星空の夜、旅の始まり
少し残酷な表現が含まれています。
戦闘シーンもあります。
苦手な方はご注意を。
深い青。藍色とも呼ぶ色が、頭上に広がっていた。
そこに瞬く無数の星々は、様々な色、強さで輝いている。
こんな日も、変わらずに。
空を仰ぎ見ていた少女は、そっと視線を下げた。
どこまでも続く夜色の空。それは先の方で地面とぶつかる。
水平線を通り過ぎ、さらに顔を下に向けると湖が見えた。
その水も、青い。
空を映して、同じように数々の星たちが瞬いている。
綺麗だった。嫌になるほど。
今日は雨でも降ってくれればよかったのに。なんで最後に、このような景色を見せるのか。
冷たい風が吹く。それは足元の草を揺すり、裸足の少女の肌を撫でた。薄汚れた服と白色の髪が靡く。
寒い、とは思わなかった。その感覚ももうすぐなくなる。
ほうっと息を吐き、少女は足元を見る。眼下にあるのは、断崖絶壁といえる光景。
恐怖なんてものはない。むしろ、この時を待ち望んでいたかのように思える。
ようやく終わらせることができるのだ。もう、苦しまなくてすむ。
この世界にいるのは……怖い。
目を閉じる。
一歩、少女は足を踏み出した。
浮遊感。重力で下へと引かれる身体。しかしそれは、唐突に別の方向へと切り変わった。
「っ!」
誰かの息遣い。
同時に腕に鈍い痛みを感じ、それが何者かに掴まれたものだと気づいた時には、少女は仰向けに寝転がされていた。
驚いて目を開ける。
怒鳴り声が降ってきた。
「お前何をしてるんだ!?」
声の方に目をやる。
そこには、真っ黒の髪を肩の下まで伸ばした男が立っていた。濃い赤色の瞳が焦ったように揺れている。
少女は一瞬、その深紅に魅入ったがはっと我に返った。がばりと身を起こし、男を睨む。
「……誰? なんで助けたの」
「おい、どうして睨むんだよ。そりゃ、お前が落ちそうになってたからだろ」
「勝手なことしないで」
「勝手なこと? もしかしてお前、自殺しようとしていたのか?」
「だったら何。別にあなたには関係ないでしょ」
「いや、関係なくないね」
突然現れた男はきっぱりとそう言うと、少女の目の前でしゃがみこんだ。
「お前、今いくつだ?」
「……十六」
「まだ十六年しか生きてないじゃないか。もったいないだろ、こんな早くに死ぬなんて」
「だから関係ないって言ってるでしょ! 私の人生は私が決める」
「そうだな、お前の人生はお前のものだ。そこは尊重しよう」
「だったら……」
「ただし、生きていくんだったらな」
立ち上がり、男は水平線へと首を巡らせた。目を細め、言葉を紡ぐ。
「人はな、そう簡単に命を散らしちゃいけないんだよ」
「……そんなの知らないよ」
少女は吐き捨てる。
何も知らないくせに。
俯き、こぶしを握った。
「私には生きる理由なんてない。価値もない。いらない人間なんだよ。生きていたって、人と死の恐怖に晒されるだけ……だったら、死んだほうがましだ」
唇を噛みしめる。
思い出されるのはたくさんの嫌な記憶。汚物を見るような目。投げかけられる罵詈雑言。向けられる刃物。命の危機。傷つけられた、心と身体の痛み。
信じてた人に裏切られたショックや失望、唯一仲間だと思っていた者を失った絶望、孤独。それらすべてを、少女は覚えていた。忘れたいのに、忘れられずに。頭に、目に、心に、身体に、刻み込まれていた。
それら嫌なものから逃げる術はなかった。寝ても、楽しいことを探してもどこへ移動しても、それはこびりついて離れない。はがすことができない。
そうして少女はたどり着く。消えてしまえばいいんだと。離れないのなら、忘れられないのなら、消し去ってしまえばいい。自分の存在ごと。
人はいつかは死ぬ運命だ。早かろうが遅かろうが、変わらない。
生まれ変わりたいとか、そういう考えや欲もなかった。ただ消えてなくなりたい。魂も、何もかも。
沈黙。
ややあって、男のほうが口を開く。
「お前の想いはよくわかった」
「じゃあ……」
「だがな。お前は死ねば楽になる、それでいいかもしれないけどよ、周りのやつのことも考えろ。悲しむだろ」
「私には悲しんでくれる人なんていないよ。親も知り合いも死んだ。友達もいない。私を知っている人なんて、誰もいないから」
「いーや、いるね。俺が悲しむ」
その瞬間、顔色一つ変えなかった少女は瞠目した。思わず男を凝視してしまう。
