一ッ!
「さて、この取組──皆はどう見るかね」
落ち着いた色合いの高級家具をシックな間接照明が照らすアダルトでムーディなVIPルームの薄闇の中、甘く、それでいてよく通る美声が響いた。
「衆人環視の中、乱入者が暗黒デス横綱を倒す──協会の威信の失墜に繋がる、とでも下級幹部は思うであろうかね」
声の主は白い超高級スーツに身を包み、ふかふかの超高級ソファーに身を沈めた若い男。二十代の半ばをまだ越えていないくらいであろう。美声の主に似つかわしい、かなりの超美男である!
「また、一般の観客達は、派手な攻防に喜びもしたであろうな」
美男は視界の一点に注目し、ソファーから立ち上がった。細身だがひ弱さを感じさせない、スタイルの良い長身だ。数歩歩いて長い脚をかがめ、白くしなやかな指を伸ばした。
花だ──
柔らかな絨毯の上に、白いヒナギクの花が咲いている!
自然の摂理に従うならば、こんなところに花が咲くはずもない──
そう──これはエレガント! エレガント山が最初に見せた野の花々のイメージが、薔薇の壁と共に高濃度エレガント粒子によって具現化し、発生源であるエレガント山が去っても一部がしばらく解け残っていたもの──いわばエレガントの余韻なのだ!
「ふふ、エレガント力か──」
美男は穏やかに微笑み、エレガントの花を静かに手折った。茎の断面から、虹色のエレガント粒子がきらきらとこぼれる。
「だが、私に言わせてもらうならば、あれは全くの凡戦だった。金で命を買わず行司に裏切られたヘルマシーン乃海、金で命を買いヘルマシーン乃海の心を掴んだエレガント山──」
立ち上がり、語りながら、美男は後ろで結んだ黒く艶やかな長髪を揺らし、悠然と歩を進める。
「彼らは二人とも、金の使い方を知らない。あのような者達が、いくらあのような戦いを続けたところで──」
美男が向かう先は、部屋の端、試合場に面した超強化ガラスの傍、ずっと背を向けて立っている、一人の少女。
「僕達、そして君達が、本当に揺らぐことなどあるだろうかね──?」
そう身長の高くはない少女の、飾り気のない黒い髪に、美男はそっと白い花を挿し、にこやかに微笑んだ。
その時、異様なことが起こった──
なんと、少女の腰まで伸びた長い髪、その無数の黒い筋のあちらこちらから、黒い泡のようなものが、ふつふつと無数に湧き出している!
一ミリ未満から一センチ程度まで大小無数の、一切の光を反射もしない、完全な闇の塊のような丸いものが、音もなく、重力に逆らい、少女の髪の上を滑っていく──
行き着く先は、髪に挿された白い花! 黒い闇の泡たちは髪から花の表面を伝い、あっという間に埋め尽くす!
そして泡たちは、ずぶずぶと髪へ沈んでいくように姿を消す──その過程で、花の触れた部分を、音もなくスルリと通り抜け、後に丸い穴だけを残して消滅させていく! まるで虫食いだ! 花はあっという間に大部分を、黒い泡に喰い尽くされ、消失した。ちぎれた花びらが一枚、はらりと絨毯に落ち、細かく丸い穴がいくつも空けられたグロテスクで無惨な姿をしばらく晒し、虹色のエレガント粒子へと分解し、かき消えた。
このおそるべき怪奇現象──まともな人間のすることではない!
「弱ければ──喰う」
少女は背を向けたまま、感情の読めない声で呟いた。
「頼もしいね、魅禍虚様は──」
美男は微笑んで、少女──魅禍虚の頭を優しく撫でた。
魅禍虚の黒髪から闇の泡が再び湧き、美男の手をびっしりと覆った。
「わぁ」
手消滅の危機! にもかかわらず微笑んだままの美男は暢気な声を上げて跳びすさると、ただの水滴を払うかのような気楽さで、手を軽く振った。
闇の泡はあっさりと振り払われ、空中でスゥッと薄れ、かき消えた。
この時、美男の手は内側から滲み出る暗黒のオーラに包まれていた──!
「強ければ──喰う」
再び感情の読めない声を発してから、魅禍虚は肩越しに振り返った。
十歳かそこらのように見える。目鼻口、全ての要素があどけなくも美しく整った造形をしている──
だが、異様な容貌だ! なぜならば──
眼だ! 見開かれた眼の、黒い瞳が黒すぎる! 一切の光を反射しない、闇の塊のような完璧な黒! 世に「黒目」という言い回しはあるものの、普通ここまで徹底的に黒くなるものではない! これはどう見てもまともな人間ではない!
その異様な視線を真っ向から受け止め、それでも美男は悠然と優しげに微笑んだままでいた! こちらはこちらで、常人の反応ではない!
そんな美男の不敵さに、魅禍虚は紅い唇の端を吊り上げ、紅い舌でネロリと舐めた。
「金は使わないのか? 貴一郎──」
「今はその時ではないよ」
美男──貴一郎はハハッと笑ってかぶりを振った。
「今日は歓迎会──いや、そのまま緊急幹部会になだれ込むか。二人揃って行こうじゃないかね」
のどかになだめるような貴一郎の口調に、魅禍虚は気の抜けたような無表情となり、身体ごと向き直った。
長い髪に隠されていない正面から見ると、和装だとわかりやすい。巫女装束だ。だが、普通の巫女装束が白の衣と緋の袴なのに対し、魅禍虚は黒の衣と紫の袴だ。
「うん、それでこそいつもの調子だよ。魅禍虚様、今の試合に興奮していたのかね」
「あのエレガントの奴は──地下から出てきた」
「あぁ──そういうことか。“君達”に対抗できるかもなのかね。大変だ」
貴一郎は魅禍虚に背を向け、VIPルーム出入口──高級感溢れる落ち着いたデザインのドアへ歩きだした。
「幹部の皆ならすぐに推察できることではあるだろうけど、僕は一応黙っておくよ」
相変わらず穏やかな口調ではあるが、貴一郎の顔は、裏腹に、うって変わって、ニタァーリと嘲笑めいた笑みを浮かべていた。
このスマイルは邪悪! どう見ても邪悪! この顔を見られぬよう、貴一郎は背を向けたのだ!
「いずれ知れ渡るなら、語るも黙るも、いずれでもよい。いずれ、喰らう──それでよい」
相変わらず感情の読めない口調ではあるが、魅禍虚は闇の塊のような眼を見開き、ニタァーリと口を歪めていた。
このスマイルは邪悪! どう見ても邪悪! この暗黒感溢れる顔を真正面から見るのは、常人にはお薦めできない!
しかし魅禍虚はすぐに無表情に戻ると、貴一郎の後をゆったりと歩きだした。
この一室から動き出すふたつの悪、これらこそが暗黒の世に蠢き君臨するものたちなのだ──!