていた反動で、貴一郎に対する強烈な攻撃衝動が燃え上がった。
超豪族、語るに足らず! 今こそ──下剋上の時!
力士の如く太い五里衛門の右腕が、貴一郎の首元へ伸ばされ──
ポテリ、と何かが落ちた。
「……あ?」
音につられて見下ろした黒い床に転がってるものが何なのかわからず、五里衛門は二、三度瞬きをした。
それは紫色の光に照らされているためか現実感がなかったが、しばらくして思い当たり、右腕を見た。
手首だ。
右腕の手首から先が、なくなっていた。
すると、床に転がっているのは、精巧なジョークグッズの類ではなく、
たぶん、本物の、五里衛門の、手だ──
「ひ、」
「お詫びなら、後で口座に振り込ませていただこうと思っていたのですがね。一万デスドルでは済まない金額ですから」
「おわ、おわ、おわっ、びっ?????」
アワアワと震えながら、五里衛門の目は、地に落ちた手と、相変わらずにこやかな貴一郎の間を交互に見て、白に黒に慌ただしく動いた。
「ほら、我々さっき、あなたが手配した暗殺オスプレイを破壊したじゃないですか。ドスゴイルのビームで。あれ、お高いんじゃないですかね?」
「あっ、あっ、暗殺──」
「はい、あなたが差し向けた暗殺者を乗せてたやつです。例のエレガント山、あの人を殺せば我々への手土産になるとお考えだったんじゃないですかね?」
混乱した五里衛門はこくこくとうなずいた。
「でも銭十字病院の救急車を襲わせたのはいけなかった。あの病院、我々も普段利用させていただいておりまして、雇った用心棒を救急車に付けて差し上げるくらいには懇意ですから、そういうことをされてしまっては面子が立たないもので」
申し訳なさそうに話す貴一郎に、五里衛門は引きつった口をぱくぱくさせた。
「しかし暗殺者は用心棒が全員叩き落として事なきを得ましたから、そういう裏事情をリサーチできなかったあなたのへっぽこスタンドプレイは不問として、オスプレイと操縦者を台無しにした弁償はさせていただくつもりだったのですよ」
そこで貴一郎はにっこりと笑った。
「もっとも、あのエレガント山、用心棒がいなくても暗殺者ごときにやられる力士とは思いませんけどね」
貴一郎の心底楽しそうな笑顔に五里衛門の心臓が凍てついた。
暗黒デス科学で超強化されたはずの魔改造力士達があっさりやられてしまうレベルの超相撲──その超絶級の戦いが、平然と、娯楽感覚でさらりと語られる世界──
それが、暗黒デス相撲協会!
五里衛門が踏み入れたのは、そのような暗黒の深淵だったのだ!
そして──
「──さて。救急車襲撃の件はそれでよしとして、もうひとつ──精算が必要な件がありますね」
「アッアッア、カ──カネッ!?!?!?」
五里衛門の奇声に、貴一郎はにっこりうなずいた。
奇声を上げるのも無理はなかろう。
常人に信じられる光景ではあるまい。
先ほど叩き落とされた貴一郎の札束──
その暗黒デスドル札がパララララと勢いよく空中へ飛び出し、まるで空を泳ぐ魚のように、シュルシュルと二人の周囲を旋回し始めたのである!
どう見てもまともな物理現象ではない!
「金は天下の回りもの。とはいえ金は回った末に、セレブの元へ帰りつき、セレブの懐を温める。そういうものです。つまり──現金はセレブに従う」
辺りを照らす紫色の光が、より一層輝きを増した。
「そして──我が支配ヶ丘家は古来より、日本中、いや世界中のセレブから嫁や婿を招き、セレブ婚を繰り返してきた──結果、遺伝的に血中セレブ濃度が高まり、ついには現金を自在に操るほどのセレブ力を持つに至ったのです。このように」
本をめくっているうち、いつの間にか指が切れていた経験はおありだろうか? 紙とは意外と鋭いもので、そのようなことはしばしば起こるのだ。
まして、暗黒デスセレブの、妖刀めいた暗黒デスオーラが込められた暗黒デス紙幣ともなれば──
二人の周囲を旋回する暗黒デスドル札のうち一枚が、目にも留まらぬ速さで五里衛門の頭部をヒュッとかすめ、ポトリと音がした。
耳が──落ちたのだ。
五里衛門は恐怖に叫び、右耳がさっきまであった場所を押さえようとしたが、押さえるための右手はもうなく、手首の切り口から赤い雫が虚しく垂れ流れている。その手首も、このようにして、気付かないうちに暗黒デスドル札で斬り落とされたのだ……ッ!