男は笑うことも怒ることもせず、ただただ真面目な顔で少女を見下ろしていた。発せられる声にも、嘲笑や呆れなどの感情はまったく含まれていなかった。低くまっすぐ、少女の胸へと入り込む。
「今俺はお前の存在を知った。そしてお前に興味がある。そんなお前が死んでみろ、俺は悲しいぞ。だから、俺はお前を死なせたりはしない。もちろん、お前以外もだがな。決して、俺の目の前で人が死ぬのは許さない」
「な、んで……なんでなの!?」
気づけば、少女は叫んでいた。月の光を反射して金色に光る眼を大きく見開き、噛みつくかのように男に言葉を飛ばす。
「簡単に悲しむなんて言わないで! 今あったばかりのくせに! 私の何がわかるの!?」
頭に血が昇っていくのがわかる。久しぶりに大声を出したからか、喉が痛んだ。
めまいを感じながらも、少女は強い眼光でどこか遠くを睨みつける。
「生きていても辛いだけなの! 苦しいの! なんでこんな思いをしながらも生きてなくちゃいけないの!?」
息を乱し、興奮を抑えるかのように自分の胸元を握りしめる。それでも声はやまない、止められない。溢れた感情が口から吐き出される。
「こんな世界になんか生まれたくなかった! 嫌な思いをするのはいっつも私で……私が何をしたっていうの!?」
静かな夜に絶叫にも似た声が響き渡る。そこには、少女自身も気づいていない、悲しみや寂しさという感情も含まれていた。
少女の想いは続く。
「ここに来てからさんざん痛みつけられて馬鹿にされて脅されて弄られて……もうたくさんなんだよ! いつかは何も感じなくなると思ってた。だけどそんな日は一向に来ない。だから……!」
顔があげられる。男を見上げる、月と同じ色の瞳からは涙が溢れ出していた。まるで晴れわたった夜に雨が降るかにのように。
「だから……もう私には死ぬしかないんだよ……やっと、やっと解放されるんだよ……? この苦しみから……」
先ほどとは打って変わって、今度はか細い声が空気を震わす。弱々しいその声音には、少し幼さが残っていた。
落ち着きを取り戻したのか、少女は透明な雫を滴らせながらスンと鼻を啜った。
少し間をおいてから、今度は呟くようにして言う。
「私は帰るの。元居た世界に。悲しみも苦しみも何もない、無の世界に。そこが、私の居場所だから」
再び、静けさが戻る。
ずっと黙って少女の言葉を聞いていた男は、その目を星空へと向けた。しばし考えこみ、だけどまた少女へと視線を戻す。
首が、横に振られた。
「……それでも、俺はお前を死なせない」
「っ……」
少女は愕然と目を見張った。
期待したわけではない。わかってもらおうと思ったわけではない。けれど、ここまではっきりと否定されるとは思っていなかった。
ただ死なせてくれるだけでいいのに。放っておいてほしいだけなのに、なぜこの男は執拗に構ってくるのか。
男をねめつける。
赤と金が絡み合う。
男の口が動いた。
「それでも、どうしても死にたいというのなら、俺を殺してからにしろ」
「な……」
絶句する。この男は何を言っているんだ。
けれど、男の眼は嘘をついていなかった。その右手が腰に下げられた剣へと伸ばされる。
目線も、少女の腰に向けられた。
「そこまで酷い目に遭っていながらもお前は生きているんだ。少しは戦えるんだろ? 武器も持っているようだしな」
すらりと剣が抜かれる。銀色の刃が、月明かりを反射して鋭く光った。
向けられた殺気に少女はとっさに反応した。ベルトにつけていた短剣を右手に握り、男から距離を置く。
相手は剣を胸の前あたりで水平にしながら笑みを浮かべた。
「いい反応だ。やはり、剣技は身に着けているようだな」
「どういうつもり?」
「さっき言った通りさ。俺はお前を死なせない。つまり、俺がいる限りお前は死ぬことができない。だったら、お前がやることは一つだろ。俺を殺してから死ぬ。俺が死ねば、お前の自殺を止める者はいなくなるからな」
「あなた、殺されてもいいの?」
「俺は……死なねえよ」
ギラリと、男の眼が不気味に光った。
鳥肌が立った。男が放つ殺気に後退りしたくなる。
けれど少女はその恐怖を振り払った。キッと睨みつけ、短剣を構える。
こんな殺気など、慣れている。これくらいの恐怖、何度味わってきたか。
少女が動く。
「はっ!」
一息で男との距離を詰めた少女は、首筋狙って短剣を振った。狙い通りに首へと吸い込まれた短剣だったが、目的へと届く前に相手の剣に受け止められる。
キィン!
甲高い音が鼓膜を震わす。
しかし、簡単に殺せると思っていた少女ではない。すぐさま体制を低くし、足元狙って攻撃を放つ。
下げられる足。短剣が空を切る。すぐさま相手の蹴りが襲ってきた。
「くっ!」
肩を蹴られる。小さな身体が後ろへと吹き飛んだ。地面を二、三回転がる。
その途中で体勢を立て直しした少女だったが、ようやく勢いが収まった時にはもう、男は目の前まで迫ってきていて。
長い剣が横に振られる。
ブンッ――
鈍い風の音と共に迫ってくる得物。それを、少女は紙一重で伏せて躱した。斬られた白髪が宙を舞う。
前かがみになった勢いで今度は男の足の間へと転がり込んだ。
「ふんっ!」
男の後ろへと回り込んだ少女は素早く短剣を逆手に握ると、男に背を向けたまま後ろへと腕を引いた。
肉を切り裂く音が耳に入り込む……かと思いきや、その時は来なかった。後ろへと振った剣はまたしても避けられてしまう。
はっとして振り返った時にはすでに遅く、少女は腹を剣の柄で殴られていた。
「か、はっ……!」
肺の空気が一気に吐き出される。あまりの痛さに膝をついた少女はすぐさま空気を取り込もうとしてせき込んだ。
赤い液体が地面に染みを作る。
どこかを切ったのだろうか。口の中に鉄のにおいが広がった。
「あ、わりい! ちょっとやりすぎちまったな」
立てずにいると、慌てた男の声が聞こえた。
彼は、心配そうにこちらの顔を覗き込んできた。
「おい、大丈夫か? 息できるか?」
「どういう、つもり……?」
「どういうつもりもなにも、俺はお前を殺すつもりなんてねえからな。少し止めるつもりでやったら、力が入っちまった」
温かい手が背中を支えてくれる。
息を整わせる少女を見ながら、男はふっと苦笑した。
「けど、お前言ってることとやってることが矛盾してるな。口では死にたいとか言いながら、いざ殺られそうになったら身体が逃げてる。ほんとは死にたくないんじゃないのか?」
「ち、がう……痛いのは、嫌なだけ……」
そう、死にたくないわけじゃない。
まだ生きたいと思っていた頃、痛みや苦しみから逃れるために自然と身についたものなのだ。
けれどこんなの、自分で止められる。すべてから逃れるためならば。
――私は、死ぬんだ。
ふっと、周りの音が聞こえなくなった。
俯きながら、少女は短剣を持つ手に力を入れる。剣先を腹に向ける。
そして……息を止めると共に一気に腕を引いた。
「っ!」
耳に不快な、嫌な音。滴り落ちる、赤い液体。
確かにそれは少女の耳に入った。目に見えた。しかし……。
痛みが、ない。
「え……!?」
手元に目を向けて状況を理解したとき、少女の喉から声が漏れていた。身体が震え、心臓が激しく脈を打つ。
少女は、抱きしめられていたのだ。男の腕の中に。
そして、自分の腹を刺そうとしていた短剣は、深々と男の脇腹に突き刺さっていた。
「ふ……っ……」
耳元で男の荒い息が聞こえる。
少女ははっとして短剣から手を離した。どうしていいかわからず、両手を宙に浮かせたまま唇を震わせる。
男は少女の動揺を察してか、ぽんとその硬直している肩に手を置いた。
「落ち着け。俺は大丈夫だ」
そうしてゆっくりと身体を離すと、短剣の柄を握って引き抜いた。
ぼたぼたと血が流れだす。彼は少し顔をゆがめながらも来ていた上着を脱ぐと、止血するように腹に巻き、傷口の上できつく縛った。
「っ……よし、と。まあ、これで今日のとこはしのぐしかねえか」
額に汗を浮かべながらもそう笑うと、男は地面に腰を下ろす。そして、近くにあった木に寄り掛かった。
少女は何もできず、ただその姿を見つめていた。
男の方も、少女のやった行動を気にするそぶりはなく、ふうと一息ついくと、持っていた短剣を一瞥した。そして、何を思ったかべっとりと付着した血を腰に巻いた上着でふき取り、少女の足元へと転がした。
「ほらよ、返す。大事に持っとけ」
「どうして……?」
「それがねえと、俺を殺せねえだろ?」
にやりと笑う男に、ぼーっとしていた少女は我に返った。イラつきを感じ、今すぐ殺しに行きたい衝動にかられてぐっと腰を浮かす。が、先ほど殴られたところに鈍い痛みが走り、再び膝をついてしまう。
男はひらひらと手を振った。
「やめとけやめとけ、今は無理だ。結構思いっきり殴っちまったからな」
「く、そ……」
「睨むなって。やる気になるのはいいが、今日は諦めろ」
「っ……」
「もう俺は寝るぞ。お前も疲れたろ。今はとりあえず寝ろ。続きは朝になってからな」