「さっきから見えているでしょう? 我がセレブボディから滲み出る、この、紫色の──暗黒デスセレブオーラ。この輝きの中で、我が支配ヶ丘家のしもべとも言える現金たちを侮辱されることは、少々面子に関わりますもので──」
貴一郎の微笑みには、先ほどまでの呑気さとはうってかわって、暗黒の圧力が込められていた。
五里衛門は踵を返し、走って逃げようとした。
その足に、素早く飛来した暗黒デスドル札がザスザスと刺さり、床へ縫い留められ、五里衛門はつんのめった。倒れ込みそうになった顔を、飛来した暗黒デスドル札が、たった一枚の紙切れだとは思えない力でバシリと叩き、反動で上体を反らさせた。
鼻血を流しながら引きつる五里衛門の顔を、ゆったりと回り込んできた貴一郎が覗き込む。
「お近づきの印に──と、せっかく用意していたのですがね」
貴一郎は懐から、札束をもうひとつ取り出した。
「札束とは我ら暗黒デスセレブにとって頼もしい武器。それを渡すことが親愛と信頼を表す暗黒デス作法とされてきたのですが──その価値がわからないセレブ力の不足。また、こんな状況でも襲い来る現金から身を守ることもできない実力の不足──あなたは暗黒デス相撲協会新幹部としてふさわしい人材ではなかった。擁護のしようもありません。残念です」
「ア、ヒ、ハ、」
死の気配。五里衛門の恐怖は、もはやまともな言葉にはならない。
貴一郎は、幼子に諭すような穏やかな口調で語りはじめた。
「故事に曰く──一円を笑う者は、一円に泣く」
「イ、イチ、エッ、ヤメ、」
穏やかな表情と裏腹の、暗黒デスセレブオーラの圧の高まりを本能的に感じ取り、五里衛門は恐怖の涙をこぼした。
「ならば、一万デスドルを笑う者は──」
穏やかなセレブスマイルが、その時、凄みのある暗黒デスセレブスマイルへと豹変した。
セレブとは──婚姻相手として、容姿、能力、ともに優れた人材が集まってくるものだ。代々のセレブである支配ヶ丘貴一郎の肉体には、一見ただの細身ながら、生まれつき、優れた先祖達の遺伝的な超パワーが宿っていた。
貴一郎は、その超セレブ筋力が備わった腕で、札束を無造作に振りかぶった。
「一万デスドルに、死すッッッ!!!」
パキィィィィィンンンン──
鋭く澄んだ衝撃波が辺りに広がった。
五里衛門の視界が横方向に超高速回転した。何が起こったのかわからないまま、五里衛門の意識は永遠に途絶えた。
ビンタだ! 貴一郎は、五里衛門を札束でビンタしたのだ!
札束ビンタ──それは、暗黒デスセレブの残虐な必殺の技!
超セレブパワーで思い切りビンタされた五里衛門の首が、独楽のように超高速回転し、ねじ切れ、竹トンボのようにズポンと飛び出したのだ!
残された胴体が後ろへ倒れ込む際、勢いよく傷口から噴き出た血飛沫のいくらかが貴一郎の方へ跳ねてきたが、すかさず飛んできた札が、払いのけるような動作の風圧で、白いスーツを汚れから守った。
ゴトン、ドサッ──落ちた生首と倒れた胴体の音が、黒い床に響いた──
残虐極まりない暗黒デス処刑! 一仕事終えた貴一郎は、五里衛門の凄惨な死骸を見下ろし、穏やかに微笑んだ! なんとおそるべき場違いな表情! 常人が目撃すれば正気でいられるであろうか!
さらに──
貴一郎は、信じがたい声を発したのだ!
「カーッカッカッカネッ! カーッカッカッカネッ!」
なんということであろう──これは──殺した五里衛門への嘲笑の声なのである!
ただの笑い声ではない──語尾に「カネ」と付いた笑い声!
そう、これは「金」を表している──つまり!
金の力、セレブの力によってこの世の全てを支配できるという暗黒デスセレブの驕り! その傲慢に歪んだ性根が、語尾となって表れているのである!
人の心は──そこまで醜くなれるものなのか! 心ある者が聴けば、嘆き、絶望せずにはいられまい!
だが、これが──これこそが──
暗黒デス相撲協会の幹部──世界の支配層の実態なのである──!