そう、男は言いたいことだけ言うと木に身を預けて眠りについてしまった。少しして、風と共に寝息が聞こえてくる。
少女は短剣を持ち、奥歯を噛みしめた。
本当に、今すぐこれを心臓に刺してやりたいと思った。なぜ先ほどはあんなに怖がってしまったのか。人を、殺すことに。
けれど今は、男の言う通り動くことが出来ない。少女は仕方なく地面に寝転がり、目を閉じた。
疲れていたのだろう。少女の意識はすぐに闇の中へと引きずり込まれていった。
しかし。
ずっと心の中に閉じ込め、封印させていた記憶を思い起こしてしまったからだろうか。
ふと闇の中に、ひとつの光が浮かび上がった。ゆらゆらと揺らめくオレンジ色の光。
否……赤い、火。
それは次の瞬間、大きく燃え上がる。
眼前に真っ赤な光景が広がった。燃える家々。動物。人……。
悲鳴が上がる。叫び声に、怒鳴り声。
少女は動くことが出来なかった。炎の渦から、目が離せない。
火の勢いはさらに増す。飛び散った火の粉が、こちらへと飛んできた。
燃え上がる衣服。肌。
頭が真っ白になる。
――熱い。熱い! 誰か……!
ようやく声が出た。熱い空気を吸い込み、激しく咳込みながら助けを呼ぶ。
人を見つけた。燃える身体をなんとか動かし、這いつくばるようにしながら助けを求めた。
相手は少女の姿を確認すると、ヒッと顔を引きつらせた。
――来るなっ、化け物!
――え……?
振り下ろされる、刀。
少女は呆然と、自身に襲い掛かった男の攻撃を見つめていた。
血が舞う。襲い来る、激しい痛み。拒絶された、心の痛み。
それと同時に、今度は人々の声が少女を襲った。
疫病神。お前のせいで。消え失せろ。二度と現れるな。
死ね。
目の前が真っ暗になった。
熱さも痛みも、何も感じなくなる。
気が付くと、何もなくなった地に少女は一人取り残されていた。
誰の声も聞こえず、自分の声も届かない。深い深い闇の中で、ただ独り……。
その時、その闇に差し出される手があった。
はっと顔を上げ、その手を取る。
闇の中から、一人の男の顔が浮かび上がった。
男は少女を舐るように見て言った。口元を嫌らしくにやつかせて。
――こいつは売れるな。
「ひ……っ!!」
声にならない叫びをあげ、少女は飛び起きた。
先ほどまで見えていた男の姿が消える。
代わりに視界に入るのは、眠る前と変わらない青い夜。
静かな空間に少女の荒い息が溶け込む。
人によっては寒いと感じる冷え切った夜だというのに、少女は汗ばんでいた。服が肌に張り付く。
あの悪夢のせいだ。しばらく、あんな夢は見ていなかったのに。
しばらくすると少しずつ心臓は落ち着いてきたが、少女の頭の中では過去の記憶が鮮明に蘇っていた。男に話した時よりもずっと濃くはっきりと。
捨てられ、焼かれ、拾われ、売られ、蔑まれ……逃げて、追われる。どの記憶も、やはり消し去ることが出来ない。こうして不意に呼び起こされてしまう。この呪縛からは一生逃れられない。
声も光さえも届かない深い闇の中、たった独りで誰かを求め、助けを乞い、期待に裏切られ、絶望する。そんな人生には、もう疲れたのだ。
今はただ、ゆっくりと休ませてほしい。自分はこんなに頑張ったではないか。これ以上、もう動きたくはない……。
ゆらりと、少女は立ち上がる。
一瞬だけ眠る男の姿が見えたが、殺す気はすでに失せていた。それに、今攻撃をしかけてまた止められてしまったら面倒だ。
崖際に立つ。月が沈んでしまったためか、眼下は黒い闇に追われていた。
自分は、眠るのだ。今よりももっともっと深い闇の中で。何も感じないところで。永遠に。
この世界から、消えるように。
地面を蹴った。今度は目を開け、闇を見つめて。
ぶわっと強風が身体を襲った。髪が逆立つ。闇が近づく。引っ張られる、自分の身体。
視界が回った。闇が星空に変わる。きっとこれが、最後に見るものとなるだろう。
そうして少女が目を閉じようとしたとき。
ふっと、黒い影が宙に飛び出してきた。
ものすごい勢いで近づいてきたそれは少女の元にたどり着くと、ばっと腕を伸ばす。抵抗する余地のなく引き寄せられると、そこでようやく相手の顔を確認できた。その時には、少女はそれに抱えられていた。
ドボン。
湖に到着する。視界が歪み、水が肺に流れ込んできた。
目の前に来た赤と目が合う。それは……少女を追いかけて来た男は、慌てた様子で口を動かした。
――少し我慢してろ!
声は聞こえなかった。けれど、そう言ったのはわかった。
大きな手が、少女の腕を強く掴んでいる。離すまいと、必死に。
その姿を見て、少女は今までとは別の感情が沸き上がってくるのを感じた。悔しさ、怒り、悲しみとは別の、ナニカ……。
水の流れと逆に進んでいく。徐々に、陸と思われる影が近づいてきた。
それに伴い、少女の身体からは力が抜けていく。
不意に、思いっきり引っ張られた。
水面上に顔が出た。
「ぶはっ……かはっ、はぁっ……!」
今度は肺が空気を吸い込もうと水を外へと押し出す。
男の声が聞こえた。
「平気か!? 待ってろ! 今、引き上げるからな!」
返事はできなかった。顔全体が、痺れていた。
水温が低いせいもあるのだろう。呼吸が浅くなり、その息が震える。
朦朧とした意識の中、少女は素早く水から引き上げられた。
地面へと降ろされ、屈み込んだ男が声をかけてくるのがわかった。だが、少女の身体からは徐々に力が抜けていく。
このまま死ぬのだろう。少女はそう思った。眠るように死ねるのなら、本望だと。
けれど、そう思っていた少女の意識は次の瞬間、覚醒する。
ぼんやりとした視界に、突如炎が揺らめいたのだ。
「嫌っ!」
咄嗟に身体が動く。短剣を抜き取り、目の前の炎を薙いだ。
「うおっ!?」
同時に聞こえた男の驚く声。
はっとしてそちらに目を向けると、仰け反る男がいて。
彼は目を丸くして少女を見た後、安心したように息を吐いた。
「そんだけ動ければ大丈夫か」
それから、少女の険しい顔つきを見たのか、はっとしたような顔になる。
「あ、悪い、お前火が苦手だったんだな。温めようとしたんだが……」
刹那、少女の怒りは爆発した。
「勝手なことしないでって言ってるでしょ!?」
不満をぶつけると共に男の脇へと躍り込み、短剣を振るう。
咄嗟の攻撃だったのにもかかわらず、男はそれを軽々と交わした。それでも少女は怒りに任せて飛び上がり、蹴りや拳を交えながら男を襲う。
「さっきから私の邪魔をして、あんたなんなの!? やめてよ! お願いだから放っておいてよ!」
「嫌だね。俺は死にそうな奴を放っておけない質なんでね」
「親切のつもり!? 余計なお世話なんだよ! 迷惑なんだよ! 誰もそんなの求めてないの!」
「んなこと言われてもなあ。俺は俺のやりたいようにやってるだけだ。お前も、お前もやりたいようにやればいいんじゃないか?」
「はあ!? それをあんたが許してくれないんじゃない!」
「許してるだろ。今の状態がまさにそうだ」
「どういうこと!?」
「つまり、お前は今みたいに俺を殺すために生きればいい。それを目標にしてな」
「え……」
「隙あり」
「うわあ!?」
相手の発言に手が緩んだ拍子に、少女は地面へと仰向けに転がされてしまった。力が抜け、短剣を落としてしまう。
男は素早くその剣を遠くへと蹴り飛ばす。
少女はあっと声を上げて短剣へと手を伸ばした。が、ふっとその手から力を抜いた。
不思議に思ったのか男が下に目をやった時には、少女は腕と足を投げ出した状態で空を見上げていた。
少女の顔が歪む。
「……ねえ、やめてよ……そんな言葉、聞きたくないんだよ……」
彼女の心には、もやもやとした何とも言えない感情が渦巻いていた。
先ほどの、男の言葉で。
男は少し眉を上げると、しゃがみ込み、少女の顔を見やった。
「そんな言葉って、俺を殺すために生きればいい、ってやつか?」
「そうだよ……いらないよ、そんな目標。わたしはもう、何もいらないの……」
今まで、何度か与えられるものもあった。そしてそれに、素直に喜ぶ自分がそこにはいた。けれどその感情はすぐに、悲しみや絶望へと塗り替えられる。期待した分、大きなものへと。
だからもう、何も受け取らないことにした。もらったものはすぐに消え去る。期待すれば、傷つけられるだけだ。
優しさも、楽しみも、希望も、何一ついらない。
「私はただ、消えたいだけなの……!」
そう、懇願する。
もう、やめてほしい。自分を引き留めるのを。
消えようとしている自分を、見ようとするのを。
けれど。
この男は、じっと少女を見つめ続けていた。今までで一度も見たことがない、柔らかい瞳で。
ギュッと心臓が締め付けられる。
「あなたは……なんなの……」
降り注ぐ男の視線に耐えられなくなり、少女は顔を手で覆った。
この胸の苦しみはなんなのだろう。この、嫌ではない小さな痛みは。
酷く泣きたくなる、切なくもなる、これはいったいなんなのだ。
こんな感情は知らない。知りたくもない。
これ以上、苦しめないで欲しい。不快だ。
それなのに……。
「俺はお前を消しはしねえよ。お前が嫌だといってもな」
「なんで……なんでぇ……」
涙が溢れ出す。
男の言葉が、今は何故だか心に突き刺さる。心に、染み込んでいく。
それが悔しい。悔しくて仕方がない。それなのに、何故だが強く拒絶できない自分がいて。それが、苛立たしい。
すっと、目の前に手が差し出された。
「ほら、泣くな。泣いてたって、俺を殺すことはできないぞ」
「……ねえ、私はどうしたらいいの……?」
泣きながら、少女はそう尋ねていた。
生きたくない。でも死ぬこともできない。そんな自分は、この先どうしたら……。
男は、フッと笑った。
「なら、俺と一緒に来るといい。俺は今この世界を巡る旅をしているんだ。お前にも見せてやるよ。この世界を」
「一緒に……?」
頷き、男が遠くを見る。その目は、期待と楽しみで満ちていた。
「この世界はそんな悪いものじゃないぞ。いろんなものを俺と見て回ろう。そんで、その途中でどうしても死にたくなったら、俺を殺しに来るといい。どちみち、俺がいる限りお前は死ねねえからな」
視線が戻される。
少女はその、自分が映り込んだ赤い瞳を見ると、腕を伸ばして男の手を取った。起き上がりながら、小さく首肯する。
「……わかった。行くよ。でもっ!」
手を引かれながら、逆の手で拳を作って放った。パシリと受け止められる。
金色の眼が鋭く光った。
「私が一緒に行くのは、あなたを殺すためだから。こんな世界、興味なんてない」
「ふっ……それでいい」
「言っとくけど私、何かに襲われたとき、進んで殺されに行くから」
「望むところだ。俺は全力でお前を守るとしよう」
ふと、二人の間に光が差し込んだ。
顔を上げる。
太陽が昇り始めていた。朝日が二人を照らし出す。
光を受けながら、少女は男を見上げた。
「ところであなた、名前はなんていうの?」
「ああ。そういえば名乗ってなかったな。俺はな……」
男は名乗る。夜、という意味の古の名を。
「お前は?」
「私に名前はないよ。誰も、呼んでくれなかったし。もう、忘れたから」
「なら俺が名付けよう。そうだな……」
そして男は少女に名を授ける。星、という意味のこもった名を。
ここから、二人の旅が始まる。
草木を撫で上げ、湖を反射してキラキラと輝く朝の光は、今までで一番綺麗だった。
その景色を眺めながら、少女は小さく……少女自身が気づかないほどほんとうに小さく、微笑みを浮かべたのだった。
空が、二人の旅の始まりを祝福していた。
今のところ続きを書く予定はありません。
が、書いてたら楽しくなってしまったのでもしかしたら書くかもしれないです(笑)
二人の物語が浮かんだらですが……。
よかったら気長にお待ちくださいね